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「1/fゆらぎ」

2024.10.03 08:37

OSHO bot @osho_bot_jp

楽園はすでに 私たちの中にある それは以前から 常に私たちの中にある

しかし、私たちは 自分自身の内側を 見ようとはしない 私たちは外側を見るばかりだ

私たちが自分自身の宝を 私たち自身の神の王国を 常に逃してしまうのはそのためだ

OSHO bot @osho_bot_jp·

神は哲学ではなく、むしろ音楽に近い 神は神学ではなく、むしろ詩に近く

神は仮説ではなく、むしろ踊りのようだ そうした方向に神を探し始めなさい

するとあなたは正しい方向に向かっていき 我家へ辿り着くだろ


https://www.jinjahoncho.or.jp/en/publications/nature/jp05.html 【自然、それは神―神道からのメッセージ】より

神道からの提言

 神道では、自然や国土は夫婦神から生まれた御子神たち、すなわち、自然そのものを神と捉えています。今日、「自然にやさしく」とか「地球にやさしく」といった言葉を耳にしますが、本末転倒もはなはだしいと言わざるをえません。「環境保護」という言葉でさえも、科学技術によって環境を修復しようといった人間中心の支配的な意味合いを感じます。神とは全ての生命の根源であり、あらゆるものの生命が神につながります。ここに生命の尊さが生まれ、自分自身も生かされているのだという自覚と感謝が生まれるのです。

 日本人は、古代より土地や自然や生命など、目には見えない存在に畏敬と感謝の念を持って接してきました。「バチがあたる」とか「もったいない」という気持ちです。そして、自然から恵まれたものは、自然にお返しする。見事なまでの循環型社会が江戸時代(西暦1603年~1867年)までは続いていたと言われています。その後、近代産業の発展に伴い、日本人の暮らしは確かに向上し、今日では外見上なに不自由ない生活を送っているかに見えます。しかし、日本人古来の大切な心は徐々に失われ、奥深いところに隠れ潜んでしまったかのようです。環境問題に限らず現代社会のかかえるあらゆる問題が、これに起因すると言っても過言ではありません。

 環境問題は、結局のところ、自覚・自立の問題と言われています。自分自身がどのような立場に立って物事を見るかによって、その結果は全く異なります。すなわち、すべての人類が思想・信条・宗教を超越したところに、新たな価値観として「畏敬と感謝の念」を抱くことです。それは、親が子を思う心、あるいは兄姉が弟妹を思いやる心と言えば、おわかりいただけるでしょう。その心を隣人、社会、国家、世界の人々、そして自然にも及ぼしていけば良いのです。この心は、社会生活を送る上で欠くことのできない規範や礼節や道徳を培うもとにもなります。


