カットグラスの花瓶、1924年。
カットグラスの花瓶(16,5 x 7,8 cm)、イギリス、1924年製。高さも口径も活けるのに丁度いい大きさの花器、カットの装飾も控えめでいい、上部はシルバー製、バーミングハム1924製。さり気ない物。余り主張しないので使ってても飽きない。
骨董でも今の物でもいいのだが中々ない物の一つに急須がある、お茶を注ぐのにいい急須を探すのは大変、作家ならば郡司さんの急須は素晴らしく一つ持ってはいるが、買い足そうにも中々巡り合わない。小さい煎茶用急須で「乃りたけ」の物を持っていたので久し振りに使ってみた、恐らく昭和の頭頃の物、何処と無く大正風の急須。これが中々に良い、古い道具を使っているとその時代の人々の暮らし振りが分かるような気がする、急須の持ち加減、注ぐときの感じ、お茶の出具合などから当時の生活振りが偲ばれるような気がする。古い物を使う、とは少し大袈裟に言えば、当時の人の様に振る舞う、ことかもしれない。江戸中期や18世紀の物を生活の中に取り込めば少しだけその時代が生活の中に入り込んでくることになる。こんな時代だからこそ生活の中に古い時代の物を取り入れる意味はあるように思うし、そうすることで自分の中の何かが癒されるのだろう。現代の生活は余りにも脳に偏り過ぎていて、そういう意味では異常でもある。
古い物に囲まれて暮らす。デジタルな物からしばし離れ、マニュアルの世界に没入する時間を持つ。僕の場合は、万年筆でノートに字を書きながらパイプを喫い好きな九谷の湯呑みでコーヒーを飲む、僕の「癒しタイム」だ。万年筆もエッセーを書くときと物語を書くときは別のを使う、物語を書くときは真剣勝負で自分の意識が研ぎ澄まされているので、昔のパイロットの万年筆でペン先がとても鋭いやつで書く。自分の意識の鋭さがそのままペン先に伝わるように鋭い物を使うのだ。ペン先が自分の意識の延長になって動いてくれるからだ。物語は自分にとって真剣勝負なので他の物では書けない、刀で斬りながら書いてるような感覚に近い。
僕のこの商売も儲かることはなくても潰れることもないと思う。まあ地味に細く長く続けるつもりだ。