花実
Facebook矢加部 幸彦さん投稿記事
生は死によって、死は生によって支えられるが如く、高天原は根之国によって、根之国は高天原によって支えられている。よって根之国の働きはまた産み出すことで、高天原の働きと表裏一体。故に、イザナギイザナミの両神は、永遠に共同作業されておられるのです。
Faceb1ookSammaditthi Asakuraさん投稿記事
人生は悪い時もあれば良い時もあるものです。悪い時は、状況を改善しようと焦ってしまいミスが多くなりさらに苦が増してしまいやすいものです。
良い時は、全てが自分の思い通りになると慢心してしまいやすくなり、苦に落ち入りやすいものです。
釈尊は、この世の中は、一切皆苦(すべてのものは苦しみである)と説かれました。
お腹が空いて美味しいものを食べるのは「楽」ですが食べ過ぎると苦になってしまいます。
睡眠不足でやっと寝ることが出来ると「楽」ですがいつまでも寝ていなければいけないとしたらこれは「苦」です。
何事も楽から苦になりやすいものです。苦と楽は表裏一体の関係なのです。
釈尊は全てのものが移ろい変化すると諸行無常を説かれたように、苦はいつの日にか楽にも変化するものです。故に待つことはとても大切です。
「一切の形成されたものは苦しみである」(一切皆苦)と明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「法句経278」
「一切の形成されたものは無常である」(諸行無常)と明らかな知慧をもって観るときに、
ひとは苦しみから遠ざかり離れる。これこそ人が清らかになる道である。「法句経277」
仏陀の言葉より
Facebook澤江 昌範さん投稿記事 〜 逆手の法則 〜
仏教のなかには、「托鉢(たくはつ)」という「行」があるりますね。
笠をかぶったお坊さんが、手に鉢をもって家々を回り、お布施を頂くという行です。
お釈迦さまは、托鉢に向かうお弟子さん達に、こう言っていたそうです。
「お金持ちの家ではなく、 貧しい人達の家を回って 托鉢をしてきなさい」
普通に考えれば、お布施をいただくのですから、お金持ちのところに行くのが常識かと思いますが、お釈迦さまの思いは別のところにあったようです。
『貧しい人がなぜ貧しいのか?』
それは、自分のためにしかお金を使わないからで、その人たちに「与える喜び」を味わってもらう機会を生みだすのが、托鉢の真の目的だそうです。
こういうお話しがあります。
「神社のご神体が鏡なのは、 なんでだと思いますか?」 鏡は、『この世界はすべて逆なのだ』ということを教えてくれているんだそうです。
鏡に映すと、右と左が逆になるように。
神社では、お願いをしにくる人の願いが叶うんじゃなくて、神様の願いを聞きにきてくれる人の願いが叶うんだそうです😃逆なんだそうです。
神社で売られているお守りも。
お守りに守ってもらおうと頼る人が守られるのではなく、このお守りを守ろう守ろう、大切にしようと思う人が守られる。逆なんだそうです。
神様の願いを聞きにきてくれる人というのは、自分の願いだけを言いに来る人ではなく、みんなの幸せを願いにくる人なんだそうです。
だから、本来神社では、「神様のお手伝いができますよう に。 日本が、そして世界が少しでも 良くなるように挑戦しますか ら」こう祈ると良いそうです。
反対が多いんですネ!そして表裏一体なんですネ!☺️
Facebook相田 公弘さん投稿記事
おはようございます。mixiのマイミク・大樹さんのお話です。「痛みは 愛するためにある」
以前 ある女性が、不妊になるかもしれない病気を経験しました。
彼女には婚約者がいて、 またその彼が無類の子ども好きだったので、彼女は悩みました。
隠していても仕方がないので、思い切って打ち明けたところ、
彼は 「俺は赤ちゃんを産める君と結婚するんじゃなくて、君と結婚するんだよ」
と言ってくれたそうです。
彼女は 目に涙をいっぱいためながら、「あの人生の 痛み がなかったら、一生知らないで過ごしたかも知れない彼の愛を、(痛みのおかげで)知ることができました」と語ってくれました。
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人生には思いがけず、ハートにポッカリ穴が空くことがあります。それは病気、災難、愛する人との別れなどの環境の変化かも知れず、そんなとき 人は恐れや傷みを感じます。
そうなると、そんな無力な自分を裁いたりもします。でもそれは、あなたの人生が「うまくいってる」証拠なのかもしれません。
私たちが「傷ついた」と感じたことは、愛の原石が削られていた証しだからです
宝石の原石をイメージしてみてください。傷をつけないと、磨くことも、光輝くこともできません。そういう時期を経験しなければ、人は大きく成長することもなければ、他人の気持ちもまったく理解できません。
ですから、もし あなたが対人関係がうまくいかず「さみしさ」を感じる時期ならば、自分を深く見つめ直すチャンスかもしれません。
人は、さみしさの中で成長するもの。孤独になることによって、今まで気づかなかった自分のエゴを知り他人との間に横たわる必然的な距離について考えるようになります。
孤独を経験して、初めて、他人もまた味わっている孤独感への優しいいたわりの心を育てることができるんですね。
だから、深く傷つき、それを乗り越えた人は、それだけ強く輝く人になります。
「難が有る=有り難い」と書くように、その経験の中で得る宝石は必ずあとで役に立ちます。
闇が深いということは、光が強いことを意味します。なぜなら、光と闇は表裏一体だからです。周りが真っ暗だからこそ、それまで見えなかった美しい光が夜空に輝くように、闇は光の素晴らしさを思い出させてくれます。
孤独は 忘れてた繋がりの価値を思い出させてくれるし、悲しみは 忘れてた喜びの価値を思い出させてくれます。光を受けると、後ろに必ず黒い影ができるようにこの世界に存在するすべてに、「裏」と「表」が存在することを忘れてはいけません。
ひとつの経験を自分の成長に役立てるか、それとも無駄にするか、それは自分次第。
どんなさみしさも 悲しみも 涙も 逆境も それをどう受け止めるかによって
よりすばらしい人生を歩むための よき糧にすることができるんですね。
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【苦楽表裏一体・全ては選択 】
「可愛い子には旅をさせろ、」「若い頃の苦しみは買ってでもしろ」って お聞きになったことありませんか?
