繁俊の日記から⑨/太平洋戦争最後の半年/昭和20年8月前半の記録
☆註 8月 1日/新潟、長岡空襲死者1488人、富山大空襲死者2275人(地方都市最大規模)
5日/群馬前橋、高崎空襲死者1323人
7日/愛知、豊川空襲死者2477人
8日/福岡、八幡大空襲死者2952人
8月9日
☆註 8月9日/ソ連満州への進攻、長崎市への原爆投下死者70,00人。
○富山市の爆撃(☆8月1日)は甚しかりし様、そのため下伊那に入る米来ず、また1割の供出米が決定される由。
☆註 9日/岩手釜石艦砲射撃、死者300人以上
8月10日
☆註 13日/御前会議で「ポツダム宣言」の 受諾を決定。
☆註 14日/山口、岩国大空襲死者517人。
8月15日
☆註 正午、天皇による「玉音放送」によって「終戦」が国内外に伝えられる。
10時頃に村役場より市村宅に電話ありて、本日12時より天皇陛下の御放送あり、重大放送あるにつき皆々聞くべしとある。寿美子別家より帰り、既に昨夕、畏き(おそれおおき)御放送ありと予告もありしという。
#国としては悲しき結果なるも、個人々々としてはホッとした1種の安定感を得たること。
8月16日
○8月14日に新盆とて中屋に行き、飯田郵便局に出ているじいさんに会った。曰く、広島の新型原子爆弾は一挙に20万人死せし由。
☆註 日本への空襲8月15日の当日まで続き、内地では200以上の都市が被災、被災人口は約970万人、被災面積は約1億9100万坪、内地全戸数の約2割にあたる223万戸が被災、死者数は約56万3,000人。(朝日新聞社調べ)
東京への空襲、区部の空襲は60回以上。東京都全体での空襲は100回以上、確認された遺体は約10万5,400人、負傷者、約15万人。罹災者、約300万人。罹災住宅約70万戸。焼失面積、区部の市街地の約50%。(戦災資料センター調べ)
B29爆撃機/前年11月からの10ヵ月間で、延べ17,000機来襲。日本の陸海軍本土防空部隊が撃墜したB29は485機、撃破したのは2707機。戦死した米軍搭乗員は3041名。(米国戦略爆撃調査団の統計)
空襲警報/本土防空用にレーダーを組み込んだ早期警戒システムを整備した。しかし各地に設けられた、軍民双方の対空監視哨(目視にて敵機を監視する見張り台)と司令部間の通信設備の不備などから、日本本土空襲では必ずしもうまく機能しなかった。
太平洋戦争での日本の死者/軍人軍属等約230万人、外地邦人約30万人、内地戦災者約50万人合わせて310万人(厚生省 )
第二次世界大戦(1939年9月から1945年9月)の死者
【枢軸国側】
日本 310万人
ドイツ 689万人
オーストリア 118万人
イタリア 43万人
その他 163万人
【連合国側】
ソ連 2060万人
中国 1321万人
ポーランド、 603万人
アメリカ 29万人
アジア太平洋各国
朝鮮20万人
台湾3万人
フィリピン111万人
ベトナム200万人(餓死)(ホーチミン発表)
ビルマ15万人
マレーシア、シンガポール10万人
インドネシア400万人
インド150万人
オーストラリア2万
ニュージーランド1万人
(人間自然科学研究所調べ)
計6517万人
外壁を残して全焼した歌舞伎座
<続く>