ランダム
物心ついてから、夢を見なかった日がない。一日もない。熟睡というものをしたことがないのだと思う。なにかしらの夢を見ていて、そしてそれをはっきり覚えている。
母は信仰があり、生まれた頃から「夢診断」という本が家にあった。
教会から発行されているもので、我が家では馴染みがあった。
夢診断以外にも、母は朝と夕、決まった時間に祈願をしていて、わたしも二十代に入る少し前までしなければならない意識が抜けなかった。その「夢診断」の本もわたしに大きな影響を与え、夢に意味があるのだという認識が強く、毎朝欠かさず夢日記をつけていたほどである。
夢を見るのはいいけれど、目が覚めた後も鮮明に覚えているため、三次元での生活に支障が出ていた。なにが本当でなにが嘘なのか。いや、実際に頭では分かっていても、この確かな胸の痛みと確かな記憶が、思考を越えて夢と三次元の境界線を曖昧にさせた。
高校生の頃、夢ではわたしは母親になっていて、子どもを亡くした。目が覚めても絶望と喪失で立ち直れず、三日ほど学校を休んだことがある。
夢という幻想と現実という三次元の区別がつかず、幻想と三次元、この複数のパラレルで、「美春」の持ち物である、感情、思考、を共有していたのだと思う。
欠かさずに夢を見るわたしが悩み、考え、行き着いた現時点での答えが、この三次元こそが幻想で夢であるということ。そして、無限にある多次元の幻想を、一つの感情と一つの思考を共有しているということ。どの次元に意識を向けたとしても、すべてが明晰夢の状態であるということ。たとえこの現実と思える三次元、だとしても。
夢は、無意識状態で見る無限にある多次元世界。意識のない無意識だからこそ、無作為で適当。意味がありそうでない、宇宙にある映画館。無限のフィルムが無空間を漂い、拾い、映像が流れる。それが夢の仕組みなのではないか、と。
今も「三次元」という形で夢を見ていて、この夢の世界でも「眠り」という形をとってまた夢を見ていた。少し離れた距離から見てみれば、完全にマトリョーシカの状態だ。
現時点が過程かもしれない想定もした上での答えだ。その先はまだわたしには分からない。けれど、今のわたしにとって自然な答えである。
わたしは三次元で不快なものに遭遇したとき、「悪夢だった」と現実と切り離す癖があった。なかったことにする。記憶から抹消する。現実味を持たせないようにする。
それは、`隕石が落ちて死んでしまう夢を見ていた。その眠りから醒め、動揺し、心拍数が上がるほどの恐怖に苛まれるほどの重たい余韻が残り続けたとしても、それはそれとして「悪夢だった」と、無意識に自然と現実と切り離せてしまう。`ように。
夢でどんなことが起きても、夢から醒め、感情が揺れ動いたとしても、数日忘れられないほど強烈なものだったとしても、結局は夢は夢であり、現実のものではない、という大前提で守られているように。
夢だった、と意識的に片づけなかったものほど、わたしの人生に無断で居座り続け、わたしの未来にベタベタと手垢をつけるのだ。
だからこそわたしは遠慮なく、「夢だった」「存在していなかった」と線を引き、片っ端から捨てていく。現実逃避と言われてもいい。わたしにはこのやり方が合っている。
夢にはなんの意味もない。ランダムだ。この三次元もまたなんの意味もない。ランダムだ。
そのランダムにやってくるものに影響される必要はなく、自分自身の思いこそすべての根元だ。自分自身が自由に真実を決めることができる。