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Kazu Bike Journey

Okinawa 沖縄 #2 Day 271 (06/10/24) 旧北谷間切 北谷町 (08) Sunabe Hamlet 砂辺集落

2024.10.07 13:35

北谷町 字砂辺 (シナビ、すなべ)


字砂辺 砂辺ヌ前屋取 (シナビヌメーヤールイ)




先月は沖縄での無料バスキャンペーンを利用しての集落巡りだった。バスでの行き帰りは、本当に楽ちん。キャンペーンも終了し、ようやく暑さも和らいできたので、自転所での沖縄集落巡りを再開する事にした。気温は7月~9月に比べて下がってきているとは言え、例年に比べてまだまだ熱く。30度を超えている。まだ気温が上がっていない早朝に出発。なるべく歩道の日陰を探しながら走る。適当に風もあり、休憩なしで北谷町砂辺に到着。真夏は5km事に休憩を取っていたが、今日は快調な走行。

北谷町は7月6日に訪問してから三ヵ月ぶりで、今日含めて、あと三日で全集落訪問となる。今日は北谷町最北の砂辺集落を巡る。


北谷町 字砂辺 (シナビ、すなべ)

砂辺は北谷町の北端の海岸沿いに広がった集落で、北は米軍陸軍貯油施設、東は嘉手納基地に接している。字砂辺は内原に砂辺集落と大道原に砂辺ヌ前屋取集落の二つの集落が隣り合っていた。砂辺集落は戦前には105軒 (瓦屋は9軒) で、北側の後村渠 (イリンダカリ) に後中近所 (イリナカチンジュ) と後近所 (イリチンジュ)、南側の前村渠 (メンダカリ) に前近所 (メーチンジュ) と前中近所 (メーナカチンジュ) に組分けされていた。明確ではないが、集落の始まりは古く、知念村や玉城村から移住してきたと伝わっている。古文書では17世紀前半には 「すなへ村」 と記載されているので、それ以前から存在していたと考えられる。

砂辺は海に近いが、漁業はほとんど行われておらず、戦前の主業は農業で、芋やサトウキビを作っていた。集落内には砂糖屋(サーターヤー) は3か所あった。

琉球王国時代の砂辺村は浜川村も含んでいたが、琉球王国後期に浜川村が独立分離している。砂辺にはもう一つ屋取集落があった。千原 (シンバル) 屋取集落で砂辺の北の野国にまたがって存在していた。 現在は野国も千原屋取も米軍嘉手納飛行場基地一部として接収されたままになっている。


砂辺集落の拝所と祭祀行事

戦前に砂辺集落で行なわれていた主な年中行事は以下の通りで、琉球王国時代から明治時代にかけては平安山ノロによって祭祀が行われていた。

  • カンカー (旧暦8月9日): 沖縄では一般的にシマクサラシと呼ばれる村に悪霊の侵入を防ぐ儀式で、この地域ではカンカーと呼ばれている。牛の内臓に火を通したものを供えて祈願を行なっていた。祈願の後は住民で食し、骨は集落の入口であるアシビ ナーの前の通りと、出口のガジマルやウガンジュに立てかけるなどして魔除けとしていた。
  • ムラアシビ (村遊び、旧暦8月15~17日): 8月15日は馬場(ンマイー) で 前座として、獅子舞や「長者の大主」といった決まった演目を行ない、 16~17日にアシビナーで本番の組踊りや芝居などのさまざまな演目 が演じられていた。芝居は3日間と決まっていたが、少しづつ日延べして、1か月近くやることもあった。

砂辺集落にある拝所は以下の通り

  • 御嶽: 大岩 (ウフシー 伊平屋森 神名 石良具御威部)
  • 殿: 砂辺之殿 (ヌール火ヌ神)
  • 拝所: 産井、唐井、獅子屋、土帝君、御神屋 (ウカミヤー)、根神 (ニガン)、御願 (ウガン)、踊神之墓、伊平屋御通シ、砂辺之龍宮神、地頭火ヌ神
  • 井泉: タキガー (ノロガー)、犬井 (インガー)、カーバタガー


砂辺区公民館

浜川集落から北に道を進むと字砂辺に入る。まずは砂辺区公民館に着く。戦前まで集落のアシビナー (遊び庭) だった場所に建てられている。

この公民館は字砂辺の公民館ではなく字浜川の東部、字伊平の北部、字宮城の北部を管轄している砂辺区の公民館になる。とは言っても、字砂辺以外は字宮城は戦後埋め立てられ新しく出来た地域、砂辺区となっている浜川、伊平の一部は米軍基地となっている地域で、実質的には字砂辺の公民館と言っても良いだろう。


アシビナー、踊神之墓 (ウドゥイガミヌハカ)

砂辺区公民館の前の駐車場となっている場所も、戦前はアシビナー (遊び庭) で、ここは子どもたちの遊び場所や村芝居などを催す舞台が置かれていた。戦後、この砂辺公民館を建設工事の際に多くの人骨が出てきた。そこで住民はその人骨を弔うために、1988年 (昭和63年) に駐車場の外の道路傍に踊神之墓を建て、村清明 (ムラシーミー) で拝んでいる。このアシビナーでエイサーなどが踊られていた事から踊神 ( ウドゥイガミ) を祀った墓としたのだろう。


獅子屋 (シーシヤー)

