「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 道長と彰子・まひろと賢子という二つの親子
「宇田川源流」【大河ドラマ 光る君へ】 道長と彰子・まひろと賢子という二つの親子
毎週水曜日は、大河ドラマ「光る君へ」について、好き勝手に書かせてもらっている。今回は、まひろ(藤式部:吉高由里子さん)が中宮彰子(見上愛さん)の出産後一時家に変えるというところからである。家に帰れば、今まで通り藤原為時(岸谷五朗さん)がいて、娘の藤原賢子(梨里花さん)や乙丸(矢部太郎さん)などのメンバーがそのままの生活をしている。実際に、まひろの女房勤めの給金で暮らしているのであり、その意味では、まひろが頑張っているということを知っている人々は、大歓迎することになる。その歓迎をうまく「こんなに白いコメを見たことがない」という一言でうまく表しているのは、非常に素晴らしい内容ではないか。
そして、そのようなことではなく、母のいないさみしさをそのまま表したのが賢子ということになる。
「反抗期」というよりは「ずっと無視されて、親の愛情を知らない子供」というようなことになってしまうのではないか。今の「一人っ子でスマホばかりしている子供たち」をうまく風刺している漢字が素晴らしい。実際に両親共働きで、通いごとばかりしていて、実際の親の愛z場を知らない子供は最近増えている。そのような「ネットネイティブ・コミュニケーション障害」というような人々が「Z世代」といわれる人々の特徴になっているのであり、そのような特徴が現在であれば「みんながそう」で終わってしまうが、当時はそのようにはならず、子供なりに愛情に植えた子供になってしまうということになる。
実際に大弐三位とのちにいわれる藤原賢子は、恋の駆け引きが上手であったという逸話が残っている。しかし、実際には「駆け引きが上手」なのではなく、それだけ「人の愛情に飢えていた」ということなのかもしれない。少なくともこの物語ではそのように解釈するということになったのであろう。人お愛情に飢えていた女性が、和歌などの文章の知識を持ち、なおあかる母である紫式部の物語を教訓に死ながら生きてゆくということになればかなりしたたかな女性になったのであろう。
歴史上の解釈では18歳ごろ、母の後を継ぎ一条院の女院彰子(上東門院)に女房として出仕し、この間、藤原頼宗、藤原定頼、源朝任らと交際があったことが知られている。
<参考記事>
【光る君へ】「これはアカン」泥酔&下世話トークにネットどん引き「酒癖悪いw」「鼻につく自慢話」
2024年09月29日 20時51分スポーツ報知
https://news.nifty.com/article/entame/showbizd/12265-3424774/
<以上参考記事>
一方の中宮彰子は、一条天皇(塩野瑛久さん)の第二皇子・敦成親王(後一条天皇)を産んだことによって、かなり落ち着きが出てきた。実際に、御所の中に居場所ができるということはこのような事であろうか。「子は鎹」というが、まさにそのような状況になっている。
さて、ここであえてという言い方をするが、彰子とまひろの関係は「父の愛人」なのか、または「義母」なのかということが非常に難しい。これは、後に藤原賢子も彰子に女房として使えることになるのであるが、この二人の関係は、まさに「母の違う兄弟」というのがこの大河ドラマでの設定ということになる。ある意味で、この二人は「何も話さないd芽生阿吽の呼吸で様々なことができる」ということになっているのではないか。そのようなところから逆算すると、藤壷にいる彰子にとって、「母親と同じ愛情を持ったまひろは、もっとも安心することのできる女房」であったということになるのではないか。
ある意味で、藤原道長(柄本佑さん)の浮気というか、実際はまひろの方が本気であったかのように書かれているが、そのまひろとの関係が、うまく彰子の役に立っているというような感じになっているのが非常に面白い。もちろん、「結果を知って1000年後にドラマとしてみている」から、興味深く見ていられるのであるが、その内容がそのまま「うまくドラマになっている」ということになる。
ここからまた逆に見れば「実際の子供」である賢子よりも、「自分の好きな男性の子供」の方に愛情を注いでしまうということもあるのかもしれないし、また、自分がずっとやりたかった物語によって様々な人々の心を動かすということが、自分の内容にとって非常にうれしく、やりがいを感じているということにもつながるのかもしれない。
実際に、現在でも夫婦げんかで「仕事と家庭のどっちが大事なの」と怒る妻と「そりゃ仕事も家庭もどっちも大事だよ」というような、男性。まさにその仕事をしている人が、「長遺憾の単身赴任をしている」というような感覚で見ていれば、このドラマは、急に現代の身近なドラマに見えてくるのではないか。服装が平安時代の服装をしているだけで、実際は、「歴史を使った現代の風刺」担っているということがこれらのドラマの本当の役目であり、そのことをわかりながら見ていれば、今回のドラマは、何か、親子関係などでも、すれ違いや分かり合える関係など、様々な形の人間関係を見ることができるのではないか。
そして、そのような人間関係で最後まで分かり合えないのが藤原伊周(三浦翔平さん)ということになる。そしてその人は、今ならば暴力に訴えるなどのことになるのかもしれないが、この時代は「呪詛」ということを行うようになるのである。しかしk、その呪詛の話は次回という事であろう。
まさに、今回の物語のように「平安時代を舞台にしながら、現代のホームドラマのような内容で、中の風刺もうまくできている」ということが、現代に見ている私たち視聴者が、うまく心を入れてみることができる状態なのではないか。なんとなくドラマの中に入り込めるのは、そのような内容を見ながら楽しめる人々なのかもしれない。それぞれの立場は違っても、身近にそのような人が見えれば、なんとなく楽しむことができる。そして平安時代の貴族も、現代のわれわれも悩んでいることはそんなに変わらないということが見えてくるのではないか。