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Okinawa 沖縄 #2 Day 270 (29/09/24) 沖縄市 旧美里村 (02) Hiyagon Hamlet 比屋根集落

2024.10.02 13:38

沖縄市 旧美里村 比屋根 (ひやね、ヒヤゴン)


沖縄市 旧美里村 比屋根 (ひやね、ヒヤゴン)

比屋根 (ヒエゴン) は旧美里村に属し、北は高原 (タカバル)、南は与儀 (ユージ) に挟まれた沖積低地にある。古くから与儀村とは深く関わっており、琉球国高究帳には与儀村と一括されて比屋根村と記されている。与儀村の与儀之嶽 (二御前) のうち北方のイビ (上山小) を拝んでいた。

琉球王国時代の比屋根村は現在の字比屋根に加え、胡屋七丁目と高原一丁目を含んでいた。比屋根集落はオシアゲ森を腰当て (クサティ、聖域) を背に、麓の前川 (メーガーラ) への急な丘陵斜面に広がっていた。

字比屋根には上原 (イーバル)、西原 (イリバル)、比屋根 (ヒヤーゴン)、橋川 (ハシカー)、下口原 (ウリィグチバル)、東原 (アガリバル)、折口原 (オリグチバル)、浜原 (ハマバル)、加那波 (カナハ)、前原 (メーバル)、雨田利 (アマダリー) の11の小字 (原名) で構成されている。


比根屋集落の人口は1880年 (明治13年) で、424人 (81戸) だった。1919年 (大正8年) には612人 (戸数 110) で旧美里村では比較的人口の少ない集落だった。その後、人口は減少し、1940年には533人 (137戸)、沖縄戦直前の1944年には387人 (99戸) までになっていた。戦後は人口が回復し、1946年には502人、1953年には780人 (152戸) になり、その後も増加は継続していた。大きな転換期は、1986年 (昭和61年) に浜原の米軍に接収されていた泡瀬通信施設の返還に伴う跡地開発で、泡瀬、高原、比屋根は飛躍的に発展し、人口は激増している。近年でも人口は年2~3%で増加傾向にある。2023年末の人口は7,199人 (3,269戸) で旧美里村 (沖縄市全体でも) では三番目に人口の多い字になっている。


比根屋村には幾つかの屋取集落が存在していた。浜原には奥武小屋取集落があり、1908年には58人 (12戸) が生活していた。その他屋取集落としては天理教ヌ前屋取があったとされるが、所在地はわからなかった。この天理教ヌ前屋取は帰農士族の集落とは性格が異なり、天理教信者が集まってできた村だった1919年の地図では、下口原に殿内ヌ前屋取集落が見られるが、詳細は分からなかった。


琉球国由来記等に記載されている拝所

  • 御嶽:  オシアゲ森 (神名 オソクツカサノ御イベ)、殿小 (小嶽 神名 オソクツカサノ御イベ)、上山小 (与儀之嶽 弐御前 神名 神山マネジカサノ御イベ 在与儀)
  • 殿: 大殿 (比屋根之殿)、殿小 (佐久真之殿)
  • 拝所: 上仲門門中神屋、根屋門中神屋、伊礼門中神屋、御願、奥武小ビジュル
  • 井泉: ジョーヌスバ、大井 (東ヌ井)

美里巫により、祭祀が司られていた。



井戸跡

比屋根バス停から西に集落に入った所に井戸跡が二つあった。資料の地図には場所のみ載っているが、その詳細はなかった。


アシビナー (遊び庭)

比屋根集落の東から坂道を登って行くと、上には広場となっている。ここはアシビナーだった場所。アシビナーは村民の集いの場所で、広場には舞台も置かれている。今でもアシビナーの役割が続いている。


慰霊之塔

アシビナーの敷地内には1981年 (昭和56年) に慰霊之塔が建立されている。比屋根出身の戦没者77名の名が刻まれえている。毎年6月24日の慰霊の日には地域住民が集まって慰霊祭を行っている。 

沖縄市では字別の戦没者については次のグラフしか提供しておらず。このグラフには含まれていない字もいくつかある。このグラフによれば比屋根集落での戦没者は140人程になっている。慰霊之塔と大きく数字が異なっている。グラフでは与儀集落の戦没者がない。与儀集落では67人の犠牲者が出ているので、グラフの140人程の戦没者は比屋根と与儀を合わせたものだろう (77+67=144) また、沖縄市は各字の戦没者率もだしていないので、各字の悲惨さも良く分からない。沖縄戦直前の1944年の人口から推測すると、比根屋集落人口は387人で戦没者77名は19.9%にあたる。(沖縄市全体の戦没者率は約30%)

比根屋集落の戦後は、1946年6月に帰還許可がおり、収容所や疎開地から高原に移動し、与儀、高原、比屋根の三集落の住民が米軍コンセットと幕舎の割り当てを受け、共同生活が始まった。同年10月に元の比屋根集落への移動許可が降り、破壊された村の整備に着手し、その後、住民が帰還していった。

