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平明と流行

2024.10.09 03:16

https://tsukinami.exblog.jp/29200240/ 【平明と流行―山田弘子の俳句(1/5)】より

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   一 家族

 敗戦直後の昭和二十一年、仏文学者桑原武夫が雑誌『世界』に発表した評論の中で、俳句は老人や病人の消閑の具で、現代人が心魂を打ち込むに値せず、強いて芸術の名を要求するなら「第二芸術」と呼ぶべしと云いはなって、俳句界に静かな衝撃をあたえた。誰にも安易に生産されるジャンルであり、芸術品として脆弱であるという主張であった。

 たしかに、俳句はちっぽけな十七音の短詩にすぎない。おまけに、俳句にかぎらず芸術としての文学は、ほんらい、社会に有用なものではない。経済的にも道義的にも、実利実益から遠く切りはなされた、心の世界の遊び道具であろう。

 しかしながら、現に、社会における、人生における「俳句有用論」というものがある。短詩型ジャンルに属する文学は、すでに古代中世の和歌や連歌の時代から、哲学と恋愛と社交のために有用な装置であった。近世の俳諧においても、連衆と呼ばれる協同体が社会生活上、一定の役割を果たした。誰にも安易に生産されるがゆえに、俳句は大変有用な文芸なのである。

 成長期にある少年少女も、職業を持つ青年壮年も、子どもを養育することに専念する若い女性も、退職後の老人も、子育てを終えた主婦も、日常の「俳句づくり」をとおして他者、大きく云えば社会との関わりをひろげ、己が人生の意義を深めることができる。まなび始めの頃こそ単なる言葉遊びに過ぎないかもしれないが、数年たてば何らかのレベルの文芸に達し、季節をうたう五七五のポエムが、生きることの助けになってくる。これが社会、人生における「俳句有用論」である。

 初学者は身辺詠、家族詠から、門に入ればよい。その先に、果てのない文学、芸術の世界が広がっているのである。

 いわゆる台所俳句について、山田弘子は、句文集『空ふたつ』に収録された「厨」と題するエッセイで、〈女性俳句隆盛の原点はもちろん厨。かつて高濱虚子によって始められた女性の俳人を育てる為に誕生した「台所俳句」は、男性中心の世にあって画期的なことであったに違いない。そこからは長谷川かな女、竹下しづの女、杉田久女、星野立子、中村汀女などきら星のような女流俳句の先駆者たちが誕生した〉と、書いている。その系譜の先に、稲畑汀子や星野椿が、そして山田弘子もいる。

 自分の孫を句材とすることについては、自解句集『夜光杯』で〈孫俳句を否定する人もいるが、生きる歴史の中でこうした感動はしっかり残しておくべきだと思う。ただし私ごとをべたべた詠んではいけない〉と、述べている。実際彼女の句は、孫をあつかっても「孫」の語を用いず、自らを第三者あるいは母の立場において詠んでいる。

 弘子の身辺詠、家族詠の句をいくつか読んでみよう。

       ※

  ふる里は遠し夜店の螢買ふ

 第一句集『螢川』所収。昭和四十五年頃の夏。

 女性が結婚し転居し、だんだんと故郷から離れていく不安、淋しさがよく表れている。素直な句柄からわかるとおり、初学時代の作で、誰からも好感をもって迎えられたことであろう。

  主婦にある自由の時間秋灯下

 『螢川』所収。昭和四十五年秋。

 弘子俳句の原点となった句で、前書に「ホトトギス初入選」とある。転勤する夫につき従い広島市に移り住んだ弘子は、ある日、文化センターの俳句教室に入会する。子どもの頃親しんだ俳句を再び学んでみたいと思ったのである。通園バスから降りてきた幼い娘の手を引いて、そのまま遅刻しそうになりながら、毎回熱心に出席したと云う。

  両腕に戻り来し子の冷伝はる

 『螢川』所収。昭和四十八年冬。

 学校から、近くの公園から、あるいは塾から、帰ってきた子を懐に抱きとめたときの母の心情が、まことに温かい。上五の「両腕に」は、云えそうで云えない。

  魂送りして来し母の足濡れて

 『螢川』所収。昭和四十九年秋。

「霊(魂)送」は盆の行事で、七月十三日家に迎えた先祖の霊を十六日の夜、門前で苧殻を焚いて送る。弘子が生まれ育った兵庫県の和田山では、十六日早朝、桟俵の上に供え物をのせ、花と線香を携えて円山川まで歩いて行き、仏を流した。戻ってきた母の細い脚は朝露に濡れていた。

  勉強部屋覗くつもりの梨を剝く

 『螢川』所収。昭和五十一年秋。

 長男が関西の私立中学に入学すると、夫だけを広島に残し、二人の子を連れて大阪の千里ニュータウンにある自宅へ帰った。この句の時点で長男は高一、長女は小六である。弘子はエッセイで〈その頃は結構教育ママに徹したものだ〉と述懐している。

  友達のやうな夫婦や玉子酒

 『螢川』所収。昭和五十一年冬。

 夫は高校の同級生で、当初ほとんど交際がなく、卒業後の文通から親しくなったとエッセイに書いているが、弘子の照れ隠しかもしれない。昭和新世代の夫婦像である。

  七人の敵ある夫に寒卵

 第二句集『こぶし坂』所収。昭和五十九年冬。

 男は敷居をまたげば七人の敵がある。かつての日本でそんなふうに云った。伴侶のために栄養価の高い食事を用意する。良い妻、良い句である。ただし、外へ出て働く女性の増えた昨今、この生活感覚は理解されにくいかもしれない。

