vol.86「桜田門外ノ変」について
ついに、この時が来てしまった。。
安政7年(1860)3月3日。桜田門外にて井伊直弼が殺され、結果的にここが歴史のターニングポイントとなってしまう日だ。この事件がなかったら、あるいは未遂に終わっていれば、後の日本史がどう推移していたか想像もつかない。タラレバを言っても虚しくなるが、それだけ重要な日なのである。バックトゥザフューチャーで言うなら、時計台に雷が落ちた日であり、ジョージがビフをノックアウトした日に当たるだろう。(分からない人は置いてゆく)
それだけに、ただ単純に「井伊、首斬られたってよ」的な話でサクッと消化すべきではなく、も少しよく噛んで味わってみたいと思う。その意味で、↑ この映画2本は、水戸浪士、彦根藩士、それぞれの視点で描かれており、なかなか勉強になった。殺した方にもやらねばならぬ信念があり、殺された側にも通さねばならぬ筋があったようだ。故に、一概にどっちが悪いと言い切れないところがまた日本らしいし、どちらにも武士の美学を感じて止まない。
そのへんを学校でちゃんと教えてくれないから、頭に入ってこないのだ。こんな大事件をテキトーな教え方してんじゃねーよ、って思う。背景とか経緯とか、思想とか動機とか、いろいろあっての一大テロなんだから。とは言え、深掘りし始めたら授業時間が足りないのも分かるし、やむおえないんですかねえ。しゃーない、自分で調べて自分なりに理解して、まとめますよ。
⚫︎ 襲撃した側についての考察
以下はすべて私なりの勝手な見解であるが、水戸藩士たちは洗脳にかかっていたのではないだろうか。まず、水戸黄門こと光圀公が始めた「大日本史」プロジェクトのせいで、水戸には水戸学なる思想のベースがある。この時点で既に、将軍より天皇が偉いという考えが他の藩より強い。いやまあ誰しもそれはそうだと思ってるんだけども、天皇に国をまとめる力は実際ないわけだし、将軍&幕府も同じくらい偉いし、堂々と批判して良いもんじゃないってのが普通の感覚。だけど水戸学を学ぶと、このバランス感覚が天皇寄りに傾きがちだったようだ。
でも、それって矛盾してる。あんたら徳川御三家なんでしょ。薩摩藩みたいな外様大名ならともかく、思いっきり幕府側のクセして幕府より天皇を強めに崇めちゃったら、幕府の権威が揺らぐじゃん。幕府にとって「尊王論」てのは厄介な思想で、下手に扱うと爆発する地雷みたいなもんなんだから。それ故に以前「尊号一件」なる朝廷との一悶着があった際、初代ストイックモンスター松平定信がわざわざ「体制委任論」て言葉まで生み出して、辻褄合わせに苦労してたやんけ。
ところがどっこい、この「体制委任論」て概念を気に入っちゃったのが、諸悪の根源・ザ・斉昭なわけだ。諸外国の接近で日本に「攘夷」という名の拒否反応が広がる中、この体制委任論を逆手に取って「幕府は政を朝廷から任されてるだけなんだから、とにかく何でも天皇の意見を伺え!」と騒ぐ。とても幕府側の人間の台詞とは思えないが、御三家筆頭にそう言われると幕臣たちも「アホかテメー」とは一蹴しにくい。しかも、阿部正弘ッチが「みんなの意見待ってるぜ!」的な募集をかけちゃった手前もある。。
将軍様がブチギレて「それとこれとは別!」と捌いてくれたら良かったのだが、12th家慶も、13th定家も、パワー不足。反して斉昭は、デカい声で民衆ウケすることばかり言うからカリスマパワーがムカつくほどある。これにより、攘夷論と尊王論が結び付き「尊王攘夷」という思想が、全国的なムーブメントになってまう。もう一度確認するけど、斉昭さんアンタ幕府側だよね? アンタが火を付けたムーブメント、幕府を否定するものだって分かってる? え、アホなの?
