お医者さんのようなトランペットレッスンと言われたことがあります
レッスンで以前言われた何気ない一言が自分の立ち位置の意識を変えてくださいました。
「先生ってまるでお医者さんみたいですね」
ああ、なるほど。いや、例えですからね、レッスンに来て「ジェネリックで良いですか?」とか処方箋出したりしませんから。保険適用とかありませんから。
僕はトランペットを始めた中学生の頃にとんでもない音の出し方を教わり、奏法に大変苦労をしたひとりです。それだけでなく時代が時代だったこともあり、精神面でもかなり強い昭和的、軍事的モラルを植えつけられて育ったので、当時は根性根性ど根性、血を吐いてでもマウスピースから口を話してはならない、バテはご褒美。バテてからが戦いだ。欲しがりません勝つまでは。などといったことを本当に言われていましたし、中学生ですから「そういうものだ」と信じて疑わずにトランペットを吹いていました。恐ろしい。
今はその反動がとても強くて、「昭和的」という言葉を否定的な意味で使うことが多いのもそのためです。昭和が悪いのではなくて、戦争の時代の精神をそのまま引きずっていることについて大否定しているだけです。そしてアップデートが世間よりも圧倒的に遅い学校の中だからなのか、未だに吹奏楽部はこの精神から抜け出せない人が多く、少しでも中学生の頃の僕みたいな人が増えて欲しくない気持ちでブログなどを発信しているし、それが自分の原動力のひとつになっています。
そういったこともあり、僕はレッスンできちんと理屈が通った内容を理論的に伝えるように心がけています。
残念なことに、まだまだ多くのトランペットを教えている人の中にはアバウトで断片的な情報、根拠のない抽象的なからだに対する知識と指摘、必要のない精神論、自分の師匠からもらった情報をそのまま流用することも多いようです(もちろん素晴らしいレッスンをされている方もたくさんいらっしゃいます)。
別に統計を取ったわけではありません。そうした雑なレッスンによって、吹き方がわからなくなったり、まったく上達せず意気消沈したトランペット愛好家の方が僕のところにたくさんいらっしゃっているので、そう感じるのです。
先日ルディック版アーバンを買おうとヤマハに行ってamazonの3倍の値段に驚愕しましたが、そのときついでにたくさんの教則本を見たときに感じたのが、方法論だけで根拠や理屈を書いてある書籍がほとんどないこと。
音を出すことひとつとっても、方法しか書いていなくてなぜそうなるのかを知ってか知らずか説明していない。それだと、手段を問わずに結果だけを求めてしまう恐れがあります。
これが危険。音が出ればそれで良いという発想が、上達という道の先に行き止まりを生み出していて、何年も経ってから(行き止まりに直面してから)気づくわけです。八方塞がりになってどうにもこうにもできなくなり、僕のところへレッスンにいらっしゃる。
話を聞くとそういった方が大変多いわけです。
ジブリのアニメで「おもひでぽろぽろ」という作品があります。その中で主人公が姉に算数、分数の割り算を教わるシーンがあり、「分母と分子をひっくり返して掛ければいい」と言われ、その理屈を説明できない姉に対して納得がいかずにケンカになるのですが、まるで自分を見ているかのようでした。
僕もそうでした。問題が解けないのではなく、納得がいかないままに解きたくなかったのです。「理屈なんてどうでもいい、方法だけ覚えればいい」が僕はとても苦手で嫌いで、今も「言われたことを言われた通りすればいい」みたいな言葉に尋常ではない嫌悪感を抱きます。
確かに理屈なんてなくても、その方法だけ覚えてしまえば同じ種類の問題はいくらでも解けるでしょう。でも、理屈がわかるとそれをベースにたくさんの道が開けます。数学のテストの点数だけなら別に(僕は)どうでもいいのですが、トランペットは方法ではなく根拠のある理論が大切だと思うわけです。
音大生のときに後輩と、「息を吸うとお腹が膨らむ vs お腹がへこむ」論争(別にケンカしたわけではない)をしたこともありますが、音大生ですら呼吸の正しい原理を理解せずにいた、ということです。
生徒さんが何を求めているかで僕の価値はだいぶ変わるとは思いますが、スタイルとして「まるでお医者さん」のような講師がいても良いと自分も思っています。
もちろん、歌うとか表現するとか、音楽的なアプローチのレッスンもします。むしろそっちのほうが自分は以前から得意なので、その話題のときは抽象的なイメージもたくさん出します。
どっちかだけではやはり良くない。
音楽は両方のバランスが大切です。
荻原明(おぎわらあきら)