砂辺区公民館の東の道を渡った所には赤瓦屋根で杉板壁の獅子屋 (シーシヤー) が置かれ、戦後に製作された獅子頭が保管されている。砂辺の獅子は雌で敷地内には女性は立ち入る事が禁止されていた。旧暦7月17日の獅子ヌ御願 (シーシヌウグワン) や旧暦8月15日の十五夜アシビの際に、根所 (ニードゥクル) や馬場 (ウマウィー) で獅子舞が演じられている。


東門毛 (アガリジョーモー) (未訪問)

獅子屋のすぐ東に東門毛 (アガリジョーモー) と呼ばれる広場があり、ここでカンカー (シマクサラシ) の際に、供物として供えられる牛 を潰した場所だった。現在では広場は消滅してしまったが、岩 (シー) が残っており、ここでは、カンカーの際に、瓶子 (ビンシー) と牛の内臓の料理を供えて拝みがおこなわれているそうだ。砂辺集落ではカンカーは二カ所で行われていた。カンカー (シマクサラシー) は悪霊等が村に入らない様に祈願する儀式で、村の入り口で行われていた。この東門毛 (アガリジョーモー) は村の南端で、北端はウシモー (牛毛) で、そこでもカンカーが行われていた。



天孫子按司之墓

公民館のすぐ南、クマヤーガマへ行く道沿いに天孫子按司之墓と刻まれた墓がある。アジシーとも呼ばれている。天孫子の次男の墓と言う。天孫子は琉球開闢神話の神で、琉球開闢の神の天帝の長男で、国頭村辺戸の安須森、今帰仁村のカナヒヤブ、南城市の「斎場御嶽を創ったとされ、息子と娘を地上に降ろし、この二人は三男二女をもうけて長男は国王、次男は按司、三男は百姓、長女は上級神女、次女はノロとなった。長男は「天孫子」と名乗り国の主として統治したと伝わり、砂辺集落にあるこの「天孫子按司之墓」は次男の按司が眠る墓だと言われている。戦前迄は岩陰に石の厨子甕置かれていただけだったが、戦後、この様な墓が造られ、按司 (ウミキー) とその妻 (ウミナイ) の二つの香炉が置かれ祀られ、村清明 (ムラシーミー) で拝まれている。


クマヤーガマ

按司墓から道を進むとクマヤーガマと呼ばれる自然洞窟がある。クマヤーとも言い、「閉じこもる」 という意味だそうだ。クマヤーガマは全長40mの鍾乳洞で三つの洞穴からできている。1944年 (昭和19年) の十・十空襲の後、このクマヤーガマからティラへの細い隙間を通路にする工事を行い、天井に通気口を設けて防空壕として使っていた。沖縄戦では300人余りの人々が避難していたが、米軍の艦砲射撃が激しくなり、集落に駐在していた石部隊からの指示で、米軍上陸直前の3月27日には殆どの避難者がガマを出て徒歩で北部の山原 (ヤンバル) にの逃れていった。ガマには老人数名が残ってはいたが、米軍に保護され、ガマでは1人の死傷者も出なかった。

戦後、砂辺集落全域が米軍に接収され、ガマの入口が埋められ、1956年 (昭和31年) に土地が返還され、この辺り一帯は整地されて外国人向け貸住宅地 (写真) となっていた。

その後、旧字砂辺戸主会が中心となり、発掘調査 (1986 ~ 1988年) が行なわれ、わからなくなっていたガマへの入り口を発見した。盛土を取り除いたところ、第一ガマ入口付近から縄文前期 (約5000年前) から近世までに渡る遺物が発見され、翡翠、簪や貝の装飾品も出土している。また、風葬の古い頭蓋骨が多数発見されている。

1995年 (平成7年) にガマ入口に瓦屋根の門を、隣には納骨拝殿を設けて弔らっている。 このガマは戦前迄は拝所ではなかったが、戦後、ガマ内には子宝に恵まれるというリューグーシン (子宮神) と病気を治す神様が祀られ、鳥居や石碑も建立され、村清明 (ムラシーミー) で拝まれている。ガマは修学旅行生や地域学校の平和学習に公開されている。

一般公開はされていないので、資料にあった洞窟内部の写真を拝借した。洞窟は全長40mの程鍾乳洞で東西に伸び、三つの洞穴からできている。西には第一ガマ (写真右上)、鳥居と観音堂がある第二ガマ (左中)、湧水があり鳥居と子宮神 (竜宮神) が祀られた第三ガマ (右中)、細長い第四ガマ (左下) があり、東は第一ガマに繋がる第五ガマ (右下) になっている。


ティラガマ (寺洞窟)

クマヤーガマのすぐ西側にもう一つガマがあり、沖縄戦で掘削してクマヤーガマの西の端の第三ガマに連結されている。ティラガマ (寺洞窟) と呼ばれ、中北山時代に今帰仁按司の子の千代松 (丘春) が難を逃れて過ごした所であると伝えられている。沖縄戦ではクマヤーガマと共に避難壕として使われていた。