  われもまた厨俳人大根煮る

 『こぶし坂』所収。昭和六十三年冬。

 「厨俳人」も死語となった。厨と呼べる台所じたい、古い民家でもなければ、お目にかかれない。それゆえ記憶に残したい言葉ではある。季題季語の的確な選択によって、庶民の暮らしが味わい深く染みでた。

  みな虚子のふところにあり花の雲

 第三句集『懐』所収。平成六年春。

 花は俳句最大の季題であり、「花の雲」は桜花爛漫、満開の花を棚びく雲に見立てた、やや古風な季題季語である。鎌倉の虚子忌で得たというこの句も、一種の家族詠であろう。高濱虚子は昭和三十四年に没したものの、いまなお「ホトトギス」という擬似家族を束ねる、強大な磁力を持った家父長に外ならないからである。

  どちらかといへば悪妻豆の飯

 『懐』所収。平成七年夏。

 「豆飯」はソラマメやグリンピースを炊き込んで、薄く塩味をつけたご飯。白と緑の対比が目に鮮やかで瑞々しい。平成七年は結社「円虹」船出の年で、おまけに一月発生した阪神・淡路大震災のショックも癒えないうちから、新結社の主宰として東奔西走せねばならず、もはや平凡な主婦には戻れない。ゆえに「悪妻」なのであろう。

  柏餅母の手窪の小さかり

 第四句集『春節』所収。平成九年夏。

 母への思慕、恩愛の深さが小さな手の窪みから溢れでた。この句の鑑賞には、自解句集から弘子の文章をそのまま引用したい。

〈毎年五月が近づくと、母は持ち山から柏の葉を大きな笊一杯摘み取り、丁寧に洗って広げ干す。また蓬を摘んできて茹で上げ、とんとんとすりこぎで叩いて細かくする。青い匂いが家中に漂う。端午の節句には一日台所の湯気の中で柏餅づくりに精を出す。小柄で小さな掌から生まれる柏餅を子供たちは待ち構えるのだ〉 

  兄さんがあの世から来て相撲草

 『春節』所収。平成九年秋。

 歳時記で「相撲取草」は春の季に分類される「菫」「パンジー」の傍題でもあるが、この句ではオオバコ(車前草)かオヒシバ(雄日芝)、メヒシバ(雌日芝)のことか。茎を絡めて互いに引っ張り合って切れるまで競い合う、子どもの遊びである。弘子には三人の兄と一人の妹があった。すぐ上の兄はこの句が詠まれる三年前、六十代半ばで亡くなっている。年齢が近いせいもあって、幼い頃大自然の中で妹を含めた三人でよく遊んだと云う。

  霜の夜は君が攫ひに来はせぬか

 第六句集『残心』所収。平成十三年冬。

 この年の秋、高校の同級生でもあった夫は大学のクラス会に出席していて突然倒れ、十日後、急性心筋梗塞であっけなく、さらわれるようにこの世を去った。六十七歳であった。冬が来ても、作者はまだ茫然としたままである。

  寒卵こつんとたつた一人の音

 遺句集『月の雛』所収。平成二十一年冬。

 寒中の卵は永く貯蔵でき、滋養に富むと云われる。弘子が好んで詠んだ句材でもある。冷たい台所で「こつんと」響いた音に、晩年の孤独を感じたものであろう。

       ※

 山田弘子は、昭和九年八月兵庫県北部の山間の町、和田山で生を享けた。

 母は、女子高等師範学校を出て小学校教員として働く、云わば地方在住のキャリアウーマンであったが、同時に、田舎の長男の嫁として厳しい舅姑に仕えねばならず、弘子が小学校に上がる頃から心臓の病で床に臥しがちであった。この病弱で痩身の母は、八十歳まで生き延び、〈この世であなた方とのご縁を頂いたことを心から感謝しています〉と云う遺書を残した。

 弘子は、地元の兵庫県立生野高等学校、京都北部の郡是製糸誠修学院をへて、兵庫県南部にある武庫川学院女子短期大学英文科を卒業したあと、いったん大阪で商社に就職し、昭和三十四年結婚して、一男一女をもうけた。結婚後は転勤する銀行員の夫に随い、大阪から広島、大阪、神戸、東京と転居をくり返し、昭和五十八年神戸に帰って、ようやく安住の地を得た。


https://tsukinami.exblog.jp/29200243/ 【平明と流行―山田弘子の俳句(2/5)】より

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   二 草木

 明治大正から昭和にかけて活躍した俳句作家で、偉大なオルガナイザーでもあった高濱虚子は、近代俳句界に「客観写生」「花鳥諷詠」という、二つの骨太の指導語をのこした。

 虚子の師で、近世「俳諧」を革新して近代「俳句」を興した正岡子規は、旧派宗匠たちの作品を小賢しい知識と陳腐な理屈にまみれた「月並俳句」と見なして排斥し、洋画技法からヒントを得た「写生」の語を文芸に援用しようとした。明治二十八年の『俳諧大要』を読むと、作句法に、空想によるものと写実によるものとがあるとした上で、〈写実の目的を以て天然の風光を探ること最も俳句に適せり〉と断じている。