はい。アホです。この人、ただ文句言いたいだけの人なんです。現状に対してボロクソ文句は言うけど、代替案、具体策、改革案は出さないんです。てか出せないんです、先まで見てないから。上辺だけもっともらしい正論を振りかざして「どうだ俺は正しいこと言うだろう」「こんなん言えるの俺くらいだし、言ってやったぜ」と自分に酔ってるだけ。なのにそれで正しいと本気で信じてるからもう手に負えない。周囲のピュアな人々も、そんな斉昭の全開(アホ)パワーに影響されて、どんどん洗脳されてっちゃう。
それでやむなく堀田正睦が「だったら勅許もらって黙らしたる!」と動いて、断られて、墓穴掘ったのは、周知の通り。で、井伊直弼が天皇の許しなく通商条約に踏み切り、それを抗議しに来た斉昭らを処分。揉めていた時期将軍問題も、一橋派を抑え込み、紀州の家茂に強引に決定。戊午の密勅が水戸に送られるが、安政の大獄スタートで天皇も黙らせる。そして次々と行われる斬首刑の嵐。
憤慨したのはもちろん洗脳された水戸藩士たちである。なんせ水戸藩は、天皇から直々に勅命をもらったのだから、使命感も盛り上がりまくりだったのに、それを幕府が力でねじ伏せに来てる。たくさんの命を奪いながら。こうした経緯から「おのれ幕府、許すまじ!」となるのは、ある意味必然。こうなったら、大老を暗殺した上で、京の御所を尊皇攘夷軍で取り囲み、幕府のやり方を改めさせてやる! というクーデターを計画する。
その想いは、ただの反逆ではなく、心から日本の行末を案じてのこと。今、我々が行動しなければ日本が外国に蹂躙される。それを食い止めるための戦いなのだ。そのためには自分の命なぞ惜しくない。そうした熱い信念と熱意を持った交渉人を各地に送り、他の藩にも協力を呼びかけに走る。賛同してくれたのは、薩摩藩と鳥取藩。特に薩摩は、藩主斉彬&西郷隆盛が5000の兵を率いて上京すると約束してくれた。同じ志を抱いてくれる藩の存在に感動しつつ、これで準備万端。あとは井伊直弼襲撃を実行に移すのみ。藩や家族に迷惑がかからぬよう脱藩して浪人となった実行部隊18名が集まった。
襲撃の様子は数多く語られているので割愛しよう。雪の降る朝、桜田門外にて井伊直弼の暗殺は成功したが、肝心の率兵上京計画には至らなかった。薩摩の斉彬公が急死したため、弟の久光によって幕府への抵抗が打ち止められたからだ。率兵を約束したはずの西郷どんも行方不明で、完全に梯子を外された状態。これにはさぞかし生き残った実行部隊の水戸浪士たちも絶望したことであろう。もはや帰る場所も、行く場所もないのである。
襲撃の総指揮官役であった「関鉄之介」は、逃亡しながら賛同してくれていた鳥取藩や薩摩藩まで再説得に訪れるが、どこも状況の変化に恐れをなして門前払いを受けている。やがて、ひとり、またひとりと逃亡中の実行犯が捕らえられて斬首刑に処されていった。また、関鉄之介の潜伏を手助けした愛人「滝本いの」は、伝馬町牢で拷問により獄死。なお、散々藩士たちを焚き付けるだけ焚き付け、幕政を混乱しかさせなかったザ・斉昭も、この間に心筋梗塞によって永久蟄居先で死亡している。
⚫︎ 襲撃された側についての考察
水戸浪士による襲撃計画があることを、井伊直弼も、彦根藩邸も事前に知っていたらしい。だが、あえて警備を増やしたりはしていない。襲撃を恐れたと世間に伝わり幕府の権威が落ちることを嫌ったのだろう。なにせ幕府批判する者を片っ端から粛清してる最中なのだから、そうせざるを得なかったのかもしれない。
