偉人『美空ひばりの母』
誰もが知る日本歌謡の女王といえば美空ひばり。彼女を語るには母 加藤喜美枝を抜きに語ることはできないほど堅い絆で結ばれた母と娘である。ここで今週の提案記事(2024年10月14日)『上手くいかない時に掛ける言葉』を念頭に、美空ひばりの母が娘ひばりに掛けた言葉とその真意について今回は考えてみることとする。
美空ひばりの芸の道は9歳で楽団を率いて舞台に立つことから出発した。子供でありながら大人顔負けの歌い方をする彼女の歌唱力は、人を虜にしファンも増えると同時に彼女をモノマネと揶揄する人も出現した。幼いひばりは人の歌ではなく自分の歌を歌いたいと母にせがんだ。そして母は「焦っちゃいけない。モノマネという人もいるけれどあなたの歌を喜んで聴いてくれる人もいるのだから」と声を掛けたという。窮地に陥っ時にこそ冷静さを持って批判的な意見に耳を傾けるのではなく、肯定的な意見に耳を貸すようにと諭している。この母の的確なアドバイスは娘の芸能人生の指針となり、何よりも娘の歩く道をその言葉の通りに導き飾り立てた。母喜美枝の生き様は美空ひばりという歌手の人生を紐解いて行けば行くほど物事の本質を見抜こうとする母の強さ、娘を守ろうとする必死なまでの愛情、娘の類稀なる才能を大きく花開かせようとした姿が明らかとなる。自分自身の夢を子供に託したとされることもあるが、私には娘の才能を知らしめた最強のブレーンであると感じてならない。
美空ひばりを育てた名プロデューサーの母 喜美枝は1913年6月18日東京都荒川区南千住の貧しい石炭商の7人兄弟の長女として誕生した。家の貧しさから小学校卒業後父の仕事を手伝い家族を養うための働き手として生活をしていたが、その生活の中で楽しみにしていたのが舞台や劇場を楽しむことだった。休みの日に浅草に出掛け少女歌劇に夢中になり将来は歌手になりたいと淡い夢を抱いていたのだ。しかし喜美枝は自分自身には才能もなければ器量もないとし夢は儚く消えたのである。
時は流れ喜美枝も年頃になり好きな人ができた。しかし家柄や育ちが違うと相手側に反対され添い遂げることはできなかった。そして父の持ってきた縁談を受け入れるしかなくひばりの父となる加藤増吉と結婚したのである。増吉は横浜で小さな魚屋をしていたが遊び人で喜美枝が店を切り盛りし店を大きくしようとすればするほど増吉は羽目を外し遊びに夢中になった。やがて太平洋戦争へと突入していく中で増吉も徴兵された。間も無くして夫には結婚前から付き合っていた女性が居て子供まで設けていたことが発覚したのである。結婚から8年もの間騙されていたという事実に耐えきれなかった喜美枝は、復員した夫に対しこれから自由に生きることを宣言し、魚屋空手を引きひばりの音楽活動に専念すると啖呵を切ったのである。
ひばりの音楽の才能に気付いていた喜美枝はその才能というものが並外れていることに気づき、これならば自分の人生をかけてでも娘の成功を勝ち取ることができると判断したに違いない。そして喜美枝は娘の芸の力を最大に引き出すためにどうしたらいいのかと分析し、道筋で立て緻密に計算し行動を起こす上昇志向の持ち主であったと感じている。別の見方をすればステージママとして気の強い厳しい面があったとも言われているが、それも全て娘のためであり家族を養うための行動であったのだ。
母と娘の堅い絆に亀裂が入る日が訪れる。ひばりが恋をし結婚したいと言い出したのだ。娘の嬉しそうな日々とは裏腹に母はこの先に訪れる芸の道からの幕引きを心配し表情には出さず淡々と仕事をこなし、娘のキャリアをダメにしたくないという一心から結婚を承諾する気にはなれなかったのだ。娘ひばりは結婚の許可を求めハンガーストライキに出た。部屋に閉じ籠り3日間飲食を取らない娘の本気度を察知し結婚の承諾をした。その時に母として娘にかけた言葉がこうである。
「そこまで思い詰めたのならお嬢の思う通りにしなさい。ママ一人のいうことばかり聞くのが人生じゃないものね。ママもお嬢を愛しすぎたのかもしれない。」
