地に星を降らせて咲けり
下松は和多志の生誕地です
https://jyorenji.jp/guide/kudamatsu.htm 【星降るまち - 下松市】より
下松の地名
下松(クダマツ)の地名の由来に関して二つの有力な説がある。
一つは、北辰降臨伝説で、下松市の自治体標語“星降るまち”は、これに因むものである。推古天皇の17年(609)、鷲頭荘、青柳浦の松の木に、大星が降りて、七日七夜、照り輝いた。巫女の託宣によると、異国の太子が来朝するのを、予め守護するために、降ったのだと言う。この異変に因んで、降臨の地を下松浦、星を祭って妙見北辰尊星大菩薩と呼んだ。
その後、この妙見大菩薩は、下松浦から、桂木宮(宮ノ州)、高鹿垣、更に鷲頭山(河内)へと移った。この社は、その後、降松神社と名が改められ、また、社坊の鷲頭寺は、明治の神仏分離後、中市に移転した。以上は、星が松の木に降りたと言う“降松”→“下松”説である。
異国の太子とは、多々良・大内氏の始祖と言われる百済の斉明王の第三子・琳聖太子のことであるが、どうもこの大内氏のルーツと言うのは、定かではないようである。当の百済国の歴史書に、その記述がないからである。大内氏が、14世紀末に建国した李朝朝鮮との外交を有利にすすめるために作為したもので あると思われる。
それでは、この北辰降臨伝説も、架空のものかと言えば、そうではないようである。
元々、妙見菩薩は、北斗星の主星北辰(北極星)の本地に当り、息災延命の霊験をもつと信じられていた。この妙見信仰こそが、朝鮮百済からもたらされたものであると言うのである。
古代下松地方は、大和政権の朝鮮経略の中継的な要衝に当り、既に百済の文化や信仰が多く流入していた。下松の地名を、百済津の転訛と考えるもう一つの説は、ここに由来する。ただし、この説もクダラノツという音が、どのようにクダマツに変化するか、言語学的 な確証はないので、ただちには賛同できない。
“星降るまち”は、大内氏関連資料〔北辰降臨伝説〕から導き出されたものであるが、実は、文献的には、それ以前に既に、下松の地名は出てくる。応安4年(1371)、今川貞世が九州探題として下向した際の紀行文に、「くた松」という名が記録されている。その他、「下松」「降松」と記されたものもあり、クダマツに下松の字を当てたか、どうかは断定できないにしても、クダマツをクダリマツの約語とみることには、特に支障はないようである。クダリマツなら、天から降った松の意味ではなく、枝が下方に垂れ下がった松を表すものか、河川の上流から下流に流れくだった松のこと である。
下松の地名は、切戸川・平田川や末武川の河口付近にかつて広がった白砂青松の自然景観を、「下り松」と呼びならわしたか、川の上流から流れくだった松に由来するものと考えた方がいいようである。しかしながら、いずれにし ても、下松という現在の市の名称は、市町村合併によって、数年の後には、消えてゆく。〔拙寺ホームページの表紙も変えなければならない。〕だからこそ、記憶に留めたいものである。
https://blog.goo.ne.jp/motofuku/e/e503ea0eec5fe79dd00c5628da373fb0 【下松市と妙見信仰について】より
星ふるまちの歴史と伝説
下松の沿革を知るには妙見の象徴とその縁起を知ることがかかせません。
すなわち北辰降臨伝説の発祥とされる鼎(かなえ)の松、北辰を奉った鷲頭山妙見宮(現降松神社)、妙見信仰を広めた中市の鷲頭寺です。
今からおよそ一三〇〇余年の下松は青柳浦(あおやぎのうら)とよび、時の天皇は推古女帝で聖徳太子が攝政でした。
下松の地名のおこりとなった妙見信仰は、六世紀ごろに百済から伝えられ、主に下松市の切戸川流域や旗岡山、鷲頭山の麓にあたる豊井や大手町、光市の島田川以西(旧都農郡鷲頭庄)の地域を中心に、仏教の布教にしたがって広まったといわれています。
妙見宮鷲頭寺の旧記によりますと、推古天皇三年(五九五)九月十八日、都濃郡鷲頭庄青柳浦の松の木(下松駅北の鼎の松)の上に大星が降りて、七日七夜の間目もくらむばかりに光り輝き、里の人々が驚いていたところ、「われは北辰の精である。今より三年の後、百済の国の王子がこの国を慕って来朝されるので、その守護の為、ここに天降ったのである。」と巫人(みこ)の託宣より異朝の太子の来朝を告げました。その神託を受けた住人たちは、王子を迎えるためにいそいで社を建てて星を祭ることにしました。そして、三年後、神託の通りに百済の国の王子が来朝しました。
その名を琳聖太子(りんしょうたいし)といい、のちにこの地を治めた守護大名の大内氏はその子孫と称するようになり、北辰の精が松の木に降ったという北辰降臨説話から、青柳浦の呼び名を「降松」と改め、その後「下松」と書くようになったといわれています。
「大内多々良氏譜牒」には北辰が下松に降った出来事を推古天皇十七年(六〇九)に起こったと記録しています。
大内氏は妙見信仰の崇敬が篤く、鷲頭庄の妙見社から妙見尊星王を勧請し、現在山口市にある氷上山興隆寺を総氏寺として定めて加護し、政弘の代には鷹狩りの餌となる玄武の象徴である亀やスッポンを捕らえることを禁じるなど(大内家壁書)、その信心ぶりがうかがえます。
鎌倉時代下松地方で台頭した鷲頭氏が、南北朝期になり、山口地方の大内弘世に討たれ、それに伴い大内氏が下松の妙見宮を山口に勧請したということが、琳聖太子を大内氏の祖とする伝承と、下松地方における妙見信仰の両者を結びつけた背景にあると考えられます。
下松市の主な星辰のシンボル
金輪神社と鼎の松
下松駅の北口の金輪公園にある碑には
「下松発祥之地 七星降臨鼎之松」と刻まれており、北辰伝説にちなんで地名も北斗町となっています。
鼎(かなえ)の松は二〇一一年の二月に植樹された五代目で、かつては「降臨の松」「連理の松」「相生の松」と三樹が鼎立(ていりつ)していたことから鼎の松と呼ばれるようになりました。
仏教用語の金輪(こんりん)と願いを導き叶えるということから金輪の松とも呼ばれています。
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金輪神社は昭和二十四年に再建され、金輪明神が祀られています。
降松神社及び鷲頭寺
一方、北辰をまつった桂木宮は、のち高鹿垣に移り、さらに鷲頭山(河内)にかわり、上宮・中宮・若宮(吉原)が座し、社坊の一つ、閼伽井(あかい)坊は鷲頭寺と号するようになります。
一八七〇年(明治三)、社名を天之御中主神を祭神とする降松神社と改め、七九年に神仏分離で鷲頭寺は西豊井、中市に移転することになりました。
降松神社と鷲頭寺については創建当時は妙見宮として信奉され、本尊に妙見菩薩像が祀られたことがありました。
屋根瓦に大内氏の紋が見えます。
これは上宮の北斗七曜石ではありませんが、上がれない人のために祀ってある磐座です。
こちらは移転した鷲頭寺、全国でも珍しい神仏混淆色の強いままの形態を今でも残しています。
星の塔
こちらは市政50周年を記念して建てられたものです。
流れるような流線型のデザインで流星をイメージし、四つの柱が大地に根を下ろすような作りになっています。
展望台からの見晴らしがよく、北辰伝説に相応しいものとなっています。