このティラガマに隠れていた後の四代今帰仁城主千代松 (丘春 1187~1322) は一時期この砂辺で生活をしていた。

家臣本部大主の謀反により、幼い千代松は、臣下とともに北谷町砂辺集落に逃げ延びることになる。北谷間切砂辺村に逃げ延びた千代松は、豪農、砂辺家に匿われ、成長して、この家の娘、真玉津と恋に落ちるが、横恋慕した喜舎場之子に素性を知られてしまう。喜舎場之子は、謀反を犯した本部大主の臣下であったと云い、丘春の身に危険が迫り、丘春は読谷山間切渡具知に移り、渡具知泊城を築き城主となる。この地で丘春は18年の長い歳月をかけて、本部大主に殺された父の仇を打つ計画を練り機会を伺っていた。丘春は読谷山の大木徳武佐に旧臣を集め、今帰仁城 (北山城) に攻め入り、本部大主を討ち城を奪還したのです。しかし、丘春と家族は湧川王子の孫で湧川按司二世の子の怕尼芝の反乱にあい、丘春の子の今帰仁仲宗根若按司が落命し、一族は再び中頭や大宜見に離散する事となってしまった。隠居の身であった丘春は追われ、長年住み慣れた読谷村間切に戻る。渡具知泊城で再び今帰仁城奪還の態勢を整えようと試みたが丘春は力及ばす当地で亡くなってしまう。

というのが丘春の話で、この物語は明治から昭和初期に活躍した渡嘉敷守良により沖縄時代劇今帰仁由来記として劇化されている。

砂辺では、もう少し詳しく、この砂辺にいた時、村の豪農の砂辺家の娘真玉津 (マタマチィ) との恋物語の伝承が砂辺集落に残っている。

北山落城の際、若按司丘春は久志間切に逃げのび、山中で道に迷い疲れ果てて路傍に腰を下し思案に暮れていた。ここを馬に乗って通りかかった僧が丘春を見て、物思いに沈んで居る理由を尋ね、その身の上を知る事になった。 僧は憐れみ丘春を東恩納村の寺に伴れて来て養育し、後に丘春を砂辺村の寺の僧に托して養育せしめた。 砂辺村の豪族の家に容色秀麗の娘がおり、その娘の掌に半月形の印があった。 時が過ぎ、丘春はたくましく成長し美青年となつていた。或る日、僧は丘春の掌の半月形の印を見て不思議に思うと共に、砂辺村の豪族の美しい娘の掌にも半月形の印
のあるという噂を聞いていたことを思い浮かべ、「此の二人は天の配合による夫婦である」と思い、僧は娘の家に行き、其の事を語り、丘春を伴れていき、娘と丘春の二人の掌を開かせると、半月形の印は全く同じ形だった。娘の父母も、天意による良縁とし、二人は夫婦の契りを結んだ。
北山の旧臣は仇討ちをしてお家再興の計画を練りながら、丘春とも連絡をとっていた。遂に、計画を実行する機会が訪れ、家臣は砂辺村に丘春を迎えに来た。丘春は同行を請う妻に別れを告げ、仇討ちへと立去った。
妻は日夜、丘春の戦勝を神に祈るが、二、三ヶ月経つても何の知らせも無く、心配で夜も眠れない有様になり、とうとう堪えかねて家を飛び出し海岸に沿って夫丘春のいる北に向う。読谷村の渡口村まで差しかかり、その夜に丘春が敵に捕えられた夢を見て、目を覚ますと居たたまらず、海岸伝いに北に進んで残波の断崖にさしかかつた。夫丘春から何の便りも無いのは、夢の通り夫は敵に捕えられ最後を遂げたと思い込み、絶望し、断崖から身を投じた。 幸いにも、海にいた漁師に救い上げられ、谷茶村に引上げた。谷茶村や附近一帯の村々では鐘や太鼓を打鳴らし老幼男女大騒ぎをしていた。賑やかな様子を村人に尋ねると、丘春が本部大主を討滅ぼし、明日若按司丘春が入城するので、名護に出掛けるところだとの話しだった。丘春の妻は話を聞き、我を忘れて雀躍し、これ迄の事情を村人達に打明ける。村人は駕籠で妻を載せて名護をさして往った。名護に着くと丘春、旧臣や、村々の民衆が入城の準備をしており、按司夫人の到着を喜び按司と共に彼女を迎えた。翌朝には群臣に衛られて今帰仁城に入城し北山を再興した。


ティラ (寺) 

ガマ入り口の後にティラ (寺) の拝所がある。瓦葺のコンクリート製祠が造られ、香炉が置かれ霊石を祀っている。旧暦8月15日頃には寺前 (ティラメー) という行事で拝まれ、旧暦9月のティラウガミ (寺御願) にも各家で拝まれている。ここからクマヤーガマの納骨拝殿がすぐ近くに見える。


土帝君 (トゥーティークン)

獅子屋 (シーシヤー) の北の広場奥には土帝君 (トゥーティークン) が祀られている。土帝君は中国から伝わった農業の神になる。根所 (ニードゥクル) の先祖が唐からクラガーシルウム (白芋) を始めて持ち帰ったと伝わり、サツマイモ栽培を始めた野国総官と関係のある土帝君 (トゥーティークン) の神を祀っている。1987年 (昭和62年) に字砂辺戸主会が土帝君 (トゥーティークン) の石碑を建立している。石碑が建てられる前迄は道端に小さな霊石が置かれていただけで単にウガンジュと呼ばれていた。旧暦の正月7日 (ナンカヌシークー) に甘藷と菜の花を供え拝みがおこなわれている。


根所 (ニードゥクル) 、御神屋 (ウカミヤー)

