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Takahiro Unno

※画像過多 後から生まれるもの

2019.01.10 22:50
おはようございます。今回はダラダラと思うままに書いていこうと思います。いつも思うままですけど、割と読み手のことを考えて書くように努めているので気を抜いて綴ってみます。


僕が通っていた関西学院大学ですが、なんでこの大学に進学したのだろうと考えることがあります。まぁ〜当時考えていたことが明確にわかれば問題ないのだろうけど、何にも記していないから想像と仮説でしかないんです。後発的かつ後天的理由といえば、後から付け加えた「後付け」ともいいますが、これらは同じ意味で用いてます。だから今やっていることの動機は後から勝手に更新されちゃうのかなと心配になるのでここに記しておけば、少しは成長したのかと思えるわけです。複雑な感情や入り組んだ事実は本音で正直に残しておきます。人間過去を美化してしまう弱い部分というか傾向があるのでそこは素直に乗っかりつつ、おい待てこらっ!と葉っぱをかけて抑止しようと思います。あーこいつまだ若いな、ペーペーだなぐらいに流してもらって結構です。

大学に進学するまでを事実と想像を駆使して書くので大学入学後から卒業やら社会人での出来事は極力控えてみます。大学進学までに過ごした時間を考察できる写真がないので掲載画像は何故か大学時代のものを使ってます。そこは文句なしでお願いします笑。書いてる途中ですが、これ自己満の自己中な記事になるなという感じです。


高校2年の選手権県予選ぐらいから、そろそろ進路だの大学だの耳にするようになって、先輩に話聞きに言ったり中学時代の恩師に相談するようになりました。思い返すだけで情報収集の選択肢がこれだけしか出てこない。まあこんな感じで適当なわけですが当時は必死だったのでしょう。先生方からは高卒のプロなんて不可能に近いし前例をみても毎年輩出されるわでもないので口すっぱく「勉強しておけ」とか「サッカーがない人生も考えておけ」とか言われたわけです。父と母は対照的で干渉することもなく無関心かのごとく放置でした。特にプロサッカー選手になる気持ちがあったわけでもなく、そんなレベルに達していない何処にでもいる選手でしたので、サッカーで進学というのは選択肢になかったです。それなのに有名進学校には所属していたので余計めんどくさいプライドがまとわりついていました。そんな時、親しい先輩と小学校からの先輩2人が関西学院大学に指定校推薦で決まったという話を聞きました。後のパートで述べますが、指定校推薦にはいくつか魅力がありました。指定校推薦が一体なんなのか知らなかったのですが、とりあえず学業における成績優秀者が対象で大学が定めた評定平均を上回っていれば合格に限りなく近づくとのこと。成績→面談→審査で高校サイドから指定校受験を認められるのでステップとしては、評定平均を越えるために学業で十分な成績をおさめる必要がありました。そんなことで結構焦って自分の内申書・成績表を過去2年に遡って見返し、現実[求められる絶対値と現状数値のギャップ]を突き付けられました。高校に入ってからはサッカー中心の生活でサッカーさえ出来れば問題ないだろうと高を括っていて、終いには嫌いな教科を諦めていました。特に古典と現代文は絶望的数字でこれから迫る数字との戦いを前に降参気味でした。サッカーさえやっていればいい、勉強をやっていない自分がかっこいいと酔っていたんだと思います。情けないですけど遅れて来た中二病の高校生ってわけです。


このまま3年生になり、これまで通りのお粗末な成績を取った時には、いよいよ大学選択なんて言えなくなる、、、、そんな焦りに駆られていました。BFボーダーフリーと呼ばれる誰でも歓迎してくれる大学は存在しましたが、自尊心が許しません。その内側からくる勝手な重圧と日々戦っていました。プライドだの自尊心だのって、これはガヤから生まれる醜い塊で、逆にこれがなかったら机に向かうやる気もなくなっていたわけです。このガヤだって誰から言われるものとかそんなんじゃなくて、あくまで想像の世界の話で、そんな想像の中にある人からの声が僕の重い腰を上げさせました。


