春の星めぐりて旅をする木かな
https://swordtrip.wordpress.com/2024/09/02/book-19/ 【#旅する審神者】より
刀とその周辺の物語を愛するカメラを持った旅人
旅をする木【読了記録】星野道夫「旅をする木」2024年9月2日 いざなみ
最近「文化におけるマッチョイズム(スポーツ至上主義と同じように、文化に対しても当事者たちはマッチョイズム(読書や芸術鑑賞はして当たり前)という感覚があるのではないか)」について目にする機会があり、少し考えたんだけど、わたしは「個人としてはそりゃ文化は残ってほしいし文化財は守るべきものであってほしい」「とはいえ収蔵場所が無限にあるでもなし、棄却を決めた首長を一概に否定もできないのではないか(まあ現時点ではどうにかなるのだしどうにかするべきだろうとは思うけど)」みたいな考え方をする方だなと思った。マッチョイズムからちょっと話が飛んだけど。
で、さらに話が飛ぶけれど、もっと遡ると「そりゃ人間の文明は尊いものだけど、宇宙規模で考えたらこんなもの泡沫のものじゃないか、人間が居なくたって世界は何らかの形で発生し発展し消滅しまた発生していくよ」みたいなことも思う。
で、こういう「(極端に)広い世界」との最初の出会いって、星野道夫だったなって思う。
今回読み終えた「旅をする木」は、2022年のクリスマスイブに見た星野道夫の写真展で買ったもの。途中まで読んでほっぽっていたものを、仕事を辞めたのでいっちょ読書でもするかと読みきった。
当時のブログを読み返してみるとやはり同じことを書いているけれど、星野道夫の文章で特に印象的だったのは「人が見ていなくてもカリブーは旅をするのだ」ということ。人間がいたっていなくたって、関係なく回っていくということだった。大人になってしまえば当たり前の世界の理屈ではあるし、子どもだった頃にも教育番組か何かでそういうことに触れてはいただろうけれど、最初に、「ことば」という緻密な方法でそれを知り、実感したのはやっぱり星野道夫だったんだな、と思う。
今の時代、あらゆる文章はAIが書けるようになってしまった。
質問すれば答えてくれるし、必要な情報は人よりずっと優秀な機械が正解を教えてくれる。SEOは解析され、よりアクセスされやすい、求められやすい文章の型ができあがっている。
じゃあそういう時代にもなお求められる文章って何?って考えた時、それはもう「個人の日記」のようなもの、なんじゃないかなと思うのです。
より主観的な視点。ある個人の目を通して語られる風景。このような人生を歩んできた人だから、この時この光景を見て、こう思った。このような人生を送ってきたからこそ、その光景の背景情報にのとある一点に関心を寄せており、だからそれに関する情報を多く含めて、その出来事を語る。たった一人の視点であり、他の人が同じものを見たとして同じことを言うわけではない。でもたった一人の視点だからこそ、読む側はそれをより鮮明に、緻密に、まるで自分が体験したことのように、心に落とす。わたしがずっと、カリブーが旅をすることを「自然の大きさの最初にくる例」として思い起こすみたいに。
星野道夫 悠久の時を旅する 東京都写真美術館
わたしはきっとアラスカには行けない。カリブーの旅を見ることはない。
きっとそうなんだろうなと思うし、わたしはこの文庫本を手放すだろうけれど、でもまた星野道夫の本を買うんだろうなと思う。もしかしたらタイトルを忘れて同じものを買うのかも。これまでもそんなこと、何度もやってきたんだよね。
そういう類の本だな、と思います。評価されている人だから絶版になることはそうそうないだろうし、本屋でいつでも再会できる。読みたくなった時にまた読む。それでいいかなと思います。
わたしが写真展を見たのは2022年の暮れでしたが、同じタイトルの写真展が長岡(新潟)で行われているそうです。会期終了まであと少しだけど、ご興味あればぜひ。
そして本作中「坂本直行さんのこと」で、帯広に坂本直行記念館があることを知った。今度北海道に行く予定だから、余裕があれば足を伸ばしてみたいなと思った。
http://www.sam.hi-ho.ne.jp/s_suzuki/html6/book_hoshino.html 【星野道夫】より
1.はじめに
