ショパンとお金
ワルシャワを離れて4週間、ウィーンに来てから1週間ほどでショパンは
ウィーンの甘くておいしいお菓子を食べていたせいか少し太ったようだった。
2度目のウィーン訪問は初めてウィーンへ旅行した1829年の8月の時のように
ショパンの音楽活動は順調ではなかった。
ショパンはウィーンの寒い冬のせいか鼻が腫れてしまい体調がいまひとつであった。
ワルシャワ時代からの恩師のヴェルェルも体調が優れず、ウィーンで演奏会の活動はなく自宅でレッスンを細々としているだけになっていた。
ヴエルフェルが弟子であるショパンに無料で演奏するように勧めたり、
ウィーンの新聞に載ったショパンのピアノ協奏曲2番(1番のこと)の評論のことを
ヴェルフェルがとやかく言うことをショパンには好意的な忠告とは思えなかった。
ショパンの演奏会の予定は、なかなか決まりそうになかった。
ショパンは、アレキサンドラ・フレンチシュカ・テオフィラ・ロザリア・ジェブスカ伯爵婦人の知り合いフッサジェフスキ伯爵に2、3回面会した。フッサジェスキはショパンが無料で演奏することは反対であった。
ヴワディスワフ・オフトロフスキ(ワルシャワ 騎馬砲兵隊中佐)の紹介で
ベートーヴェンの親友であったヨハン・マルファッティ(宮廷医師)にショパンは面会した。マルファッティはショパンを自分の家族のように暖かい態度で歓迎した。
そして、ウィーン駐在ロシア大使の妻でタチーシシェフ夫人に口添えすることと、必要なコネクションをいくらでも作ってあげようとショパンに約束をした。
ただし、王宮はナポリ王の喪に服しているため、宮廷関係は難しいとマルファッティはショパンに残念な現実を話した。
しかし、エドゥアルト・フォン・ラノイ男爵(ウィーン楽友協会理事であり音楽院の運営に携わる)にはマルファッティはショパンを会わせてあげることができると話した。
そして、クレンゲルの紹介でアウグスト・ミッター(帝室・王室宮廷楽団の団員でウィーン音楽院でファゴットとピアノを教えている)にもショパンは面会する希望を持っていた。
カール・ツェルニーにはショパンはすでに面会したが、ツェルニーはショパンに「勉強してますか?」と尋ね、ツェルニー自身の編曲した曲の自慢話をショパンは付き合わされた。
ヴァヴァーハイム夫人(エドヴァルト・ヴォルフのおばで後にショパンの親友)に2回面会し、ヴァヴァーハイム夫人の小さな集い招かれ、その後、ショパンはフッサジェフスキ伯爵の計らいでロザリア・ジェブスカ伯爵邸へ行き、ジェブスカ伯爵夫人に面会し、そこで、
モシェレスが4手のためのソナタを捧げたことで有名なカテリーナ・チッピーニ夫人(モーツァルト亡き後の宮廷作曲家)にも面会することになっていた。
シュッターメッツの銀行にショパンは幾つかの紹介状を持参してお金を借りに行ったが、その他の一般のお客と同じく滞在許可証を貰うのがやっとであった。その後、
友人のティトゥスが6000グルデンのお金を預けている銀行もショパンは行き、ヨハン・ヤーコプ・ガイミュラー(ウィーンのペーターオクス銀行に勤める。銀行家・金融家1760-1834)に面会したが、演奏会を開くことには賛同できないと言われた。
ウィーンには優秀なピアニストがたくさんいるので、お金を儲けるには高い名声がなくては無理だとショパンはガイミュラーに言われたのだ。そして、彼は更に、「厳しいご時勢なので、ショパンさんの力にはなれません」と付け加えたのであった。
ショパンはあまりの悔しさから、「ウィーン駐在ロシア大使や富豪の知り合いにもまだ面会していないし、ウィーンで演奏会をする価値があるかがそもそもわかりませんね!」
とガイミュラーに言い返した。するとガイミュラーの目つきが変わったが、ショパン青年は
「商売のじゃまをして悪かったな、」とだけ言い残しその場を去ったのであった。
ヨハン・マルファッティ(宮廷医師)1775年ー1859年