土帝君の道を東に進み四角に赤瓦屋根の大きな屋敷がある。屋号 根所 (ニードゥクル) で、玉城ミントンの流れをくみ、砂辺集落の草分けの元家 (ムートゥヤー) とされている。敷地内には1974年 (昭和49年) に別棟の御神屋 (ウカミヤー) が建てられ、御神屋の神棚には、向かって左にムラデーカミ火ヌ神 (村火の神)、中央にはカミウグァンス (神御元祖) の6つの香炉が置かれ、御先世 (ウサチユー) のウミキとウミナイ、中ヌ世 (ナカヌユー) のウミキとウミナイ、門中の香炉が置かれている。右には千手観音画像が安置されている。獅子ヌ御願 (シーシヌウグワン) のときの獅子舞などはここが出立点だった。旧暦正月2日の初御願 (ハチウガミ) から旧暦の12月24日の御解御願 (フトゥチウガン) まで、砂辺集落のほとんどすべての行事の拝みがここで行われている。出征兵士たちはここに立ち寄り、拝んでから出立していたという。


根神 (ニガン)

根所 (ニードゥクル) の敷地に戦前から別棟としてあった拝所が根神 (ニガン) で、母屋とは別棟の建物に火ヌ神と香炉が二つ安置されている。かつては根所 (ニードゥクル) の神仏へ供える供物の煮炊き専用のシム (台所) だったと推測さている。(砂辺集落では御神屋 (ウカミヤー) と比べると格下で、線香をあげるぐらいしかしなかったと言う。現在も、母屋の北西側に小さな小屋が建てられている。


ヌール火ヌ神 (殿 トゥン)

根所 (ニードゥクル) の東隣、後森 (クシムイ) 南の麓にヌール火ヌ神の拝所がある。殿 (トゥン) とも呼ばれ、琉球国由来記に記載されている砂辺之殿 (シナビヌトゥン) と考えられている。麦稲四祭 (ウマチー)の時、砂辺地頭が花米九合、五水 (泡盛) 四合、神酒一完を供え、砂辺の村人が芋の神酒六完を供え、平安山ノ口が祭祀を行なっていた。現在ではウマチーでは拝まれていない。戦前には、クシムイ (後森) の岩陰に大岩 (ウフヌシー) に向けて香炉 (ウコール) が置かれていただけだったが、1994年(平成6年) に琉球赤瓦の祠が建てられて拝まれている。現在では清明 (シーミー) の際に村として祭祀をおこなっているが、かつては1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていた。


後森 (クシムイ)、大岩 (ウフシー 未訪問)

ヌール火ヌ神の背後は小山の森がある。御願山 (ウガンヤマ) の後 (クシ) にあたるので後森 (クシムイ) と呼ばれている。昔は、クシムイは頂上の白っぽい石灰岩の大岩 (ウフシー) が、夜航海する船から、光った黄金に見えたところから、タカラムイ (宝森)、クガニムイ (黄金森) とも呼ばれていた。この後森 (クシムイ) 昔は加志原 (カシバル) のカーシヌシー (加志ヌ岩 在嘉手納基地内) とつながっていたが、軽便鉄道 (現在の国道58号線) が敷設され分断されてしまった。

クシムイの頂上には珊瑚の大岩 (ウフシー) があると資料にはあるので、頂上への登り口を探すが見つからない。google map の航空写真ではヌール火ヌ神の横に道がある様に見えるので、そこを強引に登って行ったが、途中で倒木や深い樹々に塞がれてそれ以上は先に進めず断念。ここを訪れた人が写真 (下の写真を借用) がアップされていたので、どこかに登り口があるのだろう。歩いている人に確認したかったのだが、見当たらない。公民館も今日は日曜日で閉まっている。今後、嘉手納の集落に行く機会があり、通り道なので、その際に再訪する予定。

ウフシーの大岩には琉球国由来記に記載にある「伊平屋森 石良具御威部 (イビ)」と刻まれた石碑が建てられている。かつて今帰仁や伊平屋へのお通し拝みが行われていたという。香炉 (ウコール) が二つ置かれ、奥 (写真左下) にあるものを砂辺集落が拝んでいる。現在では3月の清明 (シーミー) の際に村として祭祀をおこなっているが、かつては1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていた。


御願 (ウガン)

後森 (クシムイ) の南側、ノーリグワーという川の北側にも丘があり、この森 (ムイ) 一帯を御願 (ウガン) と称していた。

根所 (ニードゥクル) では御嶽 (ウタキ) とも呼ばれ、旧暦の朔日 (1日) や15日には屋号根所 (ニードゥクル) の家人が拝んでいた。クシムイにはヤマサリーンと呼ばれる神が住むといわれ、根所家の者以外の人間がここで木の枝を取ったり折ったりすると、祟られる (ヤマサリーン) と言われ、一般の人は、このウガンをシジダカサン (霊力が高い神々しい聖域) と言って畏れ、拝むことはあまりなかった。1944年 (昭和19年) に、日本軍の壕を作る際には、砂辺集落では軍に出資を願い、祈願を行なってから樹木の伐採をした。祈願を行なわずに伐採したときは、作業員にけが人や病人が出ることがあったという。


タキガー (ノロガー)

