自己模倣
Facebook市堀 玉宗さん投稿記事
『俳句の可能性・俳句の末路?!』 「月並もめでたかりけり初句会 玉宗」
「かつての自分をなぞることは自己模倣と言って芸術の末路であり、行き止まりだ」
これは文芸批評家の山本健吉の言葉だそうである。俳句批評にも名を馳せた山本であるがこの指摘の中に俳句も含まれているのかどうか。虚子は俳句は第二芸術であると指摘されて、俳句も第二芸術と認められるまでになったかと嘯いたが、山本が俳句を芸術として認めていたのかどうか。
いずれにしてもここで言う「自己模倣」が俳句創作でよく言われる「類句類想」とか「自己類想」と同じ論点であるのかどうか。山本は俳句批評に優れてはいたが、彼自身が俳句を作っていたのかどうか。実作者であったのかどうか判然としない。
何が言いたいかと言えば、俳句に於ける「自己類想」がそのまま俳句の末路、行き止まりだとは俄かに賛同しかねるからだ。以前から言っていることだが、私は類句類想が俳句実作のダイナモのようなところがあるのではないのかと思うことがある。自己類想も然り。
自己類想の果てに末路があるのではない。自己類想の果てに行き止まりがあるのではない。作者自身が自己類想に行き詰っているだけだろう。それは類想というより、創作停止と呼ぶべき状態である。類想は類想であって類想ではない。
些かなりとも似て非なるものの面白さが、最短定型詩たる俳句創作の醍醐味でもあり、新しみの真相ではないのか。一句一句すべてが類想ではない作品などありそうでありはしない。妄想である。
わが人生とは、ときにお坊さんとして、ときに俳人として、ときに隣人として、ときに家族として、「わたし」は「大いなるいのち」を表現したいと思っている。俳句もまたそんな「わたし」の「自己表現」であってほしい。つまり、言葉という感性との自己交感である。
日々俳句を更新して厭きないのも、「わたしのいのち」に厭きてしまうには余りに口惜しいからでもある。なんて淋しい人間だろうと思わないでもない。俳人は言うに及ばず、お坊さんの友達も少ない訳だ。
だからでもなかろうが、類句類想なんてあたりまえじゃないかといった開き直りがある。似て非なる人の世だが、味噌糞一緒という訳にもいかない。俳句もまた然り。
それにしても、だれが人の類句類想を批難できるのだろうか。だれにとっての不都合な類句類想なのだろうか。比べなければなんだって天下無双、天下一品である。否,俳句は比べてなんぼ、人の目に触れてなんぼ、先生の添削を受けて自立の道を歩むもの、みたいな大衆文芸であると躍起になる者もいるだろう。そんな盗っ人猛々しい文芸ならば、それなりの仁義もあろうというものだ。
だからこそ、こんな離れ伎をするにはどうしたって無心でなければならないというのが唯一のクリアーすべき自己バイアスとなる。自己類想ではないと言い張るなら、或いは、無心なるいのちの表現ということを匕首に生きていくなら、それくらいの精進が欠かせないこの世の義理があろうというものだ。わたしもそこまで世間知らずではない。
俳句の末路、行き止まり、メルトダウンと揶揄されないためには、自己類想さえわが創作の薬篭中に納める覚悟がなければならんのじゃないのかな。
https://www.scholar.co.jp/column/id=11037 【「自己模倣のジレンマ」と戦うアートとビジネス(前編)】より
過去の自分を超えて新境地に挑むマインドとは
芸術家が直面する問題の一つに「自己模倣のジレンマ」があります。
自身が過去の作品の技法やスタイルに固執、満足することで、新しい創作のアイデアや表現の探究が妨げられ、「創造の限界」を迎えてしまうことです。
同じようにビジネスの世界にも、企業が自己模倣すなわち過去の成功モデルにもとづく安定化路線を維持することで、変化する市場に対して新たな価値を生み出せなくなる、というジレンマがあります。
ここでは創作に人生をささげる芸術家の話を取り上げて、自己模倣の落とし穴と、自ら限界をつくらない創造のあり方について述べてみたいと思います。
プロセスデザイナー塩見 康史YASUSHI SHIOMI
人間や事業についての幅広い知識を駆使して、お客様と一緒に本質的な課題を多元的な視点から洞察する。バラバラで混沌とした状態から創造力豊かな仮説を構築する。
