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偉人『タマラ・ド・レンピッカ』

2024.10.04 00:00

1920年代フランスで活躍したロシア系ポーランド人のタマラ・レンピッカ。貪欲なまでに計算し尽くし生き切った妖艶な女性であり、アール・デコを芸術の域に押し上げた女流画家でもある。人一倍プライドが高く、上流階級で生きることに執念を燃やし夫ではその生活水準が維持できないと判断すると画家として生計を立てることを決断した強い女性でもある。

ロシア系ポーランド人であり、両親の離婚によって14歳で叔母の嫁ぎ先である貴族の生活を味わいその裕福さを知った。そこからタマラは生活の豊かさを維持するためにはどのように生きていけば良いのかを考えていたようである。そして15歳でオペラ鑑賞に来ていた後の夫となる日本でいうところの伊達男で名の通っていたタデウシュ・ウェンビツキに出会い、彼女は様々な手を使いアプローチして婚姻に結びつけた。当時ポーランド人の社交界で目立ったタデウシュを躍起になって獲得したということのようである。以下の絵画はその夫の肖像画であるがすでにタマラの心は彼から離れていたようで結婚指輪をするはずの左手は未完で尚且つ指輪も描かれていない。

1917年のロシア革命で夫タデウシュが逮捕されタマラはスウェーデン領事の助けにより夫を救出し、デンマークを経由してフランス・パリへと難を逃れたのである。銃殺刑を免れた夫は職に就けずパリでの生活は持ってきた宝石を売り捌いて生活費に充てた。しかしロシア革命は終わる気配を見せず長引き目減りする糧に不安を覚え娘を出産した後、タマラは生計を立てるために画家になることを決意した。天賦の才能と何が何でも画家とならなければならなかった彼女の強い意志でサロンに出品するほどになっていた。

タマラが画家になることを決意したのには彼女が子供の頃に経験しいたことが大きく関わっている。弁護士の父と裕福な家庭に生まれた母との間に生まれたタマラは、スイス・ローザンヌの全寮制の学校に通い、13歳で祖母と共にイタリアとコートダジュールを旅行しイタリアの絵画巨匠らの作品を多く観た経験を持つ。元々絵画のセンスがあった上に幼い頃の経験が彼女の直感に働きをもたらし画家としての道を歩むことに躊躇することなく邁進することができたといえよう。タマラは子供の頃から負けん気が強く、わがままなところがあったと言われており競争心が並外れていたと言われている。社交界で浮き名を流していた夫の周りを囲んでいた多くの女性を払い退けて結婚したことや多くの持参金を積んで叔父のコネを使ったと言われていることから、目的や目標を定めたら自らの意思で必ず入手するという意思が強いのだと考える。ではどのように育てたらそのように育つのかを子供の発達から考えてみよう。

タマラのことは一旦端っこに寄せておこう。

さて子育てに於いて子供が駄々をこねて困ることもあるだろう。例えば最近相談があったことは食事の前にお菓子を食べたいと主張して泣いて困るというものだ。その泣いて駄々を捏ねるという程度の見極めが先ず必要である。言い聞かせができる程度であれば確りと食事をしてから食べてよしと伝え納得してもらえるようにする方が親子共に楽な方法である。

しかし強硬な主張をしだし話を一切聞いてもらえないや物に当たるなどの行動を子供が起こす場合には、タマラのように自分の目的を果たすまではガンとして動かない納得しないという聞き分けが難しい状況が生まれてしまう。このような場合には以下の方法で対応する。しかしそこにもいくつか注意が必要なのでこれまでの親子の関係性やこのような状況が生まれた背景など話を聞く必要があるため一般的な話となる。

では「お菓子が食べたい」と子供が主張する場合、泣いて騒いでどうにも収まらないとダメだと拒否をして取り合わないと、実はお菓子が食べたいという感情はどこかへ行ってしまい、親と子供との対立になり親に勝ちたいという感情が育ってしまう。つまり勝ち負け勝負になってしまい、親が自分自身のいうことを聞くまで泣き叫ぶという構造が生まれるのである。これが負けん気で少々難ありの競争心を育ててしまうことになるのだ。この方法で親が根負けしお菓子を与えてしまうと次も同じ方法でお菓子を得ようと行動するようになる。そうするとかなり厳しい状況になってしまう。

ではどうするのか。

食事の前のお菓子を阻止するためには見せかけのお菓子ゲットを実行するのである。

その時に必要なのが子供のバッグや帽子などでお菓子を袋ごとその中へ入れてやり、一旦手に入ったかのように見せかけて食後に食べる方向へ導くのである。子供もお菓子が自分のものになったという満足を得られ、親は食後にお菓子を食べさせるということが実行できるのである。そうすることにより親子の対立がなくなり難有りの競争心を育てることからは距離を置くことができる。

上記の子供の発達を念頭に入れてタマラ・レンピッカについて考えてみよう。子供の頃からわがままであったことは知られていることであり、夫との結婚についてもあの手この手を使い結実させたと言われている。そして画家になってからは自分自身の美貌を武器にモデルをこなし、あわよくば女優としてスクリーンの前に立ちたいと自己アピールを全面に出しまるで芸能人のような立ち回りを行なった。彼女の行動を知れば知るほど私には理解し難い内容ばかりが浮き彫りになり友人にはしたくない女性と言ってもいいかも知れない。しかし彼女が貪欲に生活水準を落とさないと決断し、夫に頼ることなく自分自身の力で糧を得て尚且つ自分自身をプロデュースする力があることは評価に値する。

そんな彼女の強さを表したのが彼女の傑作と言われる作品が以下の『緑色のブッガティに乗るタマラ』である。当時流行していた自動車ブッガティに乗り冷ややかな視線を送る強さを全面に出した自立した女性像は正にタマラ・ド・レンピッカそのものである。最晩年まで彼女は彼女の周りにいる人々を翻弄し続け、自分自身の絵画活動を理解しない人々への不平不満を並べ立てていたと言われているが、それでも最後まで年老いた世界中の仲間と一部の若い貴族らと共にメキシコで暮らせたことは彼女の望んだ裕福な暮らしを実現でき幸せだったといえるであろう。

タマラの人生を考えるとき裕福な生活の中にどのような幸せを見ていたのであろうか。私ならばそこそこの経済的暮らしの中で理解してくれる夫との晩年を想像している。なんだかんだで頼れるのは夫であり、彼との生活の中での小さな幸せを楽しむことができればそれで十分である。このような考えをタマラはきっと鼻で笑って馬鹿にするであろうが、人それぞれ幸せの形があるのだからタマラを批判することもなかろう。彼女は彼女らしい生き方をした。そして子育て上でも芸術の上でも多くの学びを後世の人々に残した人物であったのだから評価して然りなんだろう。