Facebook田中 宏明さん投稿記事

さて^ ^変な投稿をFacebook に書き始めてもうかれこれ6年になります

なぜこんな話しをしているのかというとまぁ、ただしたいからです^ ^

今までたくさんの人から共感のメッセージをもらったり批判をいただいたりして来ました^ ^

まぁ、どちらにせよいつも思うのは僕が嘘をついているのか本当のことを話しているのかは誰にも証明が出来ないということです

スピリチュアルという言葉が苦手な人がいますが僕自身はあらゆる言葉を実は信頼していません😁言葉というのは人の数だけ解釈がある超抽象的なツールだからです

それよりも一本の花の方が真実を語っています

流れる川や海 風に揺れる木々 太陽や月や星たちの 方がはるかに正確に 真実を現してくれています

言葉や情報に 疲れたら 自然と共に過ごしてみてください それがそのまま 答えそのものです

草木に虚実を 問う人はいません 存在はそのまま 真であるからです ね?^ ^

勘のいい人は もうお分かりですね それはあなた自身も 同じなんです

あなた自身が在ること それがこの宇宙で 唯一絶対に揺るがない 真そのものなんです

それだけで もう何にもいらないんです ただ流れのままに 生きて 流れのままに死んで

行けばいいんです

あらゆる事象は 形を変えていくのです

だから変な 言い方になりますが 自分を本当に大切に 思うなら 自分に執着しない

ことです

昨日道端に咲いていた たんぽぽと同じ奇跡が 自分にも起こっている だけです

命とはとてつもない 奇跡であり 同時にどこまでも平凡です

自分をそんなに 重要視しないでください

むしろ 自分が消えていくほど 世界中に溢れる 喜びを感じるように なって来ます^ ^

平凡に生きて 平凡に死ぬ それで十分です

世界中のエゴにとって最大の苦しみは自分が消えることです

そして我々の本質であるハートにとってはそれ以上の喜びはありません

喜びや安心を生きたい人は己を忘れましょう

そんなに己であることなんて重要じゃないんです ね?^ ^

だから気楽に 生きてください😁🌈

そんなあなたを愛してます^ ^ ワハハ🌈 らぶ💓

Facebook相田 公弘さん投稿記事

数年前、中国で大移動してる象のニュースが報じられました。

象は足の裏で振動を感知して、かなり離れた仲間とコミュニケーションをとってるそうです。

まるで海中で何千キロも離れた仲間と交信するクジラのエコーロケーションみたいで、驚異の能力です。

調べました。

ながーい鼻と並んで、ゾウの特徴である大きな耳。

この耳は遠くの音をよく聞くため・・・にあるのではありません。

見えるでしょうか、耳の表面に太い血管がたくさんかよっています。

実はゾウの大きな耳は、耳を動かしてパタパタと風に当てることによって、血管を流れる血液を冷まして体温の調節を行っているのです。

でも、ゾウの耳がいいのは本当です!

ゾウは人間の私たちには聞こえない20Hz以下の低周波、つまり聞こえないくらいとても低い声でコミュニケーションをとっています。

この低い音で、なんと10kmも先にいる他のゾウと会話することができるのです。

また、地面の振動を足の裏で受け取り、骨を伝って耳で感じるというスゴ技も持っています!!

この能力によって、足踏みで何kmも離れた遠くのゾウとコミュニケーションをとったり、30~40kmも離れた土地の雨や雷を知ったりすることがわかってきました。

あの大きな被害を出した2004年のスマトラ沖地震のときも、この優れた聴力のおかげで津波の出す低周波を感知し、津波が陸地に届く1時間も前に避難して1頭の被害も出さなかったそうです。

ゾウって、やっぱりすごい!


https://blog.goo.ne.jp/t-hideki2/e/b17cf45553adfdd528e4fe42c3276f54【花に寝ぬ】より

          桜をばなど寝所にせぬぞ、

          花に寝ぬ春の鳥の心よ

        花に寝ぬこれも類か鼠の巣     芭 蕉

 ネズミが天井裏などで騒いでいたのだ。春の夜、その巣を空にして騒ぎまわるネズミの姿から、ふと『源氏物語』の一節が浮かんで、「花に寝ぬこれも類(たぐい)か」という呟(つぶや)きとなったものである。ネズミの上に『源氏物語』の世界が感じとられるところに俳諧がある。ひとり興じている姿であるが、興じつつ実は孤独な姿が感じられる。

前書の「桜をばなど……」は、『源氏物語』若菜の巻上に、

 「 いかなれば花に木づたふ鶯の 桜をわきて塒(ねぐら)とはせぬ         

        春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ、あやしと覚ゆることぞかし」

 と柏木が口ずさんだ、ということによったもの。

 「春の鳥の、桜ひとつにとまらぬ心よ」というのは、源氏(鶯)が、女三の宮(桜)だけをひたすら愛することをせず、紫の上のほうに通われることをいったもの。

 「花に寝ぬこれも類か」は、「これも花に寝ぬ類か」を倒置したもの。

 季語は「花」で春。「花」そのものの趣に焦点を合わせたものではなく、古典を使った俳諧化の契機として用いられたもの。

「ネズミが巣を抜け出て、寝ようともせず浮かれ騒いでいる。『源氏物語』には、 鶯があちこち木伝いして、桜ひとつに落ちつかないで移り歩いているとあるが、 ネズミもそれと同じ類なのであろうか。なんとも面白いことだ」

      船酔ひのまだをさまらずうすざくら     季 己


https://club.informatix.co.jp/?p=1994 【「1/fゆらぎ」とは? 音とゆらぎの密接な関連性1/fゆらぎ|癒しや心地よさとの関係】より

こんにちは、インフォマティクスの空間情報クラブ編集部です。

「黄金比」のコラムでは、空間を居心地よくする要素「黄金比」を旅しました。人が黄金比を心地よく感じるのは、それがDNAに仕込まれているから。

今回は、自然界に仕込まれた心地よさを感じさせる要素「1/f(えふぶんのいち)ゆらぎ」を旅したいと思います。

「ザー」という音にも違いがある

パソコンのスピーカーから出る「ザー」という音、雨が降るときの「ザー」、打ち寄せる波の「ザー」。文字で書くと同じですが、空間や人に与える印象はそれぞれ異なります。

喫茶店で人を待つときも、白い壁を見るしかない場合と、熱帯魚の水槽がそばにある場合とでは、時間が流れるスピードも違うように感じます。

なぜパソコンから出る「ザー」はうるさく感じ、雨や波の「ザー」はうるさく感じないのでしょうか?

なぜ熱帯魚のいる水槽は見る人の心を穏やかにするのでしょうか?

