道化
キッチンの換気扇の下で煙草を吸っていて、テレビを付けたら、eテレで小説家の遠藤周作が出ているではないか。知っていたら、最初から見たのに、残念だ。
1983年4月17日放送の『日曜美術館』「私とルオー」という番組の再放送だった。
カトリック教徒である遠藤は、日本人でありながらキリスト教徒である矛盾と葛藤する作家であり、芸術とキリスト教の葛藤に苦悩した宗教画家ルオーに共鳴していた。
メモを取っていないので、遠藤自身の言葉ではなく、不正確だが、備忘録として書いておこう。
ルオーは、道化師・ピエロをよく題材にした。この点について、遠藤は、ルオーが描く道化師・ピエロには二つの意味があるという。
一つは、笑われ、蔑(さげす)まれながら、人々に笑いを与えて精神のバランスを取らせるとともに、道化師・ピエロ自身も苦悩し、悲しみを抱えて生きている「人間としての道化師・ピエロ」であり、
もう一つは、ローマ兵にお前はユダヤの王だろうといばらの冠を被せられ、蔑まれ、嘲(あざけり)を受けながら、人々を救済する「イエス・キリスト」だという。
また、ルオーは、遠くまで続く道に人々と共に歩くイエスを描いている。中世絵画のような厳しく人々を断罪する神ではなく、お遍路さんの「同行二人(どうぎょうににん)」のように、イエスも人々に寄り添って歩む母性的なものとして描いているという。中世絵画であれば、神を遠くに描くはずだからだ。遠くに夕陽を描いているが、これは神の光を表しているという。
ルオーの絵には、歴史的変遷があり、同じ題材であっても、当初は暗い色調で、人間の苦悩と厳しく恐れを抱かせる神だったが、晩年は明るい色調に変わっている。これは、ルオーのキリスト教に対する理解の変化に呼応するものらしい。
さすがは遠藤周作だ。自分の身に引きつけ過ぎているかもしれないと謙遜していたが、説得力があった。
翻って考えてみると、遠藤は、『海と毒』のようなシリアスな小説を書く求道者である一方で、ぐうたらシリーズのようなユーモア溢れるエッセイを書く道化師だったと言えよう。まさにルオーの描く道化師そのものだった。
ところで、私は、子供の頃からピエロが嫌いだった。滑稽な仕草をするけど、表情が読み取りにくく、不気味だったからだ。
なぜ欧米でピエロが子供たちに人気なのか、全く理解できなかった。
ところが、最近では、欧米でも、映画やテレビの影響により、「ピエロ恐怖症」が流行っているらしい。
「ピエロ恐怖症」や「反ドナルド運動」により、マクドナルドのマスコットキャラ「ドナルド(海外ではロナルド)・マクドナルド」がテレビCMから消える事態になった。
もしルオーが生きていたら、ピエロをどのように描いただろうか?
なお、普段考えたことがないというか、不気味で遠ざけていた道化師・ピエロについては、下記のシェイクスピア研究がご専門の小野昌(おの まさる)城西大学語学教育センター教授「道化のコンセプト」という簡潔な論文が大変参考になったし、面白かった。
フランク永井の「公園の手品師」
銀杏の木を手品師、老いたピエロに譬(たと)えている点が、日本的だ♪