御願 (ウガン) の南西の麓の御願入口にはタキガーがある。ウタキガー、ガンガー、タキグサイウカーとも言う。平安山ノロが白い着物を着て、ウマチーの際に、この井戸で手足を清めてから殿 (トゥン) などムラウチ (戦前の砂辺集落の事) の拝所を拝んだと伝わっており、ノロガーとも呼ばれている。旧暦1月7日に 七日節句 (ナンカヌシークー) という祈願を行なった。菜の花、芋 など、畑の作物を酒とともに供えた。以前は、旧暦1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていたが、現在では旧暦5月5日の井戸拝み (カーウガミ) で拝まれている。


村グサイ之墓、大里ムチウリ之墓

タキガー (ノロガー) の東側に御嶽の山への登り口がある。そこから道を登って行くと、中腹には村グサイ之墓と大里ムチウリ之墓がある。戦前には墓はなく、厨子甕が剥き出しで置かれていたそうだ。戦後、墓が整備され、香炉 (ウコール) が置かれ、一時期にはムラシーミー (村清明) の際に拝まれていたが、現在では村の拝みの対象から外れ、拝まれてはいない。


砂辺御嶽照神

頂上部には砂辺御嶽照神の祠がある。御願の山の中には戦前までは祠があり、大王ヌ墓 (ウフスーヌハカ) と呼ばれていた。現在の祠の東南にあったそうだが、消滅している。昭和63年に砂辺御嶽照神の祠が造られ、テラシン、テルシン、ティーラガミなどと読まれている。この祠建立以降、1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていたが、現在ではムラシーミー (村清明) だけになっている。


ヌール墓

御願 (ウガン) の東側に古墓があり、かつてノ口職にあった神女を葬ってあるノロ墓と言われている。御願 (ウガン) の北側から丘を下だると墓に行き着く。戦前には単に 「ハカ」 と呼ばれ、根所 (ニードゥクル) では中山墓 (チュウザンバカ) と伝わっている。この墓は3月の村清明 (ムラシーミー、カミウシーミー) の際に拝まれている。


ノーリグワー

公民館の南にはノーリグワーという川が流れている。このノーリグワーは御願の東の加志原 (カシバル) のウチャタイという地から公民館、クマヤーガマの南を通り、唐港 (トーンナトゥ) の海に流れ込んでいる。昔は通常は水はなく、雨が降ったときだけ流れができていたそうだ。


ウチャタイウメーヌ墓

御嶽の山の東側、加志原 (カシバル) のウチャタイ (御茶多理? 西原町桃原にも’御茶多理’真五郎の墓があったのを思い出した) と呼ばれる場所に古墓がある。ノーリグワー沿いに道があり、その道の行き止まりに墓がある。高貴な人物の墓と考えられ、ウチヤタイの前の墓 (ウチャタイウメーヌハカ) とかウチヤタイ爺さん (ンメー) の墓とか言われ、戦後、碑が建てられて村清明 (ムラシーミー) で拝まれる様になった。

別の資料では屋号グンナンの墓とあり、この墓には、ジーシガーミ (厨子甕) の中にクガ二 (黄金) があったと伝えられている。また、別の伝承ではアカルチ・クルルチという力自慢の兄弟が葬られているとも言う。 

そば また、屋号グンナンの墓の側にムラバカもあったという。アーチ型の門 を持ち、そこをくぐると普通の墓の門があるという造りで、ジョンタバカと呼ばれていた。現在も墓は残っているが、アーチ門はなく なっている。ウチャタイウメーヌ墓の横にも墓があり、これがムラバカだろうか?


産井 (ンブガー)

砂辺区公民館の北側、戦前は若者たちがモーアシビ (毛遊び) をしていたウフカーニーモーの下には砂辺集落の産井 (ンブガー) が造られていた。陥没ドリーネ泉で、屈んで入れることからホーヤーガーとも呼ばれていた。(ホーヤーは沖縄方言で「這う」の意味)水量は豊富だったが、戦前からすでに飲料水や生活用水としては使われておらず、若水 (ワカミジ) や産水 (ウブミジ) が汲まれ、主に拝所として拝まれていた。 米軍に土地が接収された際には埋められていたが、土地返還後に土を掻き出して整備している。以前は、旧暦の1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていたが、現在では旧暦5月5日の井戸拝み (カーウガミ) で拝まれている。


唐井 (トーガー)

産井 (ンブガー) の北、中道 (ナカミチ) 近くに唐井 (トーガー) があり、唐井之水神を祀っている。井戸は深さ3メートル程あり、今でも豊富に水が溜まっている。戦後、米軍に埋められていたが、その後、ユタの助言で掘り起こされ、旧字砂辺戸主会により整備されている。昔からムラウガミ (村拝み) の拝所の一つだった。現在でも旧暦5月5日の井戸拝み (カーウガミ) で拝まれている。


犬井 (インガー)

後森 (クシムイ) の北の麓、砂辺集落のほぼ中央に共同井戸の犬井 (インガー) がある。屋号上ヌ犬川 (ウィーヌインガー) の屋敷前、西側に当たる。この屋号に由来した名なのか、犬 (イン) が見つけた井戸だったからこの名称になったともいう。当時は砂辺集落のほとんどの家に井戸があったが、この井戸の水も飲料水、炊事や、芋や手足を洗ったりして共同利用され、村の拝井だった。元の井戸は道路設置で埋められ、その後、2mほど東側に掘削して拝所として整備されている。以前は、1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていたが、現在では5月5日の井戸拝み (カーウガミ) で拝まれている。

犬井 (インガー) の隣の民家の塀にも拝所がある。屋敷内ではなく、道路に向けてわざわざ塀をくり抜いて置かれているので、集落住民が拝んでいたのだろうか?