癒しやリラックスと1/fゆらぎ

自然界に存在するものには、必ず「ゆらぎ」があります。一定に見えても厳密には一定でありません。

ゆらぎのない自然物はないということです。

ゆらぎが大きいと意外性・突発性が高く、次に何が起こるか分からないので人は不安になります。逆にゆらぎが小さすぎると安心ですが単調で変化がないので飽きてきます。

1/f(えふぶんのいち)ゆらぎは、規則性と突発性、予測性と逸脱性が適度に組み合わさったもので、居心地のよい空間と情報を与え人の心を落ち着かせるといわれています。

1/fゆらぎ(エフぶんのいちゆらぎ)とは、パワー(スペクトル密度)が周波数fに反比例するゆらぎのこと。ただしfは 0より大きい、有限な範囲をとるものとする。

(出典:Wikipedia)

ゆらぎの歴史

ゆらぎについて物理的、数学的観点からざっとおさらいしましょう。

自然界に存在する「ゆらぎ」が発見されたのは、ほんの80年ほど前。電気的導体に電流を流した時の抵抗値が一定にならず、不安定に揺らいでいることによるものでした。

波長を持つもの(例:光、音楽、電気信号)や動くもの(例:蝶、魚、風、炎)は波形や軌跡をフーリエ変換によって正弦波の和に分解できます。

複雑な波形も、周波数(f:振動の多さ)やパワー(P:振動の幅)の異なる大小さまざまな正弦波が合わさったものであることがわかります。

これを周波数の小さい順に並べた時、パワーが傾き45度のきれいな反比例になるものを「1/fゆらぎを持つ」といいます。

つまり高音や動きのすばやいものはパワーが小さく、低音や動きの遅いものはパワーが大きく、しかもまんべんなく配分されている波形や動きが1/fゆらぎを持つものの正体なのです。

モーツアルトと1/fゆらぎ

1/fゆらぎがあるといわれるモーツアルトをあらためて聴いてみました。

不要なものを捨ててきれいに片付いた室内にモーツアルトの楽曲『アイネ・クライネ・ナハトムジーク』が響いたとたん、空間が安心感に包まれリラックスした気分になりました。

1/fゆらぎは「ピンクノイズ」とも呼ばれていますが、そのあたりにも秘密がありそうです。

焚火やろうそくの炎、小川のせせらぎ、木々のそよぐ音。それら1/fゆらぎを持つものを眺めたり聴いたり感じたりしていると、時(とき)を忘れます。

1/fゆらぎに、対極ともいえる「規則正しく刻んでいる時間」を忘れる効果があるとは何とも不思議です。

ゆらぐと困るもの

文明が進化すればするほど、人はゆらぎを排除しようとしているように見えます。

手作りから工場生産での規格品へ。野菜も大きさをそろえて出荷。森を伐採して公園にし、等間隔で街路樹を植える。

大量生産や工業規格などによって作られる人工物は、いかにゆらぎ(規格外)を排除するかに努めています。

日常生活でゆらぎがあると困るものの代表は、階段。たまに最下段だけ微妙に段差が違う階段があると、つまずきますよね。

定規や秤などの計測器もゆらぎがあっては困ります。

時間の刻みにはゆらぎがありません。しかし天体の軌道運動をはじめ宇宙を形成するあらゆる分子の動きにはゆらぎがあります。

時計はこれらの天体が本来持つ小さなゆらぎを修正して人工的に刻ませているのです。

ゆらぎのメカニズムがわかれば、人工的にゆらぎを作ることもできます。街路樹を1/fゆらぎの間隔で植えたり、シンセサイザーで完璧な1/fゆらぎ音楽の作曲もできます。

しかし、1/fゆらぎを持つものが必ずしも心地よいとは限りません。時と場所、心理状態によっては鳥の声や風鈴をうるさく感じたり、風や波の音が気になって眠れないこともあるでしょう。

人が空間から受け取っている情報は一方通行ではないことをここでも感じます。

黄金比と同様「なんだか心地いい」と感じるものが、結果的に1/fゆらぎを持っているのかもしれませんが、逆は必ずしも真ではない。

モーツアルトやバッハも、1/fゆらぎを計算して作曲したわけではありません。心地よいと感じる内的衝動に駆られて曲を創り、その結果1/fゆらぎになったのです。

1/fゆらぎが心地よいのはなぜか

人間の心拍リズムにも1/fゆらぎがあります。

正常に動いている心臓は単に規則正しく鼓動を打っているのではなく、1/fゆらぎを持って人間の生命を営んでいるのです。

脳波のα波の周波数ゆらぎに代表される生体リズムもそうですし、そもそも人の神経細胞が発する生体信号の電気パルス間隔は1/fゆらぎだといわれています。

黄金比と同じく、人が心地よいと感じる原因には生体に埋め込まれた情報が関係しています。

1/fゆらぎは宇宙万物の動き方の根本法則に似たものとされていますが、その根源はいまだに謎です。 

https://www.youtube.com/watch?v=3DB1cId1TmA