偉大な芸術家は「過去の自分」を超えていく
西洋音楽史上、最も有名な作曲家の一人であるルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン(1770年-1827年)は、その音楽に捧げた生涯において、常にみずからの創作を進化/深化させてきたことが知られています。
ベートーヴェンの作品は、大きく初期・中期・後期の3つに区分されます。
初期の作品は、先輩であるハイドンやモーツァルトの影響が残る、明るく快活な作品が多いのが特徴です。中期の作品には「英雄」「運命」「田園」など、傑作とされる彼のもっとも有名な作品群が含まれます。この時期の作品は、徐々に耳が聞こえなくなるという自身の過酷な運命に挑むかのような、強靭な表現と大胆で革新的な作曲技法が特徴です。
そして、後期の作品群はというと、非常に難解であることで知られています。
晩年のベートーヴェンは、よく人から「君はなぜ、初期の作品のような楽しくて、わかりやすい曲をつくらないのか」と苦言を呈されたそうです。
事実、それらの作品は彼の死後しばらくの間、世間にはまったく理解されないままだったそうですが、現在では前人未到の深遠な作品群として高く評価されています。
近代のロシアの作曲家であるイーゴリ・ストラヴィンスキー(1882年-1971年)は、その生涯で何度も作風を変えていったことで有名です。彼は評論家などから「カメレオン」とも揶揄されましたが、大ヒットした「火の鳥」など初期作品のスタイルの自己模倣に甘んじず、次々と新しい作風に挑んできました。
今では、その創造的姿勢こそが高く評価されて、20世紀を代表する作曲家という確固たる地位を得ています。
ベートーヴェンやストラヴィンスキーに限らず、偉大な作曲家は、自己模倣のジレンマを克服し、つねに新しい境地やスタイルを求め続けてきました。
音楽であれ、造形や演劇であれ、並の芸術家の中には、自己模倣のジレンマに陥ってしまう人が少なくありません。キャリアの初期にヒットした作品の二番煎じ、三番煎じのようなスタイルの作品をワンパターンで量産し続けるだけ、ということはよくあります。
自己模倣に陥る芸術家の心理とは
私もパラレルキャリアは作曲家のはしくれですので、自分の創作の経験から考えた時に、このような自己模倣という現象が起きる心理はよく理解できます。
なんといっても、新しい技法やスタイル、表現における新境地を開拓するためには、まずその強い意志と、長期間にわたって創造の模索を続ける非常に大きな精神的エネルギー(生みの苦しみ)が必要です。
かといって、新境地の開拓が成功する保証はどこにもありません。これまでのキャリアにおける成功を台無しにしてしまうリスクもあります。
過去に成功した作品は、すでに評価が定着しているだけではなく、世間にはファンも存在し、同様のスタイルでの新作を楽しみにしています。そういうファンの期待をある意味では裏切って、自分の可能性を試すための新境地・新スタイルを模索することは、労多くして成功する確率は少ない、ハイリスク・ハイリターンの賭けのように思えるのです。
当面の社会的な成功という観点からは、自己模倣にもメリットがあります。
過去の成功作と似た作品を書けば、喜んでくれる人はたくさんいますし、そういう既定路線を行くことで経済的・社会的な成功を手に入れやすくなります。
何よりもヒットパターンの踏襲は、先の見えない創造の苦しみを味わわずに済みますので、とても楽でコスパが良いのです。
その一方で、芸術家の心の内としては、自己模倣による創作を惰性的に続けることによって、自分自身に対する非常にみじめな感覚をおぼえます。
すでに自分の創造力を信じられなくなっており、仮に自覚がないとしても、芸術家としての自分を自身が裏切ってしまっていることを心の底で感じるからです。
とはいえ、人の創造力も無限ではありません。ベートーヴェンのような無尽蔵とも思える創造力を持った天才であればいざ知らず、比較的凡才である芸術家は、このような葛藤と日々格闘せざるを得ないのが現実でもあります。
これからのビジネスには「創造のための能力開発」が必要