 「ホトトギス」の高濱虚子は、当初「写生」を〈じつと物に眺め入ること〉と説明していたが、大正半ば頃から新たに「客観写生」論を唱えるようになる。『俳句への道』に収められた「客観写生(客観写生―主観―客観描写)」と題する俳話の中で、こんなふうに語っている。

〈俳句は客観写生に始まり、中頃は主観との交錯が色々あって、それからまた終いには客観描写に戻るという順序を履むのである〉

 これは実作者ならではの所信であろうが、初学者にはわかりづらい。一句の仕立て方を云っているのか、それとも、何年にもおよぶ俳句修業の工程を解き明かしたものだろうか。山田弘子は、小学館「週刊日本の歳時記」で〈見たままを写生して俳句をつくることを繰り返しているうちに、やがてその人の主観というものが滲んでくるようになるのである〉と書いている。

 俳句は短詩型文学とされる。文学は主観を表明するものである。ならば、人間社会や自然界のさまざまな現象を材料にしながら、「人間の内面」を描くのが文学としての俳句であろう。この前提があって初めて俳句における「客観写生」の理念も生きてくるのではないか。おのれの主観におぼれず、独りよがりに陥らず、冷静な第三者の観察眼をあわせ持つとき、生命、生活さらには人生の真実をも究明する、文学としての俳句を生み出せるのである。

 もう一つの指導語である「花鳥諷詠」は、昭和の初め頃から提唱され始めた。昭和三年『虚子句集』に自序として付された、講演筆記から引用する。

〈花鳥諷詠と申しますのは花鳥風月を諷詠するといふことで、一層細密に云へば、春夏秋冬四時の移り変りに依つて起る自然界の現象、並にそれに伴ふ人事界の現象を諷詠するの謂であります〉

 虚子は当初から、自然現象だけでなく人事を含めて、この言葉を用いている。それでも、たとえば水原秋櫻子などは、花鳥の標語だけが一人歩きすると生活を詠むことに無関心になりはせぬかと早い時期から懸念を示し、昭和五年第一句集『葛飾』において和歌の調べを生かした抒情美あふれる俳句を発表して、翌年「ホトトギス」を離脱している。

 俳句は「花鳥諷詠」詩である。そう唱えるとき、花鳥は花鳥風月の略であって、これは大自然を意味する。自然には四季の移り変りがあって、人間はその季節の変化あるいは輪廻との関わりの中で生きている。具体的な作句においては、和歌文学の長い歴史のなかで磨かれてきた季の詞すなわち「季題季語」を用いて、自然と生活とを描写することになる。

 こうしてみると、客観写生と花鳥諷詠の二つは、実作上あんがい容易ならざる指導語であって、それゆえ百年近く経っても議論の対象となるのであろう。自然を観察しつつ自己の内面を照射し、長い時間をかけてたゆまぬ修練に励むよう説いた、指導理念と云えようか。

 弘子の自然詠の句を鑑賞しよう。

       ※

  ふるさとは植ゑしばかりの田の色に

 『螢川』所収。昭和五十二年夏。

 昭和二十年八月、芦屋の家を空襲で焼失した高濱年尾一家が、兵庫県和田山町の近所へ疎開して来た。弘子は「ホトトギス」との強い縁のようなものを感じている。二十一年但馬地区の児童生徒向け文芸誌「草笛」が発行されると、小学六年生であった弘子も、俳句・短歌・詩などを投稿し始めた。当時は小学校長以下の教員など、但馬の地にホトトギス系の俳人が多かったと云う。

  六甲の風ぐせのまま辛夷咲く

 『こぶし坂』所収。昭和六十一年春。

 弘子の自宅は、神戸市街の東端に位置する東灘区の山の中腹にあった。冬には明石海峡からの冷たい西風が、市街地の背後にある六甲山系に当たって吹きおろす。いわゆる六甲颪である。春になれば、こんどは大阪平野のほうから東風が吹いてくる。季節の変化を「風ぐせ」の語がうまくとらえた。

  三白草二白のときを剪られけり

 『こぶし坂』所収。平成元年夏。

 ドクダミ科の「半夏生」「片白草」を中国名で「三白草」と云うらしい。夏になると、長楕円形の葉の表面に白い斑が浮く。句意は、上から二枚目までの葉が白くなったところで、茶席の床の間に飾るためか、早くも剪られてしまったというのであろう。観察、発見の面白さがうまく表現された。

  ひと時雨ふた時雨跡とどめずに

 現代俳句文庫『山田弘子句集』中の「『こぶし坂』以後」所収。平成元年冬。

 和歌の世界で愛誦された季の題と云えば、「時雨」であろうか。降り出したかと思うとやみ、止んだかと思うとまた降っている、冬の冷たい小雨である。途中の助詞を省略した「切れ」が、雨の止み間のごとき効果を演出した。

  午後三時酔芙蓉なほゑひもせすん

 「『こぶし坂』以後」所収。平成二年秋。

 芙蓉はハスの花の古名で、よく美人にたとえられるが、季題季語としての「芙蓉」は、その水芙蓉ではなく、アオイ科の落葉低木、木芙蓉のほうである。「酔芙蓉」は八重咲きの園芸種で、朝に白かった花弁が時の経過とともにピンク、さらに紅へと変色するため、このような面白い名を授けられた。