私のホームページには「最近の新聞記事から」という欄があります。2007.4.30に更新した分に画家司修(つかさおさむ)さんの、次の記事を載せました。特に「遠回り」がもたらすものと、池澤夏樹さんのコメント「ものを見るということはどういうことか」に感心しました。
ホームページに載せるからには、どんな作品を残しているのかを知りたいと思い、図書館で何冊かの本を借りてきました。それまでは「アラスカでクマにやられた写真家」位の知識しかなかったのが、写真や文章、さらにその生きざまを知ってすっかり感激してしまいました。これから何回かに分けて、その作品を紹介し、少しでもその思いを共にしたいと思います。
「遠回り」 司 修
星野道夫という写真家がいた。
作家の池澤夏樹さんは彼のことをこういっている。「ものを見るということはどういうことか。星野道夫の写真は改めてそれを考えさせる」
写真は絵画のように作者による歪曲(わいきょく)が入り込まない。そこにある現実、見えている対象を瞬間的にとらえる。名カメラマンとその写真を称賛する言葉、「決定的瞬間」というのがあるけれど、ぽくは「その通りだなあ」とつくづく思う。
目の前の景色や出来事は、百人いれば百人が同じ場を見られる。けれど、その瞬間を決定づけるのは、その人の個性であり、主張であり、人生であり、その生をミリ単位で刻み込んでいく作業である。
星野道夫の写真に「ものを見るということはどういうことか」と「改めてそれを考えさせる」のは、彼の人生観にあるのだと思う。
星野は1952年に千葉県市川市に生まれた。16歳の時、慶応義塾高等学校に入学し、その翌年、移民船「アルゼンチナ丸」に乗ってロサンゼルスヘ行き、約2ヶ月間一人旅をしている。高校生にして誰にもできないことへの挑戦が始まった。空路ではお金がかかりすぎる。しかし移民船という特殊な船であったら、旅費も少なかったろう。19歳になって慶応義塾大学の経済学部に入り、サークルは探検部に入った。その夏、信州の農家でたまたま置いてあった新聞に、アラスカの地図を見つけた。地図は漠然と星野が持っていた北方願望をかきたてた。彼は東京に戻ると、神保町の古本屋街を歩いて、アラスカに関する資料を集め、『ナショナルジオグラフィック』誌の「ALASKA」特集を手に入れた。そこに航空写真のシュシュマレフという孤島を発見した。彼はその島の住民5人に届くよう手紙を書いて送った。すると忘れた頃になって1通の返事が返ってきた。来てもいいというのだ。星野はさっそく出かけていき、イヌイットの家族に混じって3ヶ月暮らし、その素晴らしさに魅入られた。彼は日本に戻ると大学を卒業。動物写真家田中光常に弟子入りした。2年間の助手生活で、野生動物写真のノウハウを身につけた星野は、アメリカに渡りシアトルの英語学校に入った。なんと、アラスカ大学野生動物管理学部で学ぶため、英語を確実なものにしたのだ。
星野は、「石橋を叩いて渡る」といいたくなるような遠回りをしている。
ぽくはここに、星野の写真の「ものを見るということはどういうことか」が創られていったのだと思う。
3ヶ月の経験を生かして、日本に戻り、高級カメラとレンズを買って、アラスカを撮影しまくれば、写真家として生きる道が開けるだろう。しかし、星野の思いは、写真家になるのではなかった。星野の出会ったアラスカの自然は、星野を驚かせ、驚きから新たな哲学を生んでいつた。彼は、遠回りして、自分の奥底にあった思いへと近づいていった。ぼくは彼のそうした行為を、「すばらしい」のではなく「美しい」と思う。
星野の写真が、ものを見るという、あたりまえなことを考えさせる理由である。星野はアラスカの自然と、そこに生活するイヌイットの人々を知っていく。観察したり、撮影したりするだけでなく、星野は彼らと共に生活をするのだった。これも外から見れば遠回りである。 (画家)
(出典 日本経済新聞 2007.4.13 夕刊)
2. いささか私的すぎる解説 池澤夏樹
今年の夏が来ると、星野道夫が死んで三年の歳月が過ぎたことになる(この文は1999年に書かれています)。
これは彼が生きている間にできあがった本だから、彼が死んだという事実とこの本の意味との間には直接の関係はない。それでも彼の死のことからこの文章を書き始めたのは、ほとんどぼくの私的な事情による。それを少し説明しよう。
