「姫たちの落城」転生、明智玉から細川ガラシャ
細川ガラシャは細川家記には「細川伽羅奢(舎)」と記している。両親が名付けた明智玉(珠)の「玉」という字は、貴重なもの、賜物という意味合いをもつ。また、洗礼名「ガラシャ」はラテン語のGratia=グラティア(恩寵、恩恵)、スペイン語の「グラシア」に由来する。つまりガラシャという洗礼名は、玉という本名から意訳された名前である。ガラシャは父明智光秀の謀叛により、夫細川忠興との婚姻関係が解消されていれば、大坂の細川屋敷で壮絶な死をとげることはなかった。忠興の正室であったことが、石田三成から西軍の人質として狙われ、それを拒んだ結果が自害となった。
美濃から越前に逃れてきた光秀は、この地で三男四女を設けたとされている。母方の縁を頼りに浪人中であった光秀は、生活のため門前で寺子屋を開いて生計を立てていた。玉は光秀の三女として、永禄3年(1563)この地に生まれた。光秀はまだ信長に仕えていない。信長が上洛を目指す過程において、信長に仕え頭角を現していった。玉は大きくなるにつれて、美しい少女になっていった。ある時玉は父母のいる前で「お母さまのお顔はでこぼこして可笑しいこと」と、母煕子が若い頃患った痘瘡の傷痕をからかった。玉の自己の美しさへの自信、奢りの表れであった。この一言を父光秀は厳しくたしなめた。「お前は自分が美しいと思い、傲慢な気持ちになっている。謙遜ほど人間を美しくするものはない。逆にいくら見目形が整っていようとも、お前のように思いあがった者ほど醜いものはない」光秀はこの娘は自分の容姿にうぬぼれて、人生をしくじるかもしれないと、玉の将来を危惧した。「明智軍記」第9巻には「細川忠興ノ室ハ容色殊ニ麗シク 糸竹呂津ノ習ビ(琴や笛の演奏)モ妙ナリ」とある。当代随一の文化人といわれた舅の幽斎にとっては、一入最愛の嫁であった。夫である忠興も玉の容姿に心を奪われ、美しいというよりももはや神に近いように思われたとしている。玉は細川家にとって上司光秀の娘であり、優れた資質を持った申し分のない嫁、妻であった。しかし、世の中には細川父子のような人間ばかりとは限らない。女の表面的美醜にこだわることなく、その内面を見て、その人間を評価する人間もいる。キリシタン大名で最後まで信仰心を持ち続けた、高山右近もそういう人であった。忠興が右近から聞いたキリスト教の話を、忠興は玉に話してやった。玉は右近からも熱心にキリスト教の話を聞き、右近にも興味を抱き始めた。しかし、右近は通常の男なら抱く玉の美貌に無関心であった。そのことは玉を苛立させた。玉は思った。「今迄誰もが私の美貌に感動し、私をもてなし大事にしてくれた。なのにこの男は私に無関心でキリスト教の教えばかり説いている」玉の美人意識、ナルシズム、傲慢さを、右近は玉への無関心を装うことで打ち砕いた。こうなると惚れた方が負けである。玉はますます右近に引き寄せられ、キリスト教にのめり込んでいった。
話は少し戻るが、天正6年(1578)玉は信長の勧めにより細川忠興と結婚した。この時共に16歳であった。明智家と細川家との連携を強くするための政略結婚である。結婚時の居城は勝竜寺城(長岡京市勝竜寺、JR歩15分)、翌7年に長女長、8年には長男忠隆を産んだ。丹後の宮津城が出来上がり、細川家の丹後支配が始動し始めた天正9年3月には家族は城に入っていった。この時期、玉は各地への合戦や馬揃えに忙しい父子を支えるため、女主として、武器や戦闘食糧の準備や管理、家臣やその家族たちへの気配りなどをこなし、玉にとっても充実した毎日が続いたが、玉は丹後の宮津城と大坂玉造にある屋敷を往復するだけで、殆ど外へ出る事はなかった。こうした中の天正10年(1582)晴天の霹靂(へきれき)が起こった。6月2日、父光秀が主織田信長に反逆、いわゆる「本能寺の変」が勃発した。光秀は何の成果を示さぬうちに、「山崎(京都市乙訓郡)の戦い」で破れ、坂本城に戻る途中であっけなく土民に殺され、明智一族は滅亡、玉だけが生き残った。「本能寺の変」が起きると、細川家では家存続のため、父藤考は光秀に協力しないという意思表示として、隠居して忠興に跡を譲り、名を幽斎と改めた。忠興は玉と離縁して、丹後半島の山の中、味土野(京都府京丹後市弥栄町(やさがちょう)に幽閉した。玉は宮津から日置まで若狭湾を渡り、ここから山越えしてきたとされる。城からは距離的にはさほど遠くないが、この地は約400年前には、平家の落人がここを拓いたという伝説も伝わる険しい山奥であり、冬は2mもの積雪がある極寒地帯である。
玉は配流された味土野で約2年間生活した。玉は謀叛人の父を持った以上、そう簡単には戻れないであろうと覚悟していたし、それ以上に命もとられる危険も感じていた。この時期、丁度次男を妊娠中であり、ここで出産、育てることでそうした思いから少しでも逃れることができた。精神的にも肉体的にも疲れ切った玉は次第に宗教に傾倒していった。一方、忠興は全く玉を見捨て疎外する事は出来ず、玉の存在をなるべく天下人になりつつある秀吉の目に留まらぬよう、頭の隅に浮かばないようにするために、玉を世の中から隠した。それ以上に妻を失うことを恐れて、外界から玉を守ったという見方もできる。幽斎と名を変えた父は、田辺城(舞鶴市)に移って行った。忠興は2人の子供たちや側室たちと一緒に宮津城に、玉は味土野に配流されていた。こうして丹後国の細川家は、山城国勝竜寺城時代とは異なり、領国を得た代わりに、一族家臣は分散して暮らしていた。天正12年(1584)になって秀吉は忠興に玉との再婚を許した。玉は大坂の玉造にある細川屋敷に移り住んだ。秀吉が大名の正室や子女たちを人質として、大坂城や聚楽第周辺の土地に住むことを義務づけたためである。玉が大坂に戻ると、秀吉は玉に謁見を申し付けた。玉は父光秀の敵秀吉の招きに応ずるつもりは全くなかった。仮に強要するならば、秀吉を殺し自らも死ぬつもりでいた。この時は秀吉もそれを察したのか、沙汰やみとなった。更に「朝鮮の役」で忠興も大陸に渡っていた際に、秀吉は玉に再び謁見を申し付けた。秀吉によくある話である。玉は白装束を着て短刀を着物の下に隠して謁見したという。この二つの話は史料的根拠が見いだせないでいるが、玉の美貌とよく言う秀吉の高貴な女性を好む女たらしぶりを示す、世間一般の評価が働いている。次回最終章は「散りぬべき時知りてこそ」ガラシャ壮絶な最期を迎えます。