 稲畑汀子邸の句会で出句するや評判をとった快作で、作者自ら〈自分の殻を破った一句〉とする。その解題によれば〈秋も深まると太陽光線も弱くなって十分に染まらないのだな〉と思って〈何か憐れを覚えた〉ものらしい。注目すべきはやはり下の句であろう。いろは歌の一部引用であることを念押しするかのごとく四十八文字目の「ん」を付けて、六音の破調とした。句全体に切れ味の鋭さを求めただけとも云えようが、助動詞「ず」ならば打消し、「む(ん)」ならば意志をあらわすから、どうしても句意に迷いをのこす。あるいは「せず」と「せむ」との間で、揺れる心が表現されているのかもしれない。文法上の高下は別として、作者は白いまま染まらない酔芙蓉の花に思いを寄せているのである。発表後、掉尾の「ん」は誤植ではないか?という問合せもあったと聞く。当時「花鳥」主宰であった伊藤柏翠は、「ホトトギス」の可能性をおし広げる句と認めつつ、作る方も作る方なら採る方も採る方だと評した。

  馬追の髭の先まで野のひかり 

 『懐』所収。平成五年秋。

 「馬追」は緑色の体と長い触角が特徴的な昆虫で、鳴き声が馬追いの声に似てスイッチョンと聞こえるため、この名で呼ばれた。下五は、とても初心者に真似できまい。服部土芳『三冊子』によれば、芭蕉は〈物の見えたるひかり、いまだ心に消えざる中にいひとむべし〉と云った。

  木洩日の隙間を飛んできし草矢

 『懐』所収。平成六年夏。

 「草矢」は、薄や茅の葉を指に挟んで飛ばす、投げ矢遊びである。太い脈を矢の柄に見立て、両脇の葉を矢羽根の形に裂く。まったくお金のかからない子どもの遊具と云える。この句の頃、長男家の孫たちはアメリカで暮らしていたから、弘子自身の幼時の記憶かもしれない。

  しんしんと離島の蟬は草に鳴く

 第五句集『草蟬』所収。平成十一年夏。

 擬音語・擬声語・擬態語をオノマトペと云い、的確に用いれば俳句を面白くする。上五は擬声語ながら「深深(沈沈)」の文字を想起させて、不思議な韻律を生み出した。この蟬は、沖縄の本島以西に分布するクサゼミである。薄や茅の原あるいはサトウキビ畑などに棲息する、ごく小さな蟬で、ジージーと鳴くらしい。弘子は、鷹の渡りを見るため訪れた宮古諸島の伊良部島で、草むらで鳴くクサゼミを知った。

  蕗の薹みどり何枚着てゐるか

 『草蟬』所収。平成十二年春。

 フキはキク科の多年草で、霜や雪にも負けず立春を過ぎる頃、淡い緑色の花芽を出す。これがフキノトウで、花芽は幾重にも薄い苞に包まれている。「薹」とは、くくたち、また花軸を云い、もとの意味は「塔」であるらしい。酢味噌和えや汁の実にして香りごと食するが、作者は早春の色あいに注目した。

  凍蝶の紋にひとすぢ海の色

 『草蟬』所収。平成十二年冬。

 「凍蝶」「冬の蝶」はその語感から、晩秋過ぎてなお生き永らえている、弱弱しいイメージで捉えられることが多いと思う。句づくりとしてはそれでよいが、現実には立羽蝶、蜆蝶などの中に、強い生命力をもって成虫で越冬する種が存在する。

  君生きよ生きよと叩く鉦叩

 『残心』所収。平成十三年秋。

 「鉦叩」はコオロギ科の昆虫で、一センチに持たない小さな雄がちんちんと鳴くところから、この名がある。ときどき心臓の不調を訴えていた伴侶がある日突然倒れて、十日ほど入院しただけで没した。「生きよ」のリフレインが哀しく切ない。

  蛞蝓の月に啼く夜とてあらん

 『残心』所収。平成十五年夏。

 俗説で、ナメクジは啼くらしい。むろん現実のナメクジは啼かない。心の奥深くから孤愁を表出させた句であろう。

  花合歓の抱きこぼしたる港の灯

 『残心』所収。平成十五年夏。

 神戸は坂の多い町である。弘子の自宅は山の中腹にあって、途中の坂道から見下ろす景色、とりわけ光まばゆい街と港の夜景は、息をのむほどに美しい。坂道をおりて行くと、谿あいに大きなネムノキがあった。

  盛りとや言はん残菊とや言はん

 『残心』所収。平成十六年秋。

 晩秋、草木枯れ尽くした庭でひっそり咲き残る菊花は、まことに美しい。時期はずれ、役立たずの意で、俳諧味を醸し出すこともあろう。この句の場合、後者の味が濃いかもしれない。ならば、人事句としても面白い。

  散りたくて散りたくて冬桜かな

 『月の雛』所収。平成十七年春。

 朝桜、夕桜、夜桜、門桜、若桜、老桜、その他「桜花」の傍題、数知れず。「恋しくて恋しくて」も「死にたくて死にたくて」もあろうが、人の心のなかは、本当のところ誰にもわからない。冬桜は寂しさの象徴であろうか。

       ※

 山田弘子は、結婚後八年ほど経った昭和四十二年、自宅で小中学生相手のピアノ教室を開いた。翌年には転勤する夫に随って広島へ転居したので、ピアノ教室の経営は短い期間でしかなかった。

 その後は、転居した土地で、趣味にしていた手描染色の教室を開いた。この服飾やインテリアの布に染料で絵を描く「虹の会」の指導のため、平成七年俳句結社「円虹」を興して多忙を極めるようになる頃まで、およそ約二十年間、東京・神戸間を何度も往き来した。