慰霊之塔の脇には塔を建立した際に、合祀された拝所が三つある。資料では井戸の拝所とあったが、三つ全てなのか?ひとつなのか?名称も書かれていない。

戦後、1945年に国頭の疎開先にいた比屋根住民は美浦 (桃原泡瀬一区) に移動し、1946年6月に高原に移動して、高原、与儀住民と共に生活を始めた。10月に元の比屋根への帰還許可がおり、帰還準備の先発隊が派遣され、破壊された村の整備、住宅家屋の建設を行った。その後、村民の帰還が行われた。



比屋根遺跡、オシアゲ森 (ムイ)  

アシビナーは比屋根の旧集落の北東側にあたり、この周辺はオシアゲ森 (ムイ) と呼ばれた森だった。このオシアゲ森に災害時緊急避難通路の整備工事の際に、この一帯で比屋根遺跡が発見された。この場所には大殿 (ウフドゥン) 等の拝所や獅子屋、門中の拝所が置かれており昔から信仰の中心だった事がわかる。このオシアゲ森自体が、神名のオソクツカサノ御イベを祀った御嶽だそうだ。特に祠などは無いようだ。オシアゲ森の丘陵の南から南西にかけての斜面には、方形状の平坦な区画が階段状に複数見られ、古い屋敷跡と考えられるものもあり、戦前の比屋根集落の前身だった可能性が考えられる。この辺りから2015年 (平成27年) に試掘調査を実施し、一部で、近代から古くはグスク時代に溯る可能性のある遺物包含層が確認され、土器や青磁等の中国産陶磁器、沖縄産陶器等が出土している。


上仲門 (ウィーナカジョー) 門中神屋

アシビナーの脇に更に上に登る道がある。大殿 (ウフドゥン) への参拝道になる。道の途中に石川 (イヒチヤー現石川市) の伊波仲門門中の末裔とされる上仲門 (ウィーナカジョー) 門中の神屋が置かれている。神屋の脇には井戸跡もあった。この丘陵の上部には比屋根集落の有力門中の神屋が並んでいる。


大殿 (ウフドゥン)

道を進むと突き当たりに大殿 (ウフドゥン) がある。ここがオシアゲ森の頂上になる。琉球国由来記にある比屋根之殿と推測されている。


根屋 (ニーヤ) 門中神屋

大殿から道を戻り、アシビナーから崖沿いにあるもう一本の道を西に進むともう一つ神屋が置かれている。根屋門中の祖先を祀っている神屋にあたる。


伊礼 (イリー) 門中神屋、獅子屋 (シーシヤー)

更に道を進むと、コンクリート造りの建物が二棟並んでいる。ここは伊礼 (イリー) 門中の神屋 (カミヤー 写真左下) が置かれており、敷地内に神屋の隣には、獅子頭を保管している獅子屋 (シーシヤー 写真右下) が建てられている。獅子舞は、以前は旧暦の7月17日に演じられたが、最近は盆踊りの際に行われているそうだ。

獅子屋の隣には崩れてはいるが石を積み上げた拝所、裏には井戸がある。


殿小 (トゥングヮー、小獄、佐久真之殿)

更に道を西に進むと小山がある。大殿 (ウフドゥン) の北西70mにあたり、殿小 (トゥングワー) がある。琉球国由来記では小獄 (神名 オソクツカサノ御イベ) と記載されている。また、資料には、佐久真之殿に比定されるとも書かれている.比屋根集落では二番殿 (ニバンドゥヌ)、黄金殿 (クガニドゥヌ) とも呼ばれている。元々、オシアゲ森と小獄はなだらかにつながった地形だったが、戦後の造成で削られ小獄は小山状となっている。本来は大殿が丘陵頂上部に位置し、殿小は北西側になだらかに下る丘陵突端部に位置していたと考えられる。比屋根集落では、旧暦の毎月1日に拝んでいる。

丘陵からその麓に広がっている比屋根集落に降りて行く。


比屋根公民館

道を降りると、集落の西の端に出る。ここには公園が整備されている。ここが何だったのかはわからないが、集落の端なのでサーターヤー (砂糖小屋) だったのではと思う。

公園の前の道は暗渠となっているが、前川 (メーガーラ) が流れていた。一部は川が姿を現している。この川はオシアゲ森から丘陵斜面に広がっていた比屋根集落の端にあたっていた。

公園の東側は丘陵に続く高台になっている。木が生い茂っている場所の階段を登るとに公民館に出る。昔から村屋があった場所かは不明。今日は日曜日で公民館は閉まっており、誰もおらず、また雨が降っているので歩いている人もおらず確認出来なかった。


ジョーヌスバ

比屋根公民館の上の道の住宅の隙間にジョーヌスバがある。この拝所があった場所に住宅地を造ったので、この様な形で残すことになったのだろう。比屋根では旧暦の毎月1日に拝んでいる。


集落内のスポットを見終わり、国道329号線の東側に移動する。ここにはマースヤームイと呼ばれる山がある。沖縄方言でマースは塩、ヤーは屋 (小屋)、ムイは森で漢字で書くと 「塩小屋森」 だろう。後で訪問するのだが、比屋根の海岸には塩田があり、製塩業が盛んだった。この関係の小屋がこの山にあったのだろう。