ここまでくると、進学とは必然で選択肢の中から選んだわけでも何でもないです。進学とは、しなければいけないもので誰もが通るものみたいに囚われていました。要は選択をしていないのです。数ある大学から選択するという選択は存在しても、進学するかしないか留年するか就職するか起業するか家業を継ぐか、当時の僕の頭にそんな選択肢はありませんでした。多くの選択肢があればそれだけ悩んだかもしれません、狂気に侵されたかのように勉強する必要もなかったかもしれません、そこまで頑張れなかったかもしれません。これはかなり紙一重だと思っていて、他の世界を知れば今生きている世界を否定したり不幸に感じることと似た現象です。隣の芝生は青いの進化系ですね。


両親や祖父母、友達、先輩、先生に文句を言いたいわけではありませんが、子供を取り巻く環境って大事とかいうレベルではないです。五体満足でこうして生きていることに感謝ですので矛先は自分に向けますが。


話を少し戻すと、サッカーではなく勉強を頑張れよということになりました。立教大や慶應もいいな〜とか17歳が知ってるレベルで有名な大学をリストアップ。この時点で私立一本、指定校推薦狙いにマトを絞りました。貴重な人生の選択において、適当な選択を、迫られる重圧を感じながら決断を下しました。学部ごとに求められる評定平均は異なりますが、有名私大は到底届かない数字で何度も電卓を叩きました。関東の私立と関西の私立、名前だけで候補をアップし、その中でも手が届きそうな学部をいくつか調べ上げました。サッカー以外で興味があったのは、メディア系、国際系、商業系で浅はかな知識からくる抽象的ものばかり。名ばかり国際学部や何ちゃら国際大学のようなものです。全くイメージも目標もなく、戦場カメラマンいいなーとか国際ジャーナリストいいなーとかその程度で海外絡んでたらかっこいいいな〜ぐらい。その流れで関西学院大学の社会学部を第一候補、同大学

の国際学部を第二候補、中央大学の社会学部を第三候補、奇跡を信じて慶應義塾大学を第四候補に設定しました。


それでも崖っぷちなので、教科ごとに必須の数字を弾きました。古典・現代文は手遅れなので平均を狙い、得意な数学と英語は最高点を狙うことにしました。体育や文化活動系の教科は先生に好かれておけばいいというのを先輩から伝授してもらったのでひとまずパス。暗記教科である世界史・日本史は最高点より下で平均より上を狙い、全教科を平均すると何とか評定平均を上回るように目標を立てました。幸い2年間、好きだった英語と数学が他の教科[古典・現代文]をカバーしていたので可能性だけは残っている状態でした。今思えば本当にラッキーです。いっそのことどうしようもない成績を取って、進学する選択肢がなかったらどうなっていたか知りたい好奇心はありますが、、、、今だから言える戯言です。

3年時の1学期期末テストと授業態度、小テストで成績数字が決まるので、中学時代の勉強方法を参考に徹底して勉強しました。練習後はサイゼリアや公民館に通いつめ、月曜日のオフはジャンプを立ち読みし、机に向かう日々でした。先生に媚びを売ることも臆せず実践し、確実に心の距離を縮めていきました。態度の変貌ぶりに気持ちわるい奴だなと思われていたはずです。