ここまで芸術家と自己模倣のジレンマについての話をしてきましたが、これは現代のビジネスにとっても非常に示唆に富んだ話だと思っています。
今日ではビジネスにおいても、既成概念にとらわれない想像力豊かな「アート思考が必要」といわれるように、創造性こそが新価値創造のカギだからです。
新たな表現の世界を開拓していくことが使命の芸術家でさえ、自己模倣のジレンマが宿命的な問題だとすると、ビジネスの世界に身を置く人たちが創造性を発揮し続けることのハードルは、さらに高いものといえます。それが既成概念にとらわれない、まだ世の中にはない新しさを求める創造ならば、なおさらでしょう。
もちろん、ビジネスの世界では「自己模倣」的なアプローチも重要です。すなわち過去の成功体験を分析し、論理的な思考を通して、その成功パターンを拡大再生産していくという戦略も存在します。このようなアプローチは「持続的イノベーション(従来商品の改善・改良)」として、多くの企業が日々取り組んでいます。
しかし、クレイトン・クリステンセン教授が「イノベーションのジレンマ」において指摘したように、「持続的イノベーション」に適応しすぎてしまうと、「破壊的イノベーション(まったく新しい価値を生み出す)」を起こす企業の能力は育たなくなります。
つまり、自己模倣的なアプローチを進めていくための能力は、すでに多くの企業や人材が獲得していますが、自己模倣を超えて、まったく新しい価値を生み出すための能力の開発については立ち遅れているのが日本企業の実情なのです。
次回は、「自己模倣のジレンマ」を乗り越えて創造に取り組むために必要な能力、「ネガティブ・ケイパビリティ」を取り上げていきます。
https://www.scholar.co.jp/column/id=11083 【「自己模倣のジレンマ」と戦うアートとビジネス(後編)】より
創造につきものの不安や葛藤に耐える力「ネガティブ・ケイパビリティ」とは
私たちがこれまで企業の中でほとんど経験してこなかった「創造」に取り組んでいくためには、過去の成功体験から抜け出せない「自己模倣のジレンマ」をどのように超えていけばよいのでしょうか。
私は「ネガティブ・ケイパビリティ」という能力の概念に、そのヒントがあると思っています。
創造性のカギを握る力「ネガティブ・ケイパビリティ」
ネガティブ・ケイパビリティとは、イギリスのロマン主義の詩人ジョン・キーツが、シェイクスピアの芸術創造の能力の秘訣について語る時に使った言葉で、「容易に答えの出ない事態に耐えうる能力」を意味します。
未知の問題がもたらす不確かな状況や不安、葛藤は、人間にとってネガティブなものであり、一刻も早く回避、対処したくなるものです。それでもあえて性急に答えを出そうとせずに、そこに踏みとどまり、耐える中から真に創造的なものを生み出していく、という考え方です。
自己模倣的アプローチは確かにコスパが良く、比較的、楽な道です。また、創造のための苦しみや不安、葛藤に向き合う厳しさを避けることもできます。
しかし、ビジネスにおいても芸術においても、本当に創造的なことを成そうとすれば、創造の苦しみ、不安、葛藤はつきものであり、避けては通れないものだと思います。
そこにしっかりと向き合う力が、ネガティブ・ケイパビリティです。
ネガティブ・ケイパビリティという能力は、程度の差こそあれ、すべての人が潜在的に持っています。しかし、自分自身の中にそのような力が存在することに気づき、意図的にその力を使えるという人は多くないでしょう。
なんといっても、創造に取り組むことは苦しみ、不安、葛藤と向き合うことであり、できれば避けたいと思うのが普通です。よほどの動機がなければ飛び込もうとはしません。つまり、ネガティブ・ケイパビリティが発現するためには、それでもあえて苦しみや不安、葛藤と向き合う、という内なる動機が必要になるのです。
ネガティブ・ケイパビリティを高めるためのヒント
ネガティブ・ケイパビリティを高めるためにはどうしたらよいのでしょうか。過去の芸術家の事例をもとに考えてみましょう。
内なるビジョンを感じ続ける
ドイツの作曲家ブラームスが、先輩であるドイツオペラの巨匠ワーグナー(1813年-1883年)について語った言葉があります。
