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金山の歴史

2024.10.02 13:16

https://news.yahoo.co.jp/articles/2d5a109f414146b480c9ae6e443c479d25566a6a 【金山の歴史知って 石と賢治のミュージアム 一関・東山 標本や採掘用具 展示】より

岩手日日新聞社

一関市東山町の石と賢治のミュージアムで開かれている「岩手・宮城の金山展」

 一関市東山町の石と賢治のミュージアム(菅原淳館長)で、国内や県内の金鉱床の標本や金山で使われた採掘用具などを展示する「岩手・宮城の金山展」が開かれ、来場者の関心を集めている。10月14日まで。

 企画展は平泉町と陸前高田市、宮城県気仙沼市、南三陸町、石巻市、涌谷町で構成する日本遺産「みちのくGOLD浪漫」推進協議会が共催。鹿折金山資料館(気仙沼市)と蒲田理さん(北上市立博物館研究員)、畠山篤雄さん(一関市教委文化財課)が協力し、国内や県内の金鉱床の標本をはじめ砂鉄の採集道具、金鉱石の採掘用具、水銀を使った製錬用具、明治時代の鹿折金山の様子を撮影した写真、県内や東磐井の金山・鉱山の分布を表した地図、説明用の資料やパネルを含め約80点を展示した。

 ミュージアムの開館時間は午前9時~午後5時。月曜休館。問い合わせは同ミュージアム=0191(47)3655=へ。


https://www.center-i.org/%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%B4%99idea/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E8%AA%BF%E6%9F%BB-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB-7-%E9%87%91%E5%B1%B1%E4%B8%80%E6%8F%86-%E5%89%8D%E7%B7%A8-1/ 【伝説調査 ファイル№7 金山一揆(前編)】より

 当地域で起こった「一揆」として‘聞いたことがある’という人は少なくない「金山一揆」。その中心人物たちは撫で切りや処刑となり「罪人」としてその多くが家系図からも消されているのだとか。しかし、民衆側に立てば、自らの命を犠牲にして領主等に立ち向かった「義民」であり、その側に立った歴史解釈も必要なはず……。そこで、犠牲になった民衆側に立って、「金山一揆」を整理してみました(記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です)。

※市民86人へ質問した結果、35人が「聞いたことがある」と回答。そのうち、詳細を把握していた人は8人。

■通説に見る「金山一揆」

「金山一揆」の通説は、伊達藩の視点で語られています。その内容は次のようなものです。

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 産金地であった当地に豊臣秀吉の命で3奉行が派遣され、産金の税を年1回から3回に増やした。これに対し堀子たち3千人が強訴のため白山堂(現在の千厩町松沢神社)に集まり、一揆に発展した。

 金山肝入白石十郎左衛門らは、秀吉配下の3奉行をかくまい、伊達藩の宿老に急報。宿老は代官の黒木中務宗元を将として鎮定軍を派遣し、一揆の発頭人を撫で切りに、頭取38人を処刑、一揆を鎮定した。

 しかし、この一揆の黒幕が政宗であると秀吉家臣に直訴した者が。この疑惑を白石十郎左衛門らが身命を賭して上洛・申し開きをしたことで、政宗の謀反疑惑も晴れ、白石十郎左衛門も無罪放免となった。

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 この視点に立つと、金山一揆の英雄は3奉行をかくまい、かつ伊達政宗の潔白を証明した白石十郎左衛門(白石時直)であり、実際、時直はこの一揆を経て伊達政宗から褒美を授かります。それは土地4貫文(40石)や、政宗の子を身籠った側女という、破格なものでした(その他、褒美には諸説あり)。

 しかし、この白石時直は葛西旧臣であり、実はこの一揆の発頭人(頭取)たちの多くも葛西旧臣だったという側面が。つまり、一揆の発頭人たちの立場とすれば、同じ葛西家臣だった時直が伊達藩に仕え、なおかつ自分たちを苦しめる秀吉配下の3奉行をかくまったというのは、裏切られたような状況……。