 弘子は、早くから指導者の資質を備えていたようである。小学校教員であった母の後ろ姿を見て育ったせいかもしれない。


https://tsukinami.exblog.jp/29200245/ 【平明と流行―山田弘子の俳句(3/5)】より

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   三 流行

 伊賀蕉門の重鎮、服部土芳の秘伝書とされる『三冊子』のうち「赤さうし」の冒頭に、あまりに有名な俳論が配置されている。

〈師の風雅に、万代不易あり、一時の変化あり。この二つに究り、その本一つなり〉

 簡単に意訳すると、芭蕉の俳諧には永遠に変化しない確固たるものがあるけれど、模倣に終始すれば停滞、陳腐化してしまうのだから、大自然が千変万化するのと同じように、変化を恐れず誠の俳諧を求めなさい、と云うのである。

 『去来抄』では、これを〈蕉門に千歳不易の句、一時流行の句といふあり〉と表現している。

 同じ「赤さうし」で〈新しみは俳諧の花なり〉として、常に風雅の誠、ほんものの俳諧を求めて一歩前進するところから、新しい俳諧が生れるのだ、とも述べている。

 むろん、変化流行の風に流されてしまってはいけない。かといって、古い俳句に立ち止まっていてもいけない。常に新しい変化「流行」を追求しなければ、生きた文学として成立しなくなるのである。

       ※

  入梅を告ぐオムレツの黄なる朝

 『螢川』所収。昭和五十年夏。

 暦の上で立春から百三十五日目、近年の数え方で百二十七日目を入梅とするが、現実の梅雨入りは年によって異なるため、季題としての「入梅」は梅雨の初めを云う。入梅とオムレツの取合せは、機知と言語表現の豊かさを感じさせる。弘子俳句は、特に初期の頃、しばしば「感性」の語で評された。曰く、豊かな感性、鋭い感性、女性らしい感性、都会的な感性。たとえば、第一句集に寄せた序文で稲畑汀子は〈都会的なものと田園的なものとの融和であり、ナイーヴな感性と、感性に溺れない知性との不思議な融和である〉と解説している。

  マスクしてものを一直線に見る

 『螢川』所収。昭和五十九年冬。

 すこし古い歳時記を見ると、病人でもないのにマスクをして外を歩いているのは日本人くらいのものだ、と書いてあった。しかし近頃は、花粉だけでなく微細な煤煙のせいで、マスク姿の人が経済発展著しいアジアの国国でずいぶん増えているらしい。この句の主人公は、少し古い時代のマスク人間であろう。一直線にものを見る挑戦的な態度に、自ら酔い痴れている。

  鳥帰る空の一角伸びてゆく

 『こぶし坂』所収。昭和六十年春。

 雁、鴨、鶴など日本で越冬した鳥が、春になって北へ帰ることを「鳥帰る」と云う。鴫や千鳥のように、夏から秋にかけて日本を通過して南下し、春にまた北方へ渡ってゆく旅鳥もいる。やや比喩的に「鳥雲に(入る)」の季題季語を用いることもある。本句はいわゆる客観写生でありながら、観念的な表現法が採用されている。長い飛行距離と苦難の旅路を「伸びてゆく」と表現して、実に巧みである。

  モンローの手型に落としたる嚔(くさめ)

 自解句集『夜光杯』所収。昭和六十三年冬。

 この年の暮れ、「ホトトギス」の稲畑汀子主宰らとアメリカアリゾナ・西海岸へ出かけた。ハリウッドの映画館で、敷石にはめ込まれた映画スターの手型や靴型を見たときの即興句である。セックス・シンボルとも云われた女優マリリン・モンローと、くしゃみとの取合せの落差が、なんとも云えず可笑しい。

  猫の恋巴里の月下でありにけり

 『懐』所収。平成三年春。

 第三句集中「イスタンブール行 六句」と詞書のある一句目である。弘子は平成二年暮れから翌年初めにかけて、稲畑汀子ら約三十名の俳仲間とともに、トルコ・イスタンブールを訪ねた。〈八日間イスタンブールのみに絞った旅程〉で、〈イスタンブール滞在丸五日間〉であったと、エッセイに書いている。つまり、実際パリの月下で詠んだ句ではないらしい。イスタンブールはヨーロッパ大陸とアジア大陸との接点と云うそうだから、パリを連想させる街区か宮殿があって、そこを散策したのであろう。「猫の恋」と「巴里の月下」の取合せがなんとも小粋で、楽しい一句である。

  チューリップ月に傾き眠る街

 『懐』所収。平成五年春。

 句集中「ドイツ・ミュンヘン 十句」の二句目。日独俳句交流ゼミナールの旅である。弘子はこの年以降、日本伝統俳句協会の一員として幾度かミュンヘンを訪ねており、現地大学の公開講座で講演したこともある。チューリップは、夜になると花を閉じる。気温の変化で花弁の内側と外側の細胞の伸張率が異なるせいで、開閉運動を起こすものらしい。これを「月に傾き」と詠んだ感覚が繊細である。花の色は赤か白か黄か桃か、それとも黒紫か。だれかに尋ねてみてもたのしい。

  まだ踊り足らざる手足なりしかな

 『懐』所収。平成五年秋。

 徳島の阿波踊に取材した句である。詠嘆の切字「かな」からは、祭りあとの興奮や身体の疲労までもが伝わってくる。昭和五十五年「ホトトギス」一千号発行を記念して踊りの連を組むことになり、弘子もお揃いの踊浴衣に身をつつんで参加した。以降、ホトトギス連は平成十年頃まで続いた。

