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俳句のアニミズムとは?

2024.09.29 05:14

http://buntan.la.coocan.jp/back2/animism.html 【俳句のアニミズムとは?】より

  まえおき

 1993年8月、「小夏とかつお」(自分史・高校編)を自費出版した。その文集の一つに、藤田洋一さん(故人)の次のような文章が掲載されている。

 ー 歳を取るとやっぱりアチラの方の事情も幾らか気になる。遠藤周作さんはよく「生かされている」と言っている。若い頃のフランス留学時代の事を書いた『牧歌』は彼のクリスチャンに至る壮絶な体験が描かれているが、理解する所はあってもあの異国の宗教を信じることで救われるきがしない。梅原猛さんの動物はおろか山川草木総てに魂が宿るアニミズムの方が心和やかに感じられる。-

 アニミズムとは何か、私は洋一さんの文章に書かれているように理解していた。今でも、それ以上でもそれ以下でもない。

  俳句のアニミズムとは?

 著書『中沢新一 俳句の海に潜る 小澤實』に、「俳句のアニミズム」(中沢新一)の章がある。その中に、金子兜太と佐々木幸綱の対談が紹介されている。

 佐々木 「俳句の本質はアニミズムなんではないですか」

 金子  「そうなんだよ アニミズムを無視して俳句を作るなと言いたいぐらいです」

 上記「俳句のアニミズム」は、私の初歩的なアニミズムをはるかに超えている。「俳句のアニミズム」には、そのことが具体的に書かれてある。

   閑さや岩にしみ入る蝉の声      松尾芭蕉

 「この句はまさにアニミズムの極致。蝉を流れるスピリット(※①)と岩を流れるスピリッツが相互貫入を起こして染みこみあっている」、と書かれている(※②)。

※①動くもの。②私にとっては、難解。

   凍蝶(いててふ)の己が魂追うて飛ぶ  高浜虚子

 「この句をアニミズム的な詩と呼ぶことができても、じつは近代的なアニミズムである」、と評している(※)。

※中沢氏は、この句を「アニミズムの俳句」に位置付けていない。

   採る茄子の手籠にきゅァとなきにけり  飯田蛇笏

 「<きゅァ>っと音がした。その<きゅァ>を、茄子が泣いていると言った瞬間に、茄子の中に意識が入ってしまっている。茄子と俳人の間で意識の相互貫入が起こってしまっている」、と解説されている(※)。

※アニミズムの代表的な俳句としてあげられている。

   おおかみに蛍が一つ付いていた     金子兜汰

 「まさに「東国」のアニミズム感覚。蛍はお尻を光らせ、その体につけたおおかみは、自分の力をもって存在の光をしめす。おおかみはもういなくなってしまったが、じっさいに見たこともないのに、私たちの中には、おおかみの目の光の記憶があるように思える。たぶんこの目の光は「東国」の自然の放つ霊妙な原始的エネルギーの化身なのか。俳句とアニミズムが根源的なところでつながっている」、と評価している。

  おわりに

 詩の表現に擬人法がある。「物や動物を人になざられえた表現」と言われている。

   木啄も庵はやぶらず夏木立       松尾芭蕉

 この句は、木啄を人に見立てているから、擬人法だと言われている。但し、擬人法とアニミズムは関係がない。

 俳句に「物」に語らせる手法がある。「アニミズムとの関わりは?」、と思ったことがあった。しかし、語らせるのだから、アニミズムではない。

 本文で、蛇笏は茄子に兜太はおおかみに、意識を集中し俳句の世界として詠まれている。その五七五の音の世界では、茄子やおおかみに魂があっても自然な描写になる。そのアニミズムに、俳句の本質があるのかも知れない。