忘れてはいけないのがサッカーとの両立です。実は高校総体という大事な大会を控える時期でもあり、レギュラー争いが熾烈でした。並行してプリンスリーグというクラブチーム混合の公式戦も戦っていました。プロを目指す生徒やスポーツ推薦を勝ち取りたい生徒にとっては1年間で1番重要な時期です。しかし僕は、完全に指定校推薦狙いだったので少しばかりか楽観的でした。この言い訳じみたものがサッカーに大きな影響を与えていました。メンバーから外れた時は勉強に専念しているからと言い訳を自分に投げて冷静を装い、自主練習よりも机に向かう回数の方が圧倒的に増しました。加えると、総体の結果や自分の立ち位置によっては半強制的に早期引退を告げられることになります。3年生のほとんどは、総体を区切りに大学受験のための勉強に切り替える生徒と引退せずに冬の高校選手権を目指す生徒に分かれます。サッカーを続けたくてもそれができない生徒も出てきます。そんな場面を幾度となく目の前で見させられてきました。だから成績のための勉強をしつつサッカーでは最低限のポジションを確保する必要がありました。指定校推薦は基本的に学校から推奨されず、部活を続けた者が認められやすい制度だったからです。要は暗黙のルールで、引退した生徒は国公立や有名私立を推奨されるので早期引退した場合は、6月の総体後も受験勉強を続けることになります。勉強が嫌いで早く楽になりたい気持ちが強かったので[この理由は結構大きい]、何が何でもサッカーを続けながら目標とする成績を取らなければなりませんでした。中途半端に過ごせばサッカーも勉強も勝ち取れませんので、僕は勉強に専念しサッカーを2の次にしました。言い方を変えれば優先順位を明確にしました。期間限定で[期末テストごは全身全霊でサッカーに取り組む]。

そんな状況でも親には何も言われませんでした。放置です。結局将来について言われたのは、

1学期末の後です笑。両親から「卒業後どうするの?」と軽く聞かれ、事後報告したのを覚えています。最後には「好きなようにやれ」と言われお終いでした。そして、サッカーの優先度を下げた僕に唯一噛み付いたのは弟だけでした。

幸い中の幸いにも、期末テストでは目標通りの点数を取り1学期の成績は理想的な数字となりました。よし、これで何とか指定校推薦はもらったと確信し、安堵に包まれたのを覚えています。それからのサッカーが楽しくて本当に幸せでした。特に練習後の時間は至福の時でした。2学期になると指定校推薦会議という先生たちが推薦を認めるか認めないかを下す重要な日があり、更には推薦志願書も提出する時期でした。この時期に入ると生徒間で見えない駆け引きが始まります。慶應義塾大学を受けたい生徒が3人いても枠が1つであれば2人は別に回ることになります。僕の学年にはトンデモナイバケモノ級のエリートスポーツマンが何人かいて、野球部で活躍する女子生徒や何でも優秀なレフティモンスターがサッカー部に在籍していました。学業や部活実績、学校生活態度では太刀打ちできないレベルだったので彼らとは別の選択をすることになりました。正直関東の大学に進みたかったです[単なる田舎者のバイアス]。やる前から勝負ありの駆け引きに参加することもなく、関西学院大学に新設される国際学部か社会学部、商学部が候補に残りました。この段階でやっと学部について調べたり、先輩から情報をもらったりして適当の中にも慎重に学部を選ぶようにしました。大学でサッカーを続ける気持ちはないだろうし、特にやりたいこともなかったので、幅広い分野を網羅的に学ぶことができ、その中から探求と追求をしたい分野を選択できる「社会学部」の推薦志願書を提出しました。のちの学校面接で「国際的に活躍するジャーナリスト」になりたいですとか言ってたな。


ここまで書いてきて思うのは、過去を振り返り事実に基づいて当時の感情や動機を考察してもこれらは本当に抱いていた気持ちや行動の裏にあった動機からは遠いということ。時間が経てば薄れるものが多々あるし、最低限9年前の記憶を留めただけ。曲げられない事実は曲げようとしないけど、そこにあった過程はしっかり残すようにしたい。そこにあった本当の気持ちは1日経っても過去になるので結局「後付け」には変わりないが、それでも新鮮なうちにできるだけ自分に正直に書いて残していきたい。そんなことを考えた早朝でした。

こんなダラダラした長文を最後まで読んでくれた方には感謝です。

写真は僕の大学時代にお世話になった方々 [影響を与えた環境] です。