  円虹をもて六甲の春意とす

 『懐』所収。平成六年春。

 のどやかな春の気分、情感を「春意」と呼ぶ。「円虹」の語は、高山の頂で日の出か日の入りのとき見ることのできる、御来迎のことを云うかと思われるが、掲句では、吟行の折に見た、太陽の周囲にかかった虹の輪のことである。翌年創刊する俳誌「円虹」の名は、この句から採った。

  鶏頭の赤が最も暗き庭

 『懐』所収。平成六年秋。

 「鶏頭」は句会の席題であった。昭和五十三年母が亡くなった日の庭に、鶏頭の赤い花が咲いていた。たしかに鶏頭を仏花に用いることは多い。赤は血の色であり、情念の象徴でもある。明るい庭に咲いた、明るい花が、作者には最も暗く見えたのである。鶏頭の濃い赤は、どこかに暗部を抱え込んでいるようで、冷徹な観察の眼が感じられる。明るい庭先から淀んだ暗みへ、読み手の心を沈みこませるような作品である。

  みづうみに触れんばかりの焚火かな

 『懐』所収。平成六年冬。

 美しい叙景句であり、抒情句である。琵琶湖あたりの旅吟かもしれないが、どこかの湖畔のキャンプ・ファイアと読みたい。触れあうのは湖水と焚火ばかりでなく、火影ゆらめく男女の肩と肩も、触れあっている。

  放心をくるむ毛布の一枚に

 『懐』所収。平成七年冬。

 平成七年一月七日の未明、神戸・阪神間・淡路島北部一帯を震度七の大地震が襲った。古い木造家屋はばらばらに倒壊し、鉄筋コンクリートのビルも膝が崩れるように一階がぺしゃんこに押し潰されて全体が傾き、住宅密集地から発生した幾つもの火炎は人も家も焼き尽くし、街は真っ黒な焦土と化した。直接の死者だけで六千名を数えた。現実に、一枚の毛布しか持たない被災者もいたのである。弘子の自宅は神戸の山の中腹にあって、直接の被害は小さかったが、それでも、電気・水道・ガス・電車・バスといったライフラインが幾日も遮断されてしまった。

  倒壊の屋根を歩めり寒烏

 『懐』所収。平成七年冬。

 句集中、前書に「阪神大震災 五句」とある一句目が先の放心の句で、この寒烏の句は第二句に置かれている。一見ユーモラスな姿ながら、現実には屋根瓦の下に救出を待つ人(死体)が埋まっているかもしれないという、恐ろしい状況詩なのである。当時、山田弘子にかぎらず関西の俳人たちは、震災を詠むことにためらいを感じていた。

  標的は吾かも鷹の急降下

 『草蟬』所収。平成十一年冬。

 前書に「宮古島 二十六句」とある。見上げている人たちの緊張感が伝わってくる。

  芋虫に神はこよなき色賜ふ

 『草蟬』所収。平成十二年秋。

 蝶や蛾の幼虫でありながら、毛のない容姿と奇妙な動きのせいか、「芋虫」は気持ち悪がられることが多い。野菜の葉を食い尽くすので、悪魔の如く罵られることもある。そんな小さな動物に、神は「こよなき色」を与えたと云う。芋虫はたいてい緑色で、褐色や黒色のものもいる。作者はいつまでも、葉の上でうごめく、小さな虫を見つめている。

  蛞蝓の昨日を歩きゐるやうな

 『残心』所収。平成十六年夏。

 近頃では溝が清潔になったし、台所も南向きに設計されてシステム化され、ほとんどナメクジの姿を見かけなくなった。なんだか淋しいような気もする。子どもの頃ぬめぬめしたナメクジの体に、塩をかけて遊んだものである。ナメクジの動きをじっと見ていると、たしかに昨日を歩いている。弘子は「蛞蝓」を好んで詠んだ。懐かしい故郷と、病弱な母のことを思い出したのかもしれない。

  蓑虫の子に紅絹着せむ藍着せむ

 『月の雛』所収。平成十八年秋。

 「紅絹」はキク科のベニバナで染めた絹糸で、「もみ」と読ませる。「藍」はタデ科のアイで染めた色糸を云うのであろう。弘子は染色画の先生でもあった。

  苦瓜の棚くぐり入るバー奈々子

 『月の雛』所収。平成十九年秋。

 苦瓜は主として観賞用の植物であったが、近年では沖縄料理の食材として好まれ、蔓が真夏の日除けに利用されたりもする。この句の「苦瓜の棚」はどちらであろうか。バーの扉を開けてカウンターに座ったとたん、刻んで油炒めした苦瓜の小鉢を、突出しで出されそうな気がする。伝統俳句の枠に収まりきらない下五によって、遊び心のある挨拶句が生まれた。

  夕焼がきりんの首を降りて来る

 『月の雛』所収。平成二十一年夏。

 夕焼け空ときりんの長い首を取り合せた俳句なら、過去にいくつか詠まれたのではあるまいか。アフリカ草原の映像で、そんなショットを見かけた気もする。しかし、この句では、夕焼が「首を降りてくる」のである。釣瓶落しと云えば、秋の日の暮れやすいことの意であるが、きりんの首を滑り台よろしく降りてくる夕焼は、なんとも愉快なメルヘンである。それでいて、少しもの悲しい。