地頭火ヌ神 (ジトゥーヒヌカン)

犬井 (インガー) に北には、もとは地頭代 (ジトゥデー) の仲宗根親雲上屋敷跡だった。廃藩置県で地頭代が那覇に引き揚げたあと、屋敷跡の畑の中に残った火ヌ神 (ヒヌカン) を祀っていた。簡単な石垣で囲った小さな祠があり、中に香炉が置いてあった。祠の屋根はテーブル珊瑚が石化したヒライサーと呼ばれる石をかぶせただけのものだったので、台風がくるたびに壊れてしまい、 そのうち直されなくなり、なくなってしまった。その後、1987年 (昭和62年) に土地区画整理に際に石碑が造られ、2005年 (平安17年) に砂辺戸主会によって祠が造られ、8月頃に拝まれている。以前は1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていた。


砂辺小岩 (シナビグヮシー) 

地頭火ヌ神の西側の道路沿いに岩がある。昔は別の場所にあったが、戦後の土地整備の際に米軍がブルドーザーでここに移されている。戦前には砂辺村で拝まれていたが、現在では拝まれていない。


伊平屋御通し (イヒャウトゥーシ)

砂辺集落の一番北側にある拝所で伊平屋の按司を遥拝するためのお通し (ウトゥーシ) の伊平屋御通シ (イヒャウトゥーシ) がある。かつてはイハガミ、イハガミヌウトゥーシと呼ばれていた。昔は、神が豆などの種子を持って降臨した地と伝わる小さなムイグワー (森小) の岩の前にイビが置かれていたが、1987年 (昭和62年) に瓦屋根の祠が建てられている。現在ではシル (汁) からミー (身) なす神とされ、カンカーや、旧暦9月15日の伊平屋御通し御拝 (イヒャウトゥーシウガミ) など、シル豆腐を供えて祈願行事が行われているが、以前は1月2日の初拝み、9月9日の菊酒、12月24日の御願解き (ウガンフトゥチ) でも拝まれていた。


嘉手納飛行場

伊平屋御通しの北は嘉手納飛行場となっており、道路に沿ってフェンスが設置されている。砂辺の北部はこの嘉手納飛行場の軍用地として接収されたままになっている。辺野古への移転により返還される予定だが、様々な問題を抱えており、いつになる事だろう。


中道 (ナカミチ)

唐井 (トーガー) まで戻り、井戸の北側の道を西に進み、砂辺馬場公園に向かう。この道は中道 (ナカミチ) で砂辺集落の真ん中を東西に走っている。


砂辺馬場公園、砂辺馬場跡

中道 (ナカミチ) の先は砂辺の海岸になる。海岸近くには砂辺馬場公園が整備されている。この名からわかる様に、戦前迄はここには海岸に沿って弧状の砂辺馬場 (ンマィー) が南北に200m程あった。旧暦1月20日にンマスープ (馬勝負、競馬) が行なわれ、観客は馬場の北のンマームイ (馬場森) で観戦していた。上勢頭屋取、下勢頭屋取)、宜野湾村、越来村などからきれいに飾られた出場馬が集まっていた。沖縄の競馬はどれくらい美しい足並みで走れるかを競い、速さよりも美しさが重視された。また、ここでは旧暦4月にはアブシバレー (畦祓い) を行なった。芭蕉で作った虫かごに入れたヘンサー (カメムシの一種) を海に流した。 旧暦8月15日から3日間行なわれるムラアシビの初日では、このンマイーで芝居が催されていた。戦前には、ンマイーの浜で潮干狩りをしたり、運動会も行われていた。戦時中は、青年学校や嘉手納農林学校の生徒が軍事教練に使っていたという。ンマムイー (馬場森) の東にはウシナー (闘牛場) も造られていたそうだ。


砂辺之龍宮神 (リューグーシン)

公園敷地内南端に砂辺之龍宮神の拝所があり、石碑と石造りの香炉が置かれ、海の神の竜宮神を祀っている。いつ頃からあったのかは明確ではないのだが、砂辺馬場 (ンマイー) の下の小さなガマの中に霊石 (イビ) があり、旧8月15日のアシビで拝まれていたそうだ。


浜之歌碑

公園内には当地出身の沖縄民謡の歌い手であり、作詞作曲も多く手掛けた喜屋武繁雄の歌碑が置かれている。喜屋武繁雄は1957年には砂辺区長を務める傍ら、砂辺民謡研究所を主宰し、民謡研究に本格的に取り組んだ人物。砂辺は沖縄の集落の中でもモーアシビ (毛遊び) が盛んな土地で、喜屋武繁雄の代表作の 「砂辺の浜」 は、月夜の晩の美しい砂浜で、海面に映る月影を背に毛遊びに戯れる若者達の姿を現代風に描いている。

一、砂辺浜下りて 語らなや今宵 愛の浜風に (シューラヨー) ぬりてまた遊ば
二、銀色ながち 月ん照りまさて 波に浮く小舟 (シューラヨー) まさて又美らさ
三、浜風と連りて さざ波の踊り 千鳥唄しゆる (シューラヨー) 浜は又ぬどか
四、遊びたわふりて 更きる夜も知らん いちやし忘りゆが (シューラヨー) 恋し砂辺浜

