うしなわれた原郷
https://erinawataya.com/2021/10/02/tadanori_yokoo/ 【『GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』にて】より
東京都現代美術館で10月17日まで開催されている『GENKYO 横尾忠則 原郷から幻境へ、そして現況は?』展に行ってきました。
5歳から展覧会開幕3週間前(つまり85歳!)に描いたという絵まで、横尾忠則の一生とも言える、15のセクションにわたる横尾ワールドにダイブイン。
作品の様式毎にセクションが分かれている。作風が信じられないくらい違って、まるで複数のアーティストの展示に行ったみたいだった。それでいて、同じモチーフが何回も何回も登場する。その対象は神話だったり、滝だったり、Y字路だったり… その自由奔放さに彼の問いを感じる。
美術手帖のインタビューでも語っているように、ニューヨークMoMaのピカソ展でピカソの自由気ままさに衝撃を受け、「やっぱり絵でないと僕の考える生き方はまっとうできない」と45歳で世界的グラフィックデザイナーをやめて、いわゆる「画家宣言」した横尾忠則。ピカソの画風に憧れたりはしていないそうだけど、でも、キュビズム的要素は強いから、多少の影響は受けてる気はする。
かの有名な滝の絵葉書のインスタレーションは、直島旅行した時に豊島横尾館で見たことがあった。横尾忠則と建築家の永山祐子による古い民家を改修して作られた展示空間で、平面絵画の他に、石庭と池、円筒状の塔にはインスタレーションが展開され、生と死を想起させるちょっと不気味で同時にパッション溢れる場所だった。赤い窓ガラスが印象的で、中に入る前に見ている風景のはずなのに必然的に気分が変わってしまう。それがシルクスクリーンとか、コラージュというか、アンディ・ウォーホールの作品を初めてみた時の感覚を思い出す。
そして、ここ東京で再びおびただしい滝の写真がタイルのように視界いっぱいに広がり、さらに床は鏡面になっているから段々と方向感覚が失われていくのを感じながら不安になる。違う場所で見ているのに、どうしてこうも普遍的なんだろう。きっと、これも彼の死生観を表現しているのだろう。まさしく横尾ワールド。
寝ても覚めても制作していないと描けないくらいの展示数に圧倒されながらも、一番印象に残ったのはY字路シリーズだった。これは、横尾忠則が子供の頃にかつて通った模型屋跡地を撮った写真に、彼の”個人的なノスタルジーを超えた普遍性を感じたことをきっかけに生まれた”らしい。
https://ameblo.jp/kk28028hrk/entry-12478331796.html 【高天原を巡って(9)】より
高天原を巡って(9) 加藤 勝美
15 高天原の意義
いよいよ私の見解を述べる時がやってきた。最初に述べなければならないのはそもそも「高天原」とは何か、何を意味しているのか、である。
先ず、真ん中の「天」であるが、むろん第一義的には「上空」を指す。が、倭王の場合は「あま」という姓名であった。『隋書』東夷伝俀國の条に次のように記されている。
開皇二十年王姓阿毎字多利思比孤號阿輩彌遣使詣闕
開皇二十年は西暦600年で、『日本書紀』の紀年では推古天皇の御代となっているが、むろん、当時は2倍年暦の時代であるから推古天皇の御代ではない。私の結論だと二十六代継体天皇の御代となるが、ここではそのことを問題にしない。出だしの「王姓阿毎」に着目していただきたい。「俀王の姓はアマである」と記している。「原」は「集落ないしクニ」と考えれば「天原」は「天氏一族の郷」ということになる。