 そもそも、なぜ葛西旧臣たちが金の堀子として暮らしていたのでしょうか?次頁では視点を変えて金山一揆を見てみます。

※決して白石時直らを否定する意味合いではありませんので、ご理解をお願いします。

金山一揆 関係者相関図

堀子から見る金山一揆

金山一揆 堀子側のストーリー オリジナル漫画

白石十郎左衛門(白石時直)にスポットの当たることが多い「金山一揆」。あえて堀子側にスポットを当ててみると、上↑のようなストーリーになります。以下、注目ポイントをご紹介!

1.葛西旧臣たちはなぜ堀子に?

 奥羽仕置後の木村氏の圧政と、そこから生じた大崎・葛西一揆などを経て、疲弊していた当地域。新領主となる伊達氏は、領民支配のためにあえて葛西旧臣を排除せず、穏便に従順させるため、村の肝入にしたり、帰農させ、土地を「安堵する」方策をとりました(逆に先祖代々の在地を離れ、山師的な生業を余儀なくされた「野武士」もいたとか)。

 当時、朝鮮出兵も相まり産金需要が増していたため、帰農した葛西旧臣を含む農民たちは金の「堀子」としても働いており、堀子となった葛西旧臣たちは「堀子の頭」的な存在だったのかもしれません。

2.「強訴」するほどの重税だった?

 通説では「強訴」の原因(内容)は「年1回から年3回の増徴」への反発とされますが、強訴が行われたのが3回目の「本判役(≒金山年貢)」の納入時期(10月)だったことから、1・2回目は納入していたのでは?という説が。

 

 ではなぜ3回目の納入時期に「強訴」に踏み切ったのか……。それは「年3回」という年貢の中身ではなく、「本判役」の「収取方法」への不満だったのではないかと指摘する研究が!

 実は「本判役」が課せられる「本判持」の中には、他国から流れてきた者も多く、困窮して

逃亡する者も……。「本判役」は「本判持」が死亡・逃亡等をした際には親族に賦課し、親族が探し出せない場合は村が弁済していたのだとか(村の肝入が本判肝入を兼務するケースが多いため?)。

 また、そうした「渡り金掘り」たちが無秩序に産金を行うなどの混乱も生じていたといい、‘「本判役」の納入が困難な状況が発生していた’ことを直訴したかったのでは……という説もあるのです。 

3.なぜ軽い処罰で済んだ?

 3千人もの参加者がいたのに対し、「六道塚」に「磔」にされたのは38人とされ、一揆の規模に対して少数と言えるのだとか。また、一揆に加勢した者に対しても、政宗から「今回は罪に問わない」という旨の書状があったとされます。

 この背景には、朝鮮再征を控え、軍資金調達に当地域の産金が要であったことに加え、千厩が馬産地でもあり、ターミナル的な機能を有していたことがあるのでは、という話も。

 しかし、軽い処罰で済み、金山経営も伊達直轄に戻ったにも関わらず、堀子たちの「本判役」の苦しみは大きくは変わらず、結果的に、1601年には「釜石一揆」という葛西旧臣の絡む一揆が発生しています。

次号(後編)では、金山一揆に関係する実際の場所や、当地における金の採掘方法をご紹介いたします!

<参考文献> ※順不同

千厩町観光協会(1997)『金山一揆』

池亨・遠藤ゆり子(2012)『産金村落と奥州の地域社会-近世前期の仙台藩を中心に』

村上光一(1998)『中澤家文書に見る近世初期断片 千厩宿を中心とする地方史から 平成11年度東磐史学第24号抜刷図書』

千厩町史談会(1994)『金山一揆 文禄三年金山一揆四百年記念資料集図書』


https://www.center-i.org/%E6%83%85%E5%A0%B1%E7%B4%99idea/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6/%E3%82%BB%E3%83%B3%E3%82%BF%E3%83%BC%E3%81%AE%E8%87%AA%E7%94%B1%E7%A0%94%E7%A9%B6-%E4%BC%9D%E8%AA%AC%E8%AA%BF%E6%9F%BB-%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB-7-%E9%87%91%E5%B1%B1%E4%B8%80%E6%8F%86-%E5%BE%8C%E7%B7%A8-1/【伝説調査 ファイル№7 金山一揆(後編)】より