彼が若かったから、彼の友人たちもみな若かった。ぼくは彼より七つ年上だが、それでも3年前の夏には51歳になったばかりだった。普通には若いとはいえない歳だけれども、しかし、まだ友人の死に慣れていないという意味で、ぼくたちはみな若かった。親しい者の死を受け止めるすべを知らなかった。
彼はクマに襲われて亡くなった。つまり事故である。事故には偶然が大きく関わる。ちょっとした時間と位置のずれ、条件のわずかな違い、自然の気まぐれがあれば、別の結果になっていたはずだ。だから遺された者にとって、彼の死という事実は受け入れがたかった。彼が次の冬にアラスカで撮ったはずの写真、次の夏にシベリアのモンゴロイドの人々について書いたはずの文章、フェアバンクスで、あるいは東京で、あるいは沖縄で自分と会って過ごしたはずの時間、一緒にできた旅、などなど、奪われたものを心はまだねだっている。
本当を言えばそれは奪われたのではない。ことのなりゆきのどこにも悪意はなかったのだから、奪われたというのは意味のない悪しき擬人法である。星野と会うこと、話すこと、彼の新しい写真を見て新しい文章を読むこと、その喜びは恩寵ではあってもぼくたちの権利ではない。それが失われても、ぼくたちにはただ嘆くことしかできない。
この本に話を戻そう。星野道夫はアラスカが好きで、わずか22歳の時にアラスカに行って暮らすという人生の方針を決め、そのために写真の修業をした。そして26歳で実際にアラスカに渡り、以後18年間暮らした。人の住まない荒野に入っていって、風景や動物のいい写真をたくさん撮った。撮る前に、まずもってすばらしい光景をたくさん見た。厳しくて、公正で、恩恵に満ちた自然と、自然に拠って正しく暮らす人々を見た。そして、自分がそれを見られたこと、その人々に出会えたことの幸運を何度もくりかえし書いた。
書物にできることはいろいろある。知識や情報を授け、一時の楽しみを与え、ことの道理を示し、見知らぬ土地に案内し、他人の人生を体験させ、時には怒りを煽る。しかし、結局のところ、書物というものの最高の機能は、幸福感を伝えることだ。
幸福になるというのは人生の目的のはずなのに、実は幸福がどういうものか知らない人は多い。世の中にはこうすれば幸福になれると説く本はたくさんあっても、そう書いている人たちがみな幸福とは限らない。実例をもって示す本、つまり幸福そのものを伝える本は少ない。つまり、本当は誰もわかっていないのだ。
『旅をする木』で星野が書いたのは、結局のところ、ゆく先々で一つの風景の中に立って、あるいは誰かに会って、いかによい時間、満ち足りた時間を過ごしたかという報告である。実際のはなし、この本にはそれ以外のことは書いてない。
最初の方にある書簡体の文章がいちばんわかりやすい。「頬を撫でてゆく風の感触も甘く、季節が変わってゆこうとしていることがわかります。アラスカに暮らし始めて15年がたちましたが、ぼくはページをめくるようにはっきりと変化してゆくこの土地の季節感が好きです」という一文を成す言葉の一つ一つが真正なもので、読む者は星野の頬を撫でた風を自分の頼に感じることができるし、雪解けから短い初夏を経て短い夏まで大急ぎで変わるアラスカの、その一日ごとの変化を想像することができる。それを体感する幸福というものを心の中でなぞれる。
これはまだ、日本人の季節感の延長上にあることだから、わかりやすい。では、マッキンレー山の南面、ルース氷河のクレバス帯でオオカミの足跡を見たことがなぜ幸福感につながるのか。そこは標高4,000メートルから6,000メートルの稜線を越えなければ来られないところで、餌となる小動物もいないそんな氷ばかりの世界にオオカミが来る理由はない。生きるものたちはそれぞれ自分の生命をまっとうした上で子孫を残すという原理に忠実だから、余計なこと、無駄なこと、無理なことはしない。しかしそのオオカミはそこまで来た。日常の原理を超える特別の力がそこに働いた。「ぼくは日々の町の暮らしの中で、ふとルース氷河のことを思い出すたび、あの二本のオオカミの足跡の記憶がよみがえってくるのです。あの岩と氷の無機質な世界を、1頭のオオカミが旅をしていた夜がたしかにあった。そのことをじっと考えていると、なぜか、そこがとても神聖な場所に思えてならないのです」。