大井 (ウフガー) (未訪問)

マースヤームイの森の北側裾野には大井 (ウフガー) があったのだが、土地区画整理により50m程、北に移設されていると資料にはあった。その辺りを探すが見つからない。道を歩いている人に聞いても、知らないという。この辺りは集落からはずれているので、元からここに住んでいる人は少ない様で、集落の拝所には無関心だ。かつては、村人は、東井 (アガリガー) と神井 (カミガー) とも呼んで、子どもが生まれた時や元旦の若水 (ワカミジ) の時に水を汲んでいた。写真右はここを訪れた人が掲載していたものを借用。


次は比屋根集落から西に外れた御願山 (ウガンヤマ) と呼ばれる丘陵にある拝所に向かう。オキナワグランノールリゾートというホテルへの道に途中にある様だ。


御願 (ウガン)

道を登って行くと、森への入り口があった。比屋根集落拝所と札が置かれていた。中に入り進むと広場になっており、奥に祠が置かれている。この拝所は御願 (ウガン) と呼ばれ、比屋根では旧暦の毎月1日に拝んでいる。


この後、オキナワグランノールリゾートの近くにある隣村の与儀集落の拝所の御願 (ウガン) を訪問している。その後、丘陵から降りて東の沖縄県総合運動公園に向かう。


沖縄県総合運動公園

国道329号線の東側、海岸までは沖縄県内最大級のスポーツ施設の沖縄県総合運動公園がある。公園は真ん中を東西に沖縄県総合運動公園線を境に北が字比屋根、南が北中城村字渡口にまたがっている。陸上競技場などのあるスポーツゾーン、レクリエーションプールやキャンプ場を中心にした海浜ゾーン、自然観察の森や展望台等の自然体験学習のできる森と水のゾーンの3つの目的別エリアに分かれている。1983年に米軍泡瀬通信施設の米空軍レーダー施設の泡瀬通信補助施設基地が返還され、1987年に開催された海邦国体会場として整備された。1984年にサッカー場 (FC琉球のホームスタジアム)、テニス場、オムニコートが完成、1987年に体育館、プール、陸上競技場が整備されている。


対戦車戦闘壕

国道329号線の入り口を入った所には、沖縄戦では対戦車戦闘壕や陣地壕造られていた。その幾つかは現存しているそうだ。この辺りは樹々が鬱蒼とした森になっており、中に入って壕を探す事は断念。

公園内を散策。

様々なスポーツ施設。

公園内は池や川が整備され、散歩には最適。

子供向けのレクレーション施設は充実している。プールには巨大スライダーもあった。


奥武小 (オーグヮー) ビジュル

戦前、沖縄県総合運動公園の場所には奥武小屋取 (オーグヮヤードゥイ) 集落が存在していた。12戸 (58人) が字比屋根と字渡口にまたがり点在していた小さな屋取集落だった。この奥武小屋取集の拝所が、公園内の遊歩道沿いに整備されている。奥武小 (オーグヮー) ビジュル (右中、右下) と呼ばれ、祠内に三体のビジュル (霊石) が祀られている。奥武小屋取の村人が旧暦の9月9日に拝んでいた。

奥武小ビジュルの対角線には二つの祠 (左下) が並んでおり、井戸之神と書かれている。集落が米軍基地として接収された際に消滅してしまった二つの井戸を土地返還後にこのビジュルに合祀したものだそうだ。この後、この二つの井戸があった場所も訪れている。字渡口にあるので、渡口集落訪問レポートに記載している。


塩田跡

沖縄県総合運動公園内奥武島の北側には塩田跡がある。戦前までは沖縄県で那覇の塩潟と並んで泡瀬は製塩業が盛んで、泡瀬マースとして有名だった。泡瀬の塩田跡地は埋め立ての土地改良で失われたが、比屋根区内のものは残存している。美里村では、全盛期には225戸が製塩業に従事していた。



今日は一日中小雨が降ったり止んだりという天気だった。小雨という事で、暑さは抑えられ、比較的気持ちよく散策が出来た。バス始発で来たので時間はたっぷりあり、集落巡りが終わった時には20kmも歩いていた。少し無理をしたのだろう、翌日から少し膝に痛みがある。今日は沖縄無料バスの最終日だったので、膝の調子がよくなってから次回からは自転車での集落巡りに戻る予定。



参考文献

  • 沖縄市史 第3巻 民俗編 (2008 沖縄市役所)
  • 沖縄市史 第5巻 戦争編 (2019 沖縄市役所)
  • 沖縄市史 第7巻 近代統計書に見る歴史 (1997 沖縄市役所)
  • 沖縄市文化財調査報告書 第4集 沖縄市の埋蔵文化財 (1981 沖縄市教育委員会)
  • 沖縄市文化財調査報告書 第35集 沖縄市の伝承をたずねて 東西部編 (2008 沖縄市教育委員会)