こうなると、頭に置かれている「高」が問題となる。むろん「高」は「たかい」などという意味ではない。遠い遠い祖先、つまり発祥の地を意味している。源(みなもと)の意味である。こう理解してよいとすると、「高天原」は「天氏一族の原郷」ということを意味していることになる。「原郷」であるから、そこがどれほど狭くどれほど鄙びた場所であっても一向に構わない。天下を制した徳川家康の原郷が三河の「松平郷」で、それが江戸や京都から見てどんなに辺鄙な地に見えようと構わないのである。
まして古墳時代以前にまで遡りうる天照大御神時代ならなおさら。天氏一族がたとえ松平郷よりさらに辺鄙で狭隘なムラに住んでいたとしても何ら驚くに当たらない。否、その一族が結果的に天下を治める一族になったからといって、原郷そのものまで広大だったと考える方がおかしいのだ。
16 高天原の実像
前回要約を試みたように、『古事記』が記す高天原像は実に幅広い。天地が分かれた時にはもう存在していたとする宇宙のような存在から、案内役に導かれれば真夜中でも往来出来るムラムラの一つに過ぎない存在まで極端に幅がある。つまり高天原の実像は実に曖昧模糊としている。
奈良時代以降整備されてきた神道流にいえば、高天原は「神聖にして至高の地」すなわち「天界に住む神々の世界」ということになるのかも知れない。こういう認識の仕方は観念的世界であって、いいとも悪いともなんとも表現のしようがない。
つづいてこの観念的認識に近いのが高天原天空説である。神々は雲の上に坐していて、さ蝿なすうるさい下界とは別天地に生息しているという考え方である。
このような考え方が出てくるのもひとえに『古事記』の記す高天原の概念が曖昧模糊としているからである。神聖地説や天空説はその性格上否定も肯定もできない。記述の場面が出雲に飛ぼうと鹿島に飛ぼうと諏訪に飛ぼうと、はたまた突如九州の日向に飛ぼうと文字通り神出鬼没。どんな現象も神々がなさることと言われれば反論のしようがないのである。そして、神話的伝承というのはそもそも説明のつけようがないので、あながち「非科学的」のひとことで葬り去るわけにもいかない。
ただ、私は、高天原の元々の発祥はムラびとたちが住んでいたムラに遡ると考えている。前項で述べたように、「高天原」は「天氏一族の原郷」という意味だとすれば、そう考えてみるのが一番自然だと思うのである。
こう考えると、高天原の女王天照大御神は太陽の化身ではなく、巫女さんないし沖縄のノロのような存在だったのではないかと考えている。
こう考えると、天照大御神も生身の人間の一人なので、洞窟に籠もった時、外が騒がしいのでその様子を一目見ようと思う気持ちは十分に理解出来る。好奇心に駆られて細く戸を開ける行為は私たちそのものの行為ではないか。また、大きな集会施設も神殿もなかったに相違ない古墳時代以前のムラの人々なら河原に集まってきて相談するというのは自然な姿だと言わざるを得ない。家々では、鶏を飼い、朝が来たことを告げる甲高い声を聞いて目を覚ます光景は、まさに日本の原風景たる里山そのものの光景である。
夜明けと共に天宇受賣命(あめのうずめのみこと)が高らかに軽やかに舞い始めたと考えればその様子にムラびとたちが高らかに笑い転げるというのも、リアルに理解出来るのである。
また、建速須佐之男命は、天照大御神が住んでいた殿社(といっても恐らく大きな農家ほどの家)内で織女を傷つけたり、天照大御神の田畑を荒らしたりしてムラを追われることになる。そしてその建速須佐之男命が雨戸を背負って雨中を一夜の宿を求めてさまよう姿もリアルで、村八分を連想させて哀れを誘うのである。
17 高天原の候補・・・その1(出雲島)
「高天原」を「天氏一族の原郷」という風に理解すると、その原郷は具体的にはどこの地かという疑問を発したくなる。少なくとも探ってみたい課題として浮上してくる。
私の考える高天原の第一候補は出雲大社が鎮座する場所、出雲市一帯である。分かり易いので地図を示そう。
