美しい羽
消えては新しくできるアザを見る
肌に残るヤケドの跡を見る
今日も昨日と同じなのかな
明日も今日と同じなのかな
どうしてお母さん私をたたくのかな
どうしてお母さん私をしばるのかな
どうしてなんだろ
わたしが悪い子だからかな
わたしがいけない子だからかな
わたしをたたくお母さんのこぶしを
わたしをけるお母さんのかかとを
わたしをしばるお母さんの手のひらを
ちゃんと見てるよ
じっとしているね
お母さんの気に入るわたしになれるように
昨日・今日・明日
キノウ・キョウ・アシタ・・・
ある日気がついたんだ
わたしわるい子ではなくて
わたし愛されてない子なのかもしれない
死んだんじゃないよ
自分で命の灯を消したの
次に生まれてくるときは
わたしを愛してくれるお母さんを
必ず選ぼうと
自分と約束ひとつして
~羽月ちゃんの死に寄せて~
この詩が生まれたのは虐待を受けて3歳で亡くなった羽月ちゃんのことが報道された翌日でした。死んだんじゃない、自分で命の灯を消したの、というフレーズに自分で書きながら衝撃を受けました。
羽月ちゃんの死に寄せて、なぜそのような言葉が自分から生まれてきたのか、深く考えました。そうして出た自分なりのひとつのこたえがあります。
それは、羽月ちゃんが最期まで自分を愛する心を消さないためだったのではないかと。
生きていくうえで核になる自尊心を生涯なくさないでいるためだったのかもしれない、ということです。
母に愛されない子どもは、自分を愛することを止めてしまいます。それをごまかしながら生きていくには羽月ちゃんは幼すぎたと思うのです。いや、幼いからこそ自分を愛することへの純粋さに嘘がつかなかったのだと思います。
核を失い、細胞だけで生きているのは大人の方かもしれません。
自分を愛することを忘れ、他人を愛することを忘れ、世界を見失っているのは、きっと大人のほうだ思うのです。
羽月ちゃん?
私はあなたの想いをまっすぐに伝えられているでしょうか。
羽月ちゃんが肉体を離れたことで、私、必死になってたくさん考えました。
きっといい社会にしていくからね。
と言っても、私普通の小さな庶民。だからまずは子どもにしっかり愛を注ごうと思います。
自分の子どもたちだけでなく、縁あって身近にいるすべての子どもたちに惜しみなくたっぷりと。