この世界は合理だけではない。目に見えるものだけではない。ある場所に立ったとして、その風景の背後にあるものまで見なければ、その場所と本当に親しくはなれない。自然と対面して生きる、自然の中で生きる、自然に拠って生きるとは、目前の雪原の上にいつか見たオオカミの足跡を重ねて見ること、オオカミが雪の上を歩いていったその時を自分の中に持ちつづけることである。それが、より大きな枠の中にいる自分という安心感をもたらす。
星野は読書家だったから、神話学者ジョセフ・キャンベルを引用してそこのところを上手に説明している--「人は聖地を創り出すことによって、動植物を神話化することによって、その土地を自分のものにする。つまり、自分の住んでいる土地を霊的な意味の深い場所に変えるのだ」。
星野とアラスカのことを言う時は、自然の力の中で生きる安心感について少し詳しく話した方がいいかもしれない。人間は文明を作ることで自然の厳しさから逃れ、安楽に暮らすようになった。それはそれで結構なことだが、そのために生きるということは鮮明な喜びではなくどこかぼんやりとした曖昧なものになった。
早い話が、ぼくたちは雪原を歩いてゆくオオカミの姿を遠くから見ることがなくなった。地平線にかすかに見えている飢えの恐怖によって日々の暮らしを引き締めることがなくなった。生きることの手応えを失った。目前の風景の向こうに霊的な風景を見ることがなくなり、それを補うために怪しい宗教をたくさん発明した。つまり、代替物ばかりの、無理に無理を重ねた生活をしている。すべて自然に任せていれば安心だったのに、小ざかしい知恵でそこから出てしまった。そして、こんなはずではなかったと思っているが、どこでどう間違えたのかどうしてもわからない。
旅をする木の話がいい。トウヒの種子が一つ、気まぐれなイスカのふるまいのおかげで川べりの湿った土地に落ち、根を生やす。やがて木は大きくなるが、しばらくたつうちに木を支えている地面は少しずつ川に浸食されて、春の雪解けの洪水でトウヒは根こそぎ倒され、川によって運ばれる。いってみれば事故によってこの木の人生は中断されたのだ。普通ならば、普通の人生観ならば、話はここで終り。しかし、流されたトウヒの木はユーコン川からベーリング海に入り、北極海流のおかげでずっと北のツンドラの海岸に流れ着く。木というものがまったくないツンドラの海岸で、打ち上げられたトウヒの木は目立つ目印になる。キツネがやってきて、エスキモーの猟師がやってきて……。
つまりトウヒにとって、枝を伸ばして葉を繁らせ、次の世代のために種子を落とすという、普通の意味での人生が終った後も、役割はまだまだ続くのだ。死は死ではなかった。最後は薪としてストーブの中で熱と煙になるのだが、その先も、形を失って空に昇った先までも、読む者は想像できる。トウヒを成していた元素は大気の中を循環し、やがていつかまた別の生物の体内に取り込まれるだろう。トウヒの霊はまた別の回路をたどつてたぶんまた別の生命に宿る。人は安易に永遠のいのちとか、不老不死とかいうけれども、本当はこういう意味だ。みんなこのトウヒになれればいいのだが。
目次に戻る
最近ぼくは星野の死を悼む気持ちがなくなった。彼がいてくれたらと思うことは少なくないが、しかしそれは生きているものの勝手な願いでしかない。本当は彼のために彼の死を悼む資格はぼくたちにはないのではないか。彼の死を、彼に成り代わって勝手に嘆いてはいけない。
たとえば彼の人生が平均よりも短かったとしても、そんなことに何の意味があるだろう。大事なのは長く生きることではなく、よく生きることだ。そして、彼ほどよく生きた者、この本に書かれたように幸福な時間を過ごした者をぼくは他に知らない。三年近くを経て振り返ってみて、あんないい人生はなかった、とぼくは思えるようになった。彼の人生があの時点でクマとの遭遇によって終ったについては、たぶん自然の側に、霊的な世界の側に、なにか大きな理由があったのだ。たぶん彼自身、よく納得していることなのだ。あの時点での彼の死はどんな意味でも理不尽なものではなかったのだ。
今となると、ぼくには旅をする木が星野と重なって見える。彼という木は春の雪解けの洪水で根を洗われて倒れたが、その幹は川から海へくだり、遠く流れて氷雪の海岸に漂着した。言ってみればぼくたちは、星野の写真にマーキングすることで広い世界の中で自分の位置を確定して安心するキツネである。彼の体験と幸福感を燃やして暖を取るエスキモーである。それがこの本の本当の意味だろう。 (作家)
(出典 「旅をする木」 星野道夫著 文春文庫)
(略)