馬場森 (ンマイームイ)、米軍上陸地モニュメント

馬場公園ないのかつての馬場 (ンマイー) の北側には戦前迄は馬場森 (ンマイームイ) と呼ばれる丘があった。この場所ではムラアシビなどの行事やモーアシビをする場所だった。ここに米軍上陸地モニュメントが1991年に設置されている。モニュメントのレリーフには壕の中で死んだ子供を抱え嘆く母親や突進する戦車、兵士の姿が描かれ、沖縄戦の悲 惨さ、平和の大切さ、命の尊さを伝えている。

1945年 (昭和20年) 4月1日にアメリカ軍は1500隻、海軍 2,380人、海兵隊 81,165人、陸軍 98,567人で沖縄の西海岸に上陸をしている。上陸地は北谷町から読谷村にかけて、20キロほどの海岸線だった。この地も上陸地の一つだった。

第二次世界大戦沖では砂辺住民の136名が犠牲になっている。砂辺村での犠牲者は十数名で、多くは避難途中、避難、外洋戦地での死亡だった。米軍は4月1日の上陸後にすぐさま、非戦闘員の収容所を北谷砂辺に設け、島袋収容所に移送するまでの数日間使用されていた。戦後、砂辺集落は米軍に接収されていたが、1954年 (昭和29年) に村内原、大道原、加志原の土地が返還され、住民の帰還が始まった。砂辺では戦前までの砂辺集落を旧集落、昭和29年以降に復興された集落を新集落と呼んでいる。砂辺住民は帰還したのだが、すぐ北には嘉手納基地があり飛行機の発着陸の騒音に悩まされて、1974年 (昭和49年) の 「防衛施設周辺の生活環境の整備等に関する法律」 で砂辺の半数以上の家族が補償を受け取ったり、土地を国に売却して移転している。旧集落の住民は旧字砂辺戸主会を結成して、住民間の交流、文化維持継承を行なっている。

公園の北側の砂辺海岸から東に嘉手納飛行場の滑走路がある。今日も軍用機が何機も海からこの砂辺海岸に降下してきて嘉手納飛行場に着陸していた。かなりの騒音だ。


トゥイヌヤーガマ (鳥小屋洞窟) 

砂辺馬場公園内東側にあった馬場 (ンマイー) の北側の下、海岸が埋め立てられる前迄は岬だった所ににはトゥイヌヤーガマ (鳥小屋洞窟) があった。現在では入り口は埋もれているが、南向きで風よけになるので、よく鳥が出入りしていたそうだ。冬など寒い季節はこの中でモーアシビをすることもあったという。資料には写真もなく、場所が特定出来ないのだが、公園の端の海岸の所にそれらしき場所があった。この辺りに洞窟があったのかは分からない。


砂辺海岸

砂辺馬場公園の北には砂辺海岸が伸びている。遠浅の海岸になっている。海水浴ビーチとしては整備されておらず、遊泳禁止となっているが、多くの人が海遊びに興じていた。

砂辺海岸に沿って、マンションが建っている。ウォーター フロント マナーといい、全室オーシャンビューの100平米超えの部屋のアメリカ人向けの大型マンション。北谷には嘉手納基地、瑞慶覧キャンプの米軍基地があり、軍関係のアメリカ人が多く住んでいる。

砂辺海岸の北側の岩場に何か祠の様な物が見えた。帰宅してから調べると、そこにはトゥルクガマという三角形の洞窟があった場所だそうだ。崖には屋号新殿内 (ミードゥンチ) の 墓があるとなっていたので、祠の様に見えたのはこの墓だろう。次回時間があれば行ってみよう。



砂辺集落の南側には砂辺ヌ前屋取 (シナビヌメーヤールイ) があり、ここには7月6日に浜川集落を訪れた際に散策をした。



砂辺ヌ前屋取 (シナビヌメーヤールイ)

本村の砂辺集落の南側、浜川集落の北側に、戦前までは砂辺ヌ前屋取があった。この地域の埋め立てが行われる前は東シナ海に面していた。18世紀初頭以降に首里の士族や国頭の大宜味村屋古集落から移住してきて砂辺ヌ前屋取 (シナビヌメーヤールイ) を形成し、戦前は戸数は29軒 (瓦屋 カーラヤーは4軒) の小さな屋取集落だった。北谷村は士族の割合が突出して高い地域なのだが、砂辺村は士族割合が15%で最も低い地域だった。砂辺の南隣の浜川は87%、北隣の野国は68%と非常に高いのだが、挟まれた砂辺に士族割合が低いのは何故だろう?