       ※

 山田弘子は、昭和四十五年頃から転居先の広島で、俳句を学び始める。「芽柳句会」指導者の内田柳影は、「ホトトギス」同人であり、「雨月」の同人でもあった。この指導者の影響で、大橋櫻坡子主宰の「雨月」に所属し、高濱年尾率いる「ホトトギス」にも投句し始めた。

 四十八年大阪にもどると、山内山彦ら「雨月」会員たちとの交流を深める一方、「ホトトギス」の稲畑汀子らの近くで研鑽を積むことになる。

 また、但馬に住む実兄が「木兎」主宰京極杞陽の門下であった縁で、梅田の太融寺で開かれる大阪木兎会の月例会にも参加するようになった。豊岡藩京極家の第十四代当主にあたる杞陽の選は、厳しさに定評があった。弘子の高い詩精神や郷土愛、虚子崇拝などは、この杞陽から大きく影響を受けたものであろう。後年、弘子は京極杞陽精選句集を編んでいる。


https://tsukinami.exblog.jp/29200249/ 【平明と流行―山田弘子の俳句(4/5)】より

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   四 平明

 「平明にして余韻ある俳句」を標榜する態度は、もともと、明治末期に河東碧梧桐らが展開した新傾向俳句の運動に対抗して、その難解さを攻撃目標に据えるため、高濱虚子が用いた指導理念とされる。

 江戸時代初期の連歌師松永貞徳は、俗語すなわち「平明」な日常語を使って、ごく一部の文化人、知識人の教養から一般庶民の文芸へと、俳諧の世界を拡大させた。その弟子である北村季吟は、晩年、歌学方として幕府に召される教養豊かな学者であったが、伊賀上野時代の松尾宗房、のちの芭蕉が、その季吟から貞門の俳諧を学んでいる。

 芭蕉と云えば、服部土芳の『三冊子』に、〈俳諧は三尺の童にさせよ〉という有名な言葉がある。初心を忘れず、純真な心で、素直な句を詠みなさいと諭しているのであろう。一方、向井去来の『去来抄』には、〈句調(ととの)はずんば舌頭(ぜっとう)に千転せよ〉の言葉が遺されている。うたの調べをおろそかにしてはいけないと云う、芭蕉の教えであろう。

 小学館「週刊日本の歳時記」の連載で、これらの言葉を引用しながら、弘子は〈俳句というのは難しい言葉を用いたり、まわりくどい表現をする必要はまったくない。じつは、平明で余韻のある句というのがもっとも難しいのだ、と承知しておきたい。平明な句とは「日本語」のもつ柔らかさ、深さを大切にした句ということである〉と、書いている。

 初学者向けの指導であろうが、やたらと読みにくい漢字や意味不明の古語を用いたがる、現代の多くの俳句作家に読み聞かせたい言葉ではある。古典の知識・教養だけでなく、大衆性もまた芸術(文学)に欠かせない要件の一つなのである。

 なお、平明な句をつくるため、助詞を工夫することも大切であるが、文法は実際の添削指導の場で語られるべきテーマであろう。代わって「口語調」に触れておきたい。江戸の小林一茶や大正昭和の種田山頭火を引き合いに出すまでもない。句文集『空ふたつ』に収められた「口語俳句」と題する文で、弘子はこう述べている。 

〈俳句という短詩形には、文語体のもつ切字や簡潔な省略がとても有効な手段だ。俳句は制約の多い詩であるし、その制約があればこそ俳句という詩形は今日まで生き残ることが出来たと考えている〉〈俳句の基本は文語である〉

〈が、どうしても口語でなければ気持ちを表現出来ない場合がある。口をつくようにして生まれた俳句が結果として口語俳句になっているということである〉〈口語俳句によってこそ生きる俳句もまたたのしい〉

       

  パンジーのあなたの好きな色はどれ

 『螢川』所収。昭和五十一年春。

 初学の作と云うなかれ。若若しさ、女性らしさを前面に押し出した明るい句である。老いさらばえた爺や婆には、逆立ちしたってまさか詠めまい。後年話題になった俵万智の歌集『サラダ記念日』が発表される、十一年も前にうたわれた短詩句である。弘子もまた明るい性格の女性であった。このような口語俳句を採った、選者の懐の深さにも感心する。

  さよならは嫌ひなことば桜餅

 「『こぶし坂』以後」所収。平成二年春。

 春の季題になぜか餅が多い。草餅、蓬餅、蕨餅、鶯餅、椿餅など。春を迎えた歓び、開放感を庶民なりに食べ物で表現しようとしたものか。ひと恋しい心情が強い口調で吐き出され、あとを受けた「桜餅」は、つつみ込むように優しい。

  物拾ふとき著膨れてをりにけり

 『懐』所収。平成三年冬。

 動作が緩慢になって、おかしいなと思うことがある。加齢のせいかと思ったりもする。そんなとき、ああ、外出で着ぶくれていたんだわと気づいたのであろう。上品な笑いが愉しい。

  ビールなら頂くワイン駄目だけど

 「『こぶし坂』以後」所収。平成四年夏。

 この頃の弘子の句に、ビールなどの酒に材をとったものが多い。女性にとっては一種の偽悪的態度かもしれない。否、そんな鑑賞法はすでに古臭いのかもしれない。居酒屋でメニュー表を手にした女性グループが、騒がしく片っ端からアルコール類を注文している。そんな会話の一片を切り取った作であろう。