本当に「苦しみは買う価値がある」のでしょうか?苦しみって何でしょう?
自分が作り出していると言ったらどのように思われますか?卑近な例で説明しますと のどが渇いて水を探すとします。コップに半分の量入った水が見つかりました。 「半分しかない」は苦しみを選択することになり、「半分もあるは」楽しみを選択することになります。
でき事は受け取る自分の選択次第で 苦・楽が決まると言えます。苦楽表裏一体です。
であれば 人生・自由自在なはずです。
このことを人間関係の原型とも言える親子関係で見てみたいと思います。
例えば幼い頃 母を無くするとします。
こんなこと誰でも起こって欲しくないことです。殆どの人にとって苦しみです。
幼い時に目の前で母を交通事故で亡くし 哀れな子として生き、40歳を過ぎても閉じこもったままの男性を知っています。
亡くなった母に執着し 父の愛も、新しい母の愛も受け取る意志を持たないで被害者として生き続けてきました。
また死産をした女性が 亡くなった子以外の 健康に生まれた子どもを愛することができず ネグレクト(育児放棄)せずにはおれないケースを幾例も知っています。
多くの場合 母としての自責の念が 亡くなった子への執着心に繋がります。
執着心は過去に生きる在り方と言えます。
二例とも 自分の期待を裏切る出来事に圧倒され つまり自分の願いに執着し 苦の裏にある楽を知ることができず 苦しみの情に溺れています。
母を亡くした幼子の苦しみはどのように楽に転じられるのでしょうか?
母を亡くした故に 身辺自立を早くできた。それ故に愛の大切さを知るものとなった。
それ故に人の痛みを理解できるものとなった。
・
人が憂うと書いて優の字になります。優しい、優れていると読みます。
苦が楽に転じられると 慈悲が培われ始めることがよく分ります。
死産をした女性は 失ったものに執着しないで「足るを知る」知恵があれば育てる責任のある愛子を愛し育む喜びを得ることができたはずです。
和多志も長男の出産は難産で 生れてはじめて救急車で病院に運ばれ 医師からは母子ともども命の保証はできないと宣言されました。一晩中 押し寄せる陣痛に苦しみぬきました。
ようやく生まれた愛子に「よく生まれてきたね」と心からの感謝と喜びを伝えずにはおれませんでした。これも苦楽表裏一体です。
それはさておき「苦しみは買うほどに価値がある」とまで言えるのでしょうか?
みなさんは筋肉トレーニングを知っていらっしゃいますね?使うほどに筋肉は強くなります。
楽をして身体を動かさなければ 身体の機能は停滞し、遂には使わない機能は失われてしまいます。楽の裏の苦しみを示唆します。
転ばぬ先の杖を用意する子育てに警鐘 が鳴らされています。
過保護過干渉な大人が 子どもが失敗から学ぶチャンスを奪い取り ストレスに弱い軟弱な子ども 新型鬱の予備軍育てをしているからです。
子どものために心を砕いて 慈悲を注いでいるかのような錯覚を持ち、 ありのままの子どもを尊重しないで 自分の枠にはめようとするからです。
そのような関わりからは真楽は生まれません。
一方子どもは 親の関心を貪るために 相手の期待先取りで頑張ります。
いい子が危ないと言われてきた所以です。
いい子とは普通周りの大人にとって都合のいい子を指します。
楽の裏の苦に警鐘が鳴らされているとも言えます。
ネグレクトも溺愛も 愛の誤用 誤った愛 誤った楽の追及 つまり アブ(否定の接頭語)・ユース= アビューズ、虐待です。
過去に執着せず、未来の先取り不安に翻弄されず 現在を生きて要約楽は訪れます。