今でこそ結婚し母になって活躍し続けているスターはいるが、当時は結婚することで人気が急降下し芸の活動がままならないという流れがあった時代である。名プロデューサーである母喜美枝にとっては才能のある娘がその道を辿る可能性があることに納得できるものではなかったであろうし、娘の思いを受け入れるには葛藤も大きかったに違いない。そして母は娘をこれ以上苦しめたくはないとして娘の思いに寄り添ったのである。当時の時代の流れを考えると娘の思いに蓋をさせて恋を引き裂き強引に仕事をさせることもできた時代である。しかしそうはしなかったことが母喜美枝の懐の深さであり寛容さである。
結婚を機にひばりの人気は急降下の一途を辿った。ヒット曲には恵まれず彼女が主演した映画の興行成績も芳しくなく、音楽活動自体も上手くいかず鳴かず飛ばずの時期を過ごしたのである。そして結婚生活を続けていくうちに母と娘の間にも溝ができ、同居していた家から母は出ていったのである。結論から言うと幸せな結婚生活が続くにつれ芸能活動から距離を置き輝かしいステージから離れた娘は物足りなさを感じていった。そして娘ひばりは音信不通の母の元へ行き「歌いたいのだ」と伝えたのだ。
世間的に美空ひばりはもう落ち目だと判断されていた状況に母は腹を括り、これまでの活動では復活はできないと判断し復活に全身全霊で臨んだのである。母は娘のためならなんだってやってのけると言う鋼の強さを持ち一歩も譲らず、起死回生の一打を考え四方八方に頭を下げて回ったのである。その時にとある関係者に頭を下げた時の言葉は「自分の命をかけてきた可愛い我が子が命の瀬戸際なのだ」と訴えかけたのだという。腹を括り肝を据えた母の凄みと情に訴えかけるその鬼気迫る工場に拒む返事などできなかったという。そして母喜美枝の渾身のプロデュースは劇場始まって以来の観客動員を成し遂げたのである。
母喜美枝は見抜いていたのかもしれない。娘は結婚をしても芸を捨てることはできないと。だから当初は結婚を承諾する気になれなかったのではないか。一卵性母娘と呼ばれているほどの親子関係であったのだから日頃から娘の性格や芸への向き合い方も鋭い観察眼で見抜いていたといえよう。その一方で娘の決意を知り上手くいかない道かもしれないがさせてみるしかないと考えたのではないかと勝手に想像する。おそらく喜美枝は自分自身の思いと親としての間で苦悩し、自身の思いを削ぎ落としていく学びをしていたのだろう。子育てとは自分育てというが、まさに自分自身の思いを削ぎ落として子供のことだけを愛することを学んでおやになるのだろう。
また喜美枝の強さというものが如実に現れた時がある。ひばりの弟が反社との関係があるとされ全国の劇場から興行を拒否された時、周りの意見に耳を貸さず息子の言葉だけを信じひばりの舞台から息子を降板させることはなかった。世間が何と言おうとも私は息子の言い分を信じると言い切った強い母という表現では足らない母の姿がそこにはあった。そして息子が別件で逮捕された2年もの刑期中毎日欠かさず息子に向けて手紙と孫の写真を出し続けたという。
どんなことを起こした子供でも絶対に見放さないという母の想いが伝わる話である。そしてその契機を終えた息子は人が変わったようにひばりのサポートを行う姿があった。私は母の思いが息子に伝わったのだと考える。冒頭の人が何と言おうとも窮地に陥っ時にこそ冷静に物事を判断するという母の信念はブレることなく存在していたのである。
加藤喜美枝という女性は気迫に満ちた、愛情豊かな、芯の通ったタフで強かで骨のある女傑のような女性だったのではないだろうか。彼女のような女性が誕生したのは女性が敷いたげられ、家族のために自分自身のしたいことを犠牲にする時代が生んだものだろうか。それとも妻として裏切られたという反骨精神から生まれたものなのか、母という守るものの存在が彼女を強くしたのかと思いを巡らせる時一つの理由ではなく多くの要因が重なって加藤喜美枝という人となりができたのであろうと考える。加藤喜美枝のような母親になるのは難しいが、いかなる時も子供を信じていられる母でいるために子供にしっかりと愛情をかけておくことだけは肝に銘じて日々を過ごしたいものである。