これまでの数々の失策により、幕府も幕府で追い詰められていた。だからこそ強行手段で無理矢理にでも幕府の威厳を取り戻そうとした。それが、安政の大獄という恐怖政治になろうとも、崩壊しかけた体制を固め直す必要があったからだ。迫り来る外患に対し、これ以上、内憂でごちゃごちゃ揉めている場合ではないのだ。
井伊直弼とて、もともと開国派ではなかったし、通商条約にも乗り気ではなかった。が、ハリスが言うように「今、アメリカと先に条約を結べは、イギリスを始めとする列国たちからの圧力に対し、アメリカが盾となって機能する」のも確か。戦力の差がありすぎる今は、その差が埋まるまでひとまずアメリカの要求を飲むのが得策であろうと、判断したまでのことである。
なのに、頑なに「攘夷じゃ攘夷じゃ」言うやつらは、頭が悪すぎて話にならない。いざ諸外国から大砲撃たれたら勝てるわけないのに、何の算段があって攘夷を唱えてるのか、逆に聞きたい。小1時間ほど問い詰めたい。今で言う、お花畑だろ頭の中。だから開国方針なんだよ、分かんないかな。分かんない奴らに言っても無駄か。襲撃したいなら勝手にしてくれ。そんなアホどもに殺されちゃうなら、もうそん時はそれが徳川幕府の運命と思って受け入れるわ。
と、思ってたかどうかは知らないが、何にせよ、桜田門外の襲撃により井伊直弼は帰らぬ人となった。籠の中で足撃ち抜かれた時に直弼サマも「マジか。日本終わったな。もう知らねー」と諦めたことだろう。あるいは「ま〜俺も結構たくさんのアホども死刑にしちゃったし、因果応報ってか」と腹を括ってたのかもしれない。
襲撃により、藩主である直弼以外に8名の彦根藩士が応戦して死亡。他に5名が重軽傷を負った。事変から2年後の文久2年(1862年)に、直弼の護衛に失敗し家名を辱めたとして、生存者に対する処分が下された。重傷者は減知の上、幽閉。軽傷者は全員切腹が命じられ、無疵の士卒は全員が斬首・家名断絶となった。処分は本人のみならず親族にも及んだと言う。
ちょっと厳しすぎる気もするが、結果論として見れば、ここで直弼サマを死なせてしまったことで、徳川幕府も死んだと言えるのだから、やはりその罪は相当に重い。てゆーか60人もいて18人の刺客になぜ負ける。刀の雪除けうんぬんがあったとしても、まあ銃撃は防げなかったとしても、首はさ、ボスの首はせめて守れるでしょ〜よ普通。
つか、8名しか死んでなくて後はわりとみんな軽傷ってことは、たいして戦ってないな、さては。みんなで籠を取り囲んで盾になれば、直弼サマにグサッ!は避けられたはず。だって60人もいたんでしょ。そんな籠まわりが手薄になるほど前方の水戸浪士に全員でワーッて行っちゃったワケ? バカなの? そりゃ確かに切腹もんだわ。巻き添えで処分された親族が可哀想すぎ。
と言うことで、直弼サマ推しとしては残念な結果になってしまったが、せめてこれくらい考察して味わったならば、良しとしよう。それにしても『柘榴坂の仇討ち』には感動させられた。フィクションではあるものの、久々に心から観て良かったと思える映画に出会えたことも大きな収穫であった。
起きてしまったことは仕方がない。歴史はやり直せないのだから、しっかり消化した上で、次に進もう。迷わず行けよ、行けば分かるさ! 123ダーッ!(井伊直弼 退場)
参考
https://ja.m.wikipedia.org/wiki/桜田門外の変https://shirobito.jp/article/1322#:~:text=桜田門外の変とは、安政7年(1860,とする過激浪士たち%E3%80%82