  わが窓の下に花火の空ふたつ

 「『こぶし坂』以後」所収。平成四年夏。

 美しい状景ながら、句意が今一つ判然としない。空二つとは、書斎の南窓に映った空と、実際の大阪湾の上空、二つの空の意味であろうか。それとも、書斎(仕事部屋)が三階にあったというから、階下の二つの窓に揚花火の空が映っている様子であろうか、と考え迷ってしまった。実は、この年八月一日の夜、西の神戸港と東の大阪富田林とで、大きな花火大会が同時開催されている。窓の下に空があるというのは、自宅が山の中腹の高台にあったから。

  いくらでも雨を抱けさう箒草

 『春節』所収。平成八年夏。

 弘子お気に入りの一句である。吟行に出かけた寺院の庭に、細い血管のような幹を持つホウキグサ(帚木、ハハキグサとも)が、等間隔で並んでいた。細く柔らかな淡い緑色の葉に、梅雨の名残りの細やかな雨が降りそそぐ。いくらでも雨を抱きとめてくれそうな、そんな緑の真綿が優しい。

  新涼やさらりと人をかはしもす

 『春節』所収。平成九年秋。

 「涼し」が、夏の暑さのなか木蔭のそよ風や水の音や扇の風からわずかに感じとれる涼気を云うのに対し、「新涼」は、秋の訪れ、季節の変化を表現する季の詞である。弘子は自解句集『夜光杯』において、この句の「新涼」を〈メンタルなとらえ方をしたもの〉と説明し、〈季題の既成概念に囚われず、それを押し広げていくということを私は努めている〉と作句上の信念を語っている。

  ちやんちやんこなどは一生着るものか

 『草蟬』所収。平成十一年冬。

 袖なしの綿入れ。それにしても、還暦祝いの赤いちゃんちゃんこを着る風習くらい、訳のわからないものはない。六十歳で世間並みの寿命を越えたら子どもに還るのだ、と聞かされてもどうにも納得できない。こういう句は、口語調でしか詠めないものである。

  遺言のやうにもの言ふ人の秋

 『草蟬』所収。平成十一年秋。

 遺言のようにものを云われても困るわという、作者の呟きであろう。相手は大病をした人かもしれないが、ふだんから遺言めいた云い回しを好む人もいる。「秋」の取合せは、芭蕉の「物いへば唇寒し秋の風」からの連想であろうか。余計なことは、云わぬが花。

  人間は忙しさうよ穴惑

 『草蟬』所収。平成十一年秋。

 秋の彼岸を過ぎて、いまだ冬眠の穴に入らず、あたりをうろうろしている蛇が穴惑である。風流と云えば風流であるが、人間サマだって年中忙しく働いて、穴惑のようなものじゃないか。結社の主宰として北海道から沖縄の宮古島まで、さらには、シルクロード敦煌、アメリカ西海岸、トルコ・イスタンブール、ドイツ・ミュンヘンなどの海外へと、常に動き回っていなければならない俳人生活を自嘲した句であろうか。

  人参は嫌ひ赤毛のアンが好き

 『草蟬』所収。平成十一年冬。

 児童文学『赤毛のアン』の少女アン・シャーリーは孤児で、赤い髪をニンジンとからかわれた。一方、『にんじん』の主人公フランソワ・ルピック少年は幼少期、家族から苛められてひどい扱いを受けた。文学好きの女性たちの会話を採録した句であろう。

  風呂吹をふうふう吹いてさびしけれ

 『残心』所収。平成十三年冬。

 大根や蕪を茹でて味噌をつけて食べる。寒い夜には、ことのほか懐かしい味がする。ふうふうと口を尖らせ、おいしいねと云ってから、ふとその場にもういない人のことを思い出したのである。下五が哀切である。

  氷紋の窓に鼻あてさやうなら

 『残心』所収。平成十四年冬。

 「氷紋」という季題季語は、とんと見かけない。俳句に詠まれることは少ないのではないか。しかし、この句の場合、氷の窓や凍て窓では、おさまりが悪かろう。主人公は電車に乗りこんだ孫か、吟行地で別れようとする俳友か。あんがい、作者自身の所作を詠んだ句かもしれない。窓の外の夜闇に向かって、下五の挨拶をささやいてみたのである。(後注)を参照のこと。

  京の底冷とはこんなものぢやない

 『残心』所収。平成十四年冬。

 「寒し」や「冷たし」より、はるかに厳しく、骨身にしみとおるような感覚が「底冷」である。京都や金沢のような盆地の古都に似合う季題季語と云えようか。京都吟行で、寒いわねと話しかけたとき、現地の俳人から返された台詞かもしれない。

  春眠の底まで逢ひに来たる人

 『月の雛』所収。平成十七年春。

 亡くなった人を想い偲ぶ。その人は、ときに親であり、伯叔父や伯叔母であり、恩師であり、幼馴染の友であり、夫でもあろう。しかし、どことなく恋句の匂いもする。

  居候らしく草取などもして

 『月の雛』所収。平成二十年夏。

 この頃、自宅兼発行所の改修工事のため、弘子は娘の家に居候していた。ことさらに草取りなどを持ち出したのは、むろん諧謔精神である。

  短日や電子レンジに忘れもの

 『月の雛』所収。平成二十一年冬。

 一年のうちもっとも昼の時間が短いのは冬至の日で、以降徐々に長くなってゆく。それでも一月いっぱいくらい「短日」を感じるものである。夕飯の仕