 1594年、東山地方の金の堀子たちの強訴から発展した「金山一揆」。一揆を鎮圧した豊臣政権の視点で語られることが多いですが、前号ではあえて一揆を起こした堀子側の視点で整理してみました。その中で湧いてきたのが「強訴を起こさなければいけないほど、産金は大変だったのか」という疑問。そこで今回は、続編として「金山一揆」ゆかりの地とともに、当地域における「産金方法」にスポットを当ててみます!(記載内容はあくまでも当センター独自調査の結果です)

※「磐井郡東山」という地域名称があり、現在の東磐井地域にあたる31か村に舞草村・相川村(現在の一関市舞川)、現在の平泉町や奥州市の一部が加わったエリアのこと。

■産金の歴史

 日本における金の採掘で、最も古い記録とされるのは、天平21年(749年)、現在の宮城県遠田郡涌谷町※1です。奈良・東大寺の大仏に使用されたとされています。

※1 同時期の歴史を謳っている金山も見受けられるが、学術的には涌谷町のみが文書での記録を確認できる。

 その後、陸奥の国では砂金採りが盛んに行われ、特にも奥州藤原氏が「中尊寺金色堂(1124年上棟)」に象徴される平泉黄金文化を築きます。

 当地域(東山地方)には数多くの金山があったとされ、その始まりはよく分かっていませんが、古代~中世、江戸時代初頭まで金の産出が行われていました。文禄3年(1594年)に堀子たちが金山年貢の重税に対する強訴(金山一揆)をしていることから、当地域では、江戸初期には産金量の減少が推測されます。なお、有名な新潟県の佐渡金山は1601年に開山され、江戸幕府の直轄で金山経営が行われています。

 明治に入ると、削岩機や火薬発破等の新技術を導入した会社経営による近代鉱山に転換。当地域でもかつての金山跡を中心に、改めて採掘が行われるようになり、その多くは戦後に閉山していますが、昭和60年頃まで稼働した鉱山もありました。

■古代~江戸期の採取方法

 古代~鎌倉時代にかけては、砂金を含んだ川砂を水で洗い流して金粒を集める方法(川金)が基本でした。 

 採取量が減ってくると、川の岸辺や河岸段丘の土を洗い出すようになります(土金や柴金と呼ばれる)。

 また、鉱脈は地表に露出し風雨にさらされると、酸化して黒褐色に変色するため、それらを目印※2に表土に近い鉱脈(露天・露頭)を掘る「露天掘り」に採掘の中心が推移。

※2 当時の採取方法ははっきりと分かってはいないため、あくまでも推測。これが全てではない。

 次第に工芸品や貨幣など、金の需要が増し、表土からの産金に限界が来ると、鉱脈を探し、岩盤を掘り進めていくことになります。このように鉱脈を直接掘り進めて行くことは「ひ押し堀り」と呼ばれ、技術の進歩とともに、坑道を開削しながらの「坑道堀り」も発展していきます。

 砂金や柴金と違い、鉱石から金を採取するためには、掘り出した鉱石を砕き、砕いた鉱石を石臼ですりつぶし(粉成(こなし))、それを「セリ板」もしくは「ゆり板」と呼ばれる道具を用いて行う比重選鉱(「汰り(ゆ)分け」)が必要です。

 つまり、産金には堀子以外にも各種役割分担があり、組織的に行われていたと考えられます。

Q金の鉱脈がありそうな山はどうやって探した? 