「ワーグナーは若い時から自分の進むべき道がわかっていた。それは彼だけが自覚していたことで、凡人には決して理解できない。つまり彼にとっては当たり前のことなのに、他の人からは何だか偉そうに見えてしまうんだよ」
ワーグナーの音楽はとても革新的だったので、当時は賛否両論の大センセーションを巻き起こしました。しかし、ワーグナーは自分だけに見えている道(ビジョン)に忠実であっただけだとブラームスは語っています。
ビジネスにおいても、自分たちの内なる思いやビジョンをつねに希求して、そこに向かっていこうとひたむきに努力することで、ネガティブ・ケイパビリティを発揮できるのです。
外の世界からの刺激にオープンになる
イタリア最大のオペラ作曲家であるジュゼッペ・ヴェルディ(1813年-1901年)は、イタリアオペラの巨匠として華々しいキャリアを築き、不動の地位を確立してきました。そして、彼は60歳を目前にして「アイーダ」という作品を書き上げます。
この作品は、それまでにヴェルディが培ってきたすべての技法を駆使して作られた、まさにヴェルディの集大成といえるすぐれた作品でした。
この作品を書き上げて以降、ヴェルディはオペラの作曲から遠ざかります。世間の人たちも、ヴェルディはすべてをやり遂げて隠遁生活に入ったのだろうと思っていました。
ところが、70歳を過ぎたヴェルディは突如として創作活動に復帰し、大傑作「オテロ」「ファルスタッフ」を作曲します。これらはドイツオペラの巨匠ワーグナーの作品を知ったことに刺激されて作った、それまでのいわゆるヴェルディ・スタイルとは一線を画した、新しい表現・技法によるオペラ作品でした。
ワーグナーの革新的な作品を知ったヴェルディは、10年もの歳月を悩み、苦しんで過ごしたそうです。しかし、そこから逃げずにネガティブ・ケイパビリティを発揮し、自身の新たな創作をめざして再起したのです。
このように、外からの刺激は、安定、安住状態の中で眠りかけた創造力を再び燃え上がらせることがあるのです。
自分自身を受容する
ネガティブ・ケイパビリティが発揮できない時、私たちは外の世界のモノサシや評価に振り回されている可能性があります。
ドイツの作曲家グスタフ・マーラー(1860年-1911年)は、生前は世界的な大指揮者として称賛されていましたが、作曲家としての一面は指揮活動の陰に隠れていました。当時としてはとても前衛的な作風であったため、作曲家としては評価されていなかったのです。
マーラーはそのことを残念に思いながらも、自分自身に対する信頼は決して失いませんでした。実際、彼は「やがて私の時代がくる」という予言めいた言葉も残しています。
マーラーの楽曲は死後、一度は忘れられましたが、1900年代の後半に世界的なブームが到来し、今では最も偉大な作曲家の一人と位置づけられています(まるで予言が成就したような恰好です)。
創造にまつわる不安や葛藤は、世間と自分自身のギャップなど、多分に世間を気にしすぎることから生まれます。そういう時は、自分らしさや自分の価値観、感性を信じるなど、自分自身を受容することで、不安や葛藤を超えていくことができます。
アーティストのように生き、アーティストのように働く
ここまで芸術と創造性という切り口から、これからのビジネスで求められる創造性を高めるためのヒントを考察してきました。
話は少々飛躍しますが、私はこれからのビジネスではアートの感性が必要だと思っています。さらに将来は、私たち一人ひとりが、自分の内なる源(ソース)を意識し、自分のビジョンを追い求めて自由に創造性を発揮する。そうしたあり方が既存の社会の限界や枠を超える力になっていくという、あたかも“アーティストのように生き、アーティストのように働く”時代がくるのではないかと思っています。
そういう時代を夢みるためにも、これから私たちが意識的に高めていきたい能力が、ネガティブ・ケイパビリティなのです。
ネガティブ・ケイパビリティを高めることで、私たちは社会のさまざまな問題や課題をより創造的に解くことができるようになります。そういう能力をたずさえることで、さまざまな立場の人たちと一緒に、よりよい社会をつくっていくことに大きく貢献できるのではないかと思っています。