Noism1×SPAC 劇的舞踊vol.4「ROMEO&JULIETS(ロミオとジュリエットたち)」彩の国さいたま芸術劇場(大ホール)
金森穣 演出・振付。
シェイクスピアの戯曲のせりふと、そのバレエ作品のプロコフィエフの音楽を重ねる試みがかつてあっただろうか?
天才的な演出・振付。初めてスタンディングオベーションをした。
完全に演劇でもダンスでもないが、この形でしかあり得ないという必然性がある稀有な舞台作品。
精神病院という設定は、シェイクスピアの舞台か映画で前例がある気がする。この作品ではそこにAI(ロボット)もいるのが重要ポイント。
どの役を俳優・ダンサーが演じるかという配分も見事。ダンサーの身体能力が驚異的。俳優もバリバリ体が動くし、狂言のような力強いせりふ回しも効果的。
映像の使い方も巧み。リアルタイムで表情を見せたりせりふを表示させたり。
声だけで、姿の見えない存在の大公は、ジョージ・オーウェルの小説『1984』の監視社会を思わせる。
胸や尻を衣装で強調した看護師に、ジュリエットにいやらしく触れる求婚者パリス。ロミオ、ジュリエットたち、AI(ロボット)看護師の清純さとの対比かもしれない。
ジュリエットは5人のダンサーが踊るから、「たち」と複数。分裂病、多重人格か。ロミオは車いすに乗っていて下半身が不自由。普段は両足をいすに上げて車いすを押してもらっているが、意志を見せるときは足を下ろして自分で動く。
ジュリエットは口がきけず、手話をするとロミオがそれを言葉にして声に出す。声を持たない女性。代わりにダンスで表現する、まさにダンサー。車いすのロミオにジュリエットが寄り掛かって車を押す動きは、ロマンチックでセクシー。
いろいろな愛が描かれる。キャピュレット夫人はティボルトに片思いしているという設定(この解釈は劇の映画化作品などでも時折見られる)。医師=ロレンスは、AI(ロボット)看護師=ロザライン(ロミオの初恋の相手)に思いを寄せているよう。井関佐和子と金森穣のパ・ド・ドゥが素晴らしい。
ジュリエットと出会った直後のロミオは、AI看護師を突き放す。AI看護師は、ロレンスの使者の妨害をする。墓場でジュリエットを最後に一目見ようとしたロミオは、下半身が動かず、かなわない。なんとか彼女を抱えて死ぬ。そして・・・。意外なオリジナルのラストにうなった。
体の一部が動かない、声が出ない、興奮状態になると注射を打たれる、という何らかの「不自由」を抱えた人々が登場する。あれは私たちなのだろうか?AI看護師は最後に少しだけ人間らしい柔らかい動きをする。あれも、われわれだろうか?
未来では、ロボットっぽく動く人間と、人間っぽく動くロボットが、舞台で共演するかもしれない。不自由になった肉体や器官の一部が、機械に置き換えられるかもしれない。そうしたら、それは人間?それともロボット?その体になった私たちはどう踊るだろう?
ロミオとジュリエットたちの舞踏会での出会いやバルコニーのシーンはすてきだったが、ロミオとマキューシオの友情はあまり描かれていなかった。だから、マキューシオが殺されたことに対してロミオが激高するのが唐突に見えた。数少ない欠点。