現在は宮城区に属している。集落は東側の軽便鉄道寄りの15軒の上屋取 (イーヤールイ) と、西側海岸寄りの14軒の 下屋取 (シチャヤールイ) に分けられていた。本村の砂辺集落と共に字砂辺に属していたが、年中行事などは別々に行われていた。

主業は芋やサトウキビ栽培の農業で、漁業も2軒が営んでいた。サーターヤーは1か所あり、5軒が使用し、残りの農家は伐採したサトウキビを直接嘉手納製糖工場へ出荷していた。 


砂辺ヌ前屋取集落の拝所と祭祀行事

砂辺ヌ前屋取集落で行なわれていた主な年中行事は

  • ニングワチャー (クシユクワーシー、旧暦2月2~4日): 1937~ 38年 (昭和12~13年) 頃まで行われていた砂辺ヌ前屋取では一番大きい行事で、3日間仕事を休んで豊作を祈願する祭りになる。上ヌ井 (イーヌカー)、砂糖屋ヌ井 (サーターヤーヌカー)、ビジュルを拝んでいた。ソーミン (素麺) チャンプルー、ジューシー (雑炊)、豆腐などを作り、1日目と2日目は夜通し遊んだ。サンミンワックワシの3日目は諸経費を計算し各家割りにした。
  • エイサー (旧暦7月13~15日): 盆の15日のウークイが終わった後にはエイサーが催されていたを行なった。大正時代まで行われていたが、昭和時代には絶えてしまった。


  • 御嶽: なし
  • 殿: なし
  • 拝所: ビジュル
  • 井泉: 上ヌ井 (村井)、砂糖屋ヌ井 (村井)、中ヌ井戸 (個人井戸)、下ヌ井戸 (個人井戸)、


オータチャーヌシー、ウシックワーガマ (浜川千原岩山遺跡)

浜川集落のアーマンチューガマから北東側、浜川と砂辺の境、浜川外人住宅地域にオータチャーヌシーと呼ばれる直径約25m、高さ30mの円錐形状の石灰岩塊の岩山がある。麓にはウシックヮーガマと呼ばれる洞穴があったそうだ。西側の海と繋がり、ガマの中には塩水が溜まっていたという。ここはグスク時代の遺跡の浜川千原岩山遺物散布地とも指定され、宇佐浜式土器に類似した小破片が採集されている。


砂辺ヌ前合祀所

オータチャーヌシーの北側、住宅街の一画に砂辺ヌ前合祀所が置かれている。ここは下屋取の東端にあたり、この周辺にはビジュル、砂糖小屋井があった。この場所に1960年代に、砂辺ヌ前屋取集落に点在していた上ヌ井戸 (ウィヌカー)、中ヌ井戸 (ナカヌカー)、下ヌ井戸 (シチャヌカー) を合祀している。祠の前には井戸を形造り形式保存している。戦後、集落は米軍に接収されて、旧住民が砂前郷友会隣組を結成し、合祀所を維持管理している。


上ヌ井 (イーヌカー)、ビジュル、中ヌ井戸 (ナカヌカー) と下ヌ井戸 (シチャヌカー)、龍宮神

上ヌ井 (イーヌカー) は砂辺ヌ前屋取集落内にあった二つの共同井戸である村井 (ムラガー) の1つで、上屋取 (イーヤールイ) の村井だった。深さ13.5mぐらいのクルマガーだった。共同井戸では飲み水として利用していた唯一の井戸で、集落の人たちが使っていた。 拝所でもあり、旧暦2月2日のニングワチャーのときに拝んだ。以前の場所は住宅街となり、わからなくなってしまったが、この合祀所が作られた際に、砂糖屋ヌ井 (サーターヤーヌカー)、個人井戸とともに祀られている。

もう一つの共同井戸が下屋取 (シチャヤールイ) の村井だった砂糖屋ヌ井 (サーターヤーヌカー) で砂糖小屋 (サーターヤー) の東側に置かれ、水は少なく製糖時期にサーターヤーで使われていた。

戦前は、個人の井戸 (カー) は、上屋取 (イーヤールイ) に5つ、下屋取 (シチャヤールイ) に9軒の計14軒あり、その内の個人井戸だった中ヌ井戸 (ナカヌカー) と下ヌ井戸 (シチャヌカー) がここに合祀されている。

戦後に外人住宅が造られるようになってからは米軍が水道を引き、住民も利用していた。

この井戸拝所に隣接して砂辺ヌ前ビジュルの祠があり、石の香炉 (ウコール) が置かれている。元々はハルミチに近い畑にあったそうだ。このビジュルは旧暦2月2日のニングヮチャーに豊年満作と健康祈願で拝まれている。

砂辺の前ビジュルの右側には航海安全と豊漁を祈願する龍宮神の祠が移設されている。龍宮神の祠は昔からあった拝所ではなく近年に造られたそうだ。


砂辺集落巡りを終えて、帰路に着いたとたん、雨が降り始めた。小雨は気持ちが良いのだが、次第に強くなり、大雨となった。北谷にはいくつものショッピングモールがあるので、その一つに駆け込み雨宿り、日中は気温もあがり、体力を消耗しているようで、疲れたのかショッピングモールで寝てしまっていた。起きると雨は止んでおり、気温も下がり、帰りも日陰側の歩道をのんびりと時間をかけての帰宅となった。




参考資料

  • 北谷村誌 (1961 北谷村役所)
  • 北谷町の自然・歴史・文化 (1996 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の戦跡・基地めぐり (1996 北谷町役場企画課)
  • 北谷町の戦跡・記念碑 (2011 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の地名 (2000 北谷町教育委員会)
  • 北谷町の拝所 (1995 北谷教育委員会)
  • 北谷町の遺跡 (1994 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第1巻 通史編 (2005 北谷町教育委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (上) 資料編 (1992 北谷町史編集委員会)
  • 北谷町史 第3巻 (下) 資料編 (1944 北谷町役場)
  • 北谷町史 第6巻 資料編 北谷の戦後1945〜72 (1988 北谷町史編集委員会)
  • 砂辺誌 (2016 旧字砂辺戸主会)