 産金においては「山師」と呼ばれる鉱脈を見つけて歩く存在の人がいたとされます。近現代では林業に関連した山林の買い付けを行う人を指すイメージがありますが、組織的な金山経営が行われるようになった時代には、山師が金山を取り締まっていたと考えられます。

 山師は山伏に近い存在だったのではないかという説もあり、普段から山を歩き回り、山に詳しい人物であるはずですが、「金の鉱脈があるかもしれない」と思わせる‘金山あるある’を知っていたのではないでしょうか。 

 例えば通称「がくま」と呼ばれる植物(写真左:三枚山鉱山にて撮影)。正式には何の植物を指すのか定かではないようですが、「リョウメンシダ」などの‘常緑のシダ植物’が金山周辺にはよく見られます。

三枚山鉱山のシダ植物

▲奥玉・三枚山鉱山のシダ植物

矢ノ森鉱山の石英鉱脈の写真(畠山篤雄氏撮影)

▲矢ノ森鉱山の石英鉱脈の写真(畠山篤雄氏撮影)

金山一揆&金山ゆかりスポット

 当地域には、金山が稼働していない現在でも、その当時の面影を見ることができるスポットが複数あります。

 金山一揆に加わった堀子たちはこうした金山で金の採掘を行っていたはず……!直接的なゆかりスポットとともにご紹介します。

金山一揆終結の地

         ▲「金山一揆終結の地」

 千厩町千厩字前田にある「松澤神社」は、金山一揆の当時は白山大権現を勧請した「白山永正寺観音院(白山堂)」でした。この白山堂に堀子たちが集結し、一揆に発展したことで、建物及び什物は焼失しました。現在の松澤神社は明治時代、神仏分離令によってできたものです。

六道塚(六道長根)

         ▲「六道塚(六道長根)」

 金山一揆では、首謀者は撫で切りに、その他の中心的堀子たち38人が磔(はりつけ)となりました。その屍を埋めた4つの塚が、「六道塚(現在の千厩町千厩字中上)」として『千厩村風土記御用書風土記(1775)』に塚の大きさとともに記録されています。

三島山の山砂金露天掘跡

          ▲「山砂金の露天掘跡」

「山砂金の露天掘跡」 

 千厩町磐清水と川崎町薄衣にあった「三島金山沢(みしまかなやまさわ)金山」。三島山麓を露天掘りし、三島峠からの用水路の水で土を洗い流して砂金を採っており、その採掘跡が確認できます。露天掘りの跡が凹地となるため、「金ぼこ」と呼ばれていたとか。標柱には「石名田付近より下川原、金山沢から三島山に及んでおり、凹地として今に残り、『金ぼこ』と呼ばれている。露天掘りの採掘遺構である」と記載されています。

※矢印の付近、山肌が不自然に凹んでいる部分が露天掘りの跡。

矢ノ森金山の写真

           ▲「矢ノ森金山」

 

「矢ノ森金山」

 東山地方の堀子たちが集結した金山一揆。現在の東山町田河津にも多数の金山があり、その一つ「矢ノ森金山」は、坑道跡が観光資源として整備されており、中に入ることが可能。坑道の中では手掘りの跡も確認できます。

三枚山鉱山跡の看板

           ▲「三枚山鉱山」

「三枚山鉱山」

千厩町奥玉と室根町上折壁地区との境界上にあり、坑道口は奥玉地区に3か所、上折壁地区に2か所が記録されています。昭和期には「日本鉱業三枚山鉱山(国策)」として近代鉱山も運営され、昭和13~19年の金産出量は87㎏超。鉱山事務所跡、運鉱場跡、山吹鉱跡など、当時の様子が想像できます。

「峠金山」の写真

            ▲「峠金山」

「峠金山」

 大東町猿沢にある峠金山。周辺には金の採掘跡が多数存在しています。危険性があり、ふさがれた坑道跡もありますが、現在でも坑道入口を見ることができる場所がいくつかあります。左の写真は、「愛宕権現水」の水汲み場から見える場所にある坑道跡。峠金山も近代鉱山として関東の企業や地元企業が採掘を行ないました。

鉱山跡は私有地も多いため、立ち入りの際はご注意ください。

また、「鉱業法」により、鉱石の採掘は各種許可が必要ですので、無許可での採掘はできません。

Q.鉱石から金を取り出すには??