https://note.com/ohanacya/n/n41108af00505 【俳句とアニミズム】より

「俳句の海に潜る」

文化人類学者 中沢新一さんと俳人 小澤實さんの対談本を読んだ。

「俳句の本質はアニミズムだと思う」中沢新一さんのこの言葉は、心動かされる言葉だった。

アニミズムとは、生物・無機物を問わないすべてのものの中に霊魂、もしくは霊が宿っているという考え方。

太古の縄文時代から続く日本人の持つ自然信仰的な世界の見方。それこそが俳句の本質だという。俳句は必ず季語を立てないといけない。

動植物と気象を立てて、それを季語にして詠むという芸術の一種のルールがある。

つまりそれは「人間の目で見るな」ということです。人間の目で世界を見るのではなくて、人間と動植物の関係性で見ていく。あるいは、例えば鷹を詠むときは、鷹の目になる。

動植物の目になって世界を認識することをルールにしているわけです。中沢新一 

世界は人間のためだけにあるのではないということを歳時記は示している 小澤實 

そんな風に思ったことがなかった。

川柳や短歌といったより自由な形式なものに淘汰されることなく、あくまで季語を入れることに拘る古典的な手法をとる俳句が続いている意味が深いものに思えてくる。

自然と人の世界は分かれすぎているけれど、本来であれば人も自然界の一部。

それを忘れてしまっている。自分も含めて。

自然との境界線が曖昧で、輪郭が薄い状態になれたなら、自然界から奪いすぎることもないだろう。

アニミズムは人間中心の世界ではない世界の見え方を教えてくれる。

現代の日本人も無意識にアニミズム的な感覚はあると思う。

10年は前にはなるけれど、トイレの神様がヒットした。

トイレにも神様はいるんだよ。という考え方。まさしくアニミズムである。

今尚、持ってはいるものの意識をすることのなくなっている力。

このアニミズムが今、必要なのではないかと思う。

芭蕉の持つ目の凄さが、この本を通して伝わってきた。

人間の持つ生者のルール、様々な人間的な部分を薄くして、自然に対して浸透膜のように接することができないとこんな句は詠めないと芭蕉を評していた。

彼の宇宙観を知りたいと思った。

面白かったのが小澤氏が選んだアニミズム的俳句10選

この中の一つに高浜虚子の句があった。

凍蝶の 己が魂 追うて飛ぶ 高浜虚子

美しい言葉選びだと惹かれるものがあったけれど、中沢新一さん曰く、虚子の俳句はアニミズム的なようで実は近代的な思想をもとに作られているということだった。

生きている凍蝶の肉体が、別れ出てしまった魂を追っているということは、

魂と身体とを別のものと捉えているということである。

小澤さんがこの言葉を受け、いくつかの虚子の句を再検討してくれたけれど、確かに自然モチーフでアニミズム的に見えるものの、そうではないものが多かった。

一方、10選に挙げられた句でこういうものがあった。

採る茄子の手籠にきゆァと鳴きにけり 飯田蛇笏

かごに入れる時に茄子と茄子が触れ合ってきゆァと鳴いた。なんとも茄子がいとおしく感じられる。茄子が精霊のように感じられる。植物の中に宿っているような、一体になるような、この感覚。この感覚なんだ。

私が中学時代授業で作った俳句の数々は、まるで本質を理解していなかったなぁと思う。

言葉の寄せ集め。簡素なコラージュのようで。アースダイバーな芭蕉をはじめとする俳句の偉人に学び、自分もアニミズム的な俳句を作ってみたくなった。面白いではないか!あと、とても面白かったのが「なぜ俳句を縦に書くか」俳句を縦一行に書くことに神の依り代をみることができないかと以前小澤さんは問題提起を行ったらしい。

諏訪大社の祭御柱祭の深山から切り出したもみの巨木をはるばる曳いてきて神社の境内に立てる御柱を挙げて、縦書きの俳句とそれらの依り代が似ているということだ。

縄文から続く柱や石を立てる行為。芸術行為。

そこに日本人の精神史を組み立てることができるのではないかという話にも広がった。

それは世界にも見られるかもしれないので、もっと世界の根源的な感覚かもしれない。

俳句の海は、遡れば深い、人間と地球の歴史。

天 地(あまつち) の 間 に ほ ろ と 時 雨 か な

最後が高浜虚子で締めくくられたのも、なんだか俳人高浜虚子への敬意も感じられてよかった。

自然と中沢新一さんを追いかけているようで、すっかりファンになってしまっている。

同時代を生きているって、すごいことだ。嬉しい。