現在の地図だと出雲大社は島根半島の付け根に位置する出雲市内に鎮座する。図中で示したように、③の出雲大社は半島の西端部に位置している。ところが大国主命と建御雷神の間で交渉が行われたのは②の美保御崎は半島の東端に位置している。さらに理解しづらいのは建速須佐之男命の母神伊邪那美命が葬られたとされる①の比婆山は出雲大社から遠い。弥生期に陸地内をこれだけ歩行するのはちょっと遠方過ぎる。すると、比婆山の有力地はもっと南西になる広島県の比婆山も有力視してよいことになる((5)に掲げた地図参照。)。が、この疑問は現代の地形だけ見て判断したのでは解決困難である。
第82代出雲国造千家尊統氏の著作「出雲大社」はその37ページに貴重な地図を掲げている。原図は白黒の略図なので分かり易くするため、陸地部に彩色を施し、斐伊川の主流を水色の線で示した。なお、出雲大社の位置も一目で分かるように黄色い円を施した。
これで一目瞭然だが、現代図には中央部に宍道湖がある。が、奈良時代には湖はなく、海でかなり広大だったことが分かる。つまり、島根半島は文字通りくっきりした半島だったことが分かる。注目は当地の大河川で八岐大蛇伝説の由来となったとされる斐伊川。千家氏は斐伊川の氾濫は尋常ではなく、川筋自体が大きく変わり、大災害を繰り返してきたことを記されている。尾張では度重なる氾濫で人々を苦しめてきた木曽川を彷彿させる。
この3枚の略図を眺めただけでも斐伊川の本流自体が大きくその流れを変えていることが分かる。斐伊川の次に注目されるのは、古代の図で一目瞭然だが、島根半島は半島ではなく、大きな島だった点である。國を引いてきたと書かれている出雲風土記の記事を彷彿させる姿だったのである。
今、便宜上この島を「出雲島」と呼ぶことにすると、出雲島全体を高天原と考えてもいい。とりわけ、天照大御神がいた地、そもそもの高天原すなわち「天氏一族の原郷」は島の東側、現在の松江市あたりではなかったのか、と私は思う。それはさておき、建速須佐之男命は出雲大社の付近から南に渡ったと考えれば、斐伊川の河口は間近であり、そこを遡上して八岐大蛇の舞台の地に容易にたどり着くことができる。建速須佐之男命は斐伊川の上流、鳥上の峯に達して後に妻となる櫛名田比売(くしなだひめ)と出会う。ここにいう鳥上の峯は宍道湖の南方奥出雲町にそびえる船通山(1142m)のことだという。その船通山一帯を根拠にして建速須佐之男命は斐伊川の流れる地で治水に尽力し、王者となったと考えれば神話の流れは極めてスムーズになる。他方、御子の大国主命は、兄たち(八十神)と共に因幡(鳥取県東部)から行動を起こす。この記述により、建速須佐之男命の勢力圏は出雲から因幡にまで達していたことが推定できる。大国主命はおそらく安来辺りから美保御崎に向かい根拠を築く。天降りならぬ逆の出雲島への進出である。美保御崎こそ大国主命の根拠であり、そこから西方に向かって進出し、大国主命は在地の豪族たちを配下に治め、出雲島全体すなわち高天原全体を掌握するに至る。大国主命が手中にしたのは日本全土などではなk、出雲島全体だったと考えれば、その征服談が無に等しい半行で済まされているのも理解不能ではない。
他方、いったんは手中にした出雲島も、松江市辺りを根拠にしていたに相違ない天照大御神勢力(天氏一族)と衝突することになり、斥けられる。やむなく出雲島の西方から海を渡り、斐伊川の上流一帯を根拠にしている父神の建速須佐之男命に相談ないし助成を仰ぐために赴く。が、いまさら姉の天照大神と対峙出来ず、大国主命を追い返す、という構図になる。こういう経過は単に私の推測に過ぎない。が、この構図にしたがえば、神話の流れは無理なくスムーズに理解出来るように思う。いかがであろう。とりわけ建速須佐之男命が出雲島へ逃げ帰る際、その背に向かって浴びせた「高天原に神殿を建ててそこで暮らせ」という言葉が、出雲島を高天原と理解するとき、生き生きとした言葉として理解できるのである。
以上が出雲島を高天原と考える私の見解だが、むろん高天原の候補はこれで尽きているわけではない。そこで、これに続く高天原の候補に言及しようと思うが、長くなるので次回に回したい。。