 鉱石から金を採取するには9頁でも触れたように「鉱石を砕く」「砕いた鉱石を石臼ですりつぶす(粉成)」「すりつぶした鉱石を比重選鉱する」という大きく3つの工程が必要になります。

藤沢・新地金山で撮影のくぼみ石

▲藤沢・新地金山で撮影のくぼみ石

藤沢・新地金山で撮影の下臼

▲藤沢・新地金山で撮影の下臼

 

「粉成(こなし)」に使用する石臼は消耗品であり、金山周辺でその都度造り、使用していたとみられています。

 金山があったとされる場所などからは、思いがけず出てくることもあるそうです。

 「粉成(こなし)」した鉱石は「汰(ゆ)り分け」を行います。「ゆり板」や「ゆり鉢」等を用い、水中で比重選鉱を行います。

 「ゆり板」は上下で深さが異なり、下の角には水を流すための口が作られています。

写真の「ゆり板」は一関市教育委員会所蔵

     ▲「ゆり板」は一関市教育委員会所蔵

写真の「ゆり鉢」は新地金山周辺住民所蔵

      ▲「ゆり鉢」は新地金山周辺住民所蔵

東地方 金山・鉱山マップ

 東山地方に多数あったとされる金山・鉱山。その中から文献等でピックアップできた約40か所を地質と合わせてマッピングした当センターオリジナルの金山・鉱山マップをホームページに掲載しています。金の鉱脈がどのように分布しているのか、大まかな推測をしてみることができる……かも!?


せんまや街角資料館

<参考文献> ※順不同

池亨・遠藤ゆり子(2012)『産金村落と奥州の地域社会-近世前期の仙台藩を中心に』

千葉房夫(1981)『東山の金堀』

東山町史編纂委員会(1978)『東山町史』

大東町(1970)『大東町資料 第1集』

室根村史編纂委員会(2004)『室根村史』

大東町(1982) 『大東町史 上巻』

黄海村史編纂委員会(1960)『黄海村史』

東山町田河津公民館(1986)『ふるさとの伝承活動 -田河津の言い伝え・昔話-』

鈴木軍一/編集発行(1990)『田河津村誌』

みちのく中央磐井市民会議(2019)『磐井地方日本学-松川からの発信-』

一関市立大東図書館(2020)『復刻版 東磐井郡曽慶村郷土教育資料』

摺沢史談会(1998)『郷土史叢書 第三集 摺沢の歴史を探ねて』

大原町役場(1931)『大原町誌 上下巻』

興田史談会(1992)『郷土資研究 興田史談第60号』

保呂羽世代間交流会伝承活動部(1988)『ほろわ黄金の道』

広域歴史文化シンポジウム実行委員会(2004)『広域歴史文化シンポジウム記録 奥州平泉とわがまちー平泉文化と地域交流』

奥玉愛林公益会・奥玉老人クラブ連合会(1988)『奥玉村誌』

岩手県史学東磐井支部・東磐史学会(編)(1996)『東磐史学 第21号』

藤沢町・藤沢町史編纂委員会(編)(1979)『藤沢町史本編上』

芦 文八郎・芦東山先生記念館(編)(1988)『仙台藩様式高炉のはじめ 文久山』

小野寺一郎・水城勲・畠山喜一(著)熊谷孝(発)岩手県文化財愛護協会(編)(1991)『東山町の歴史(岩手県市町村地域史シリーズ43)』

岩手県東磐井郡内『Ⅳ金山関係マップ』

大東町役場(2001)『大東町遺跡分布図』

片山正和(1990)『黄金の道』

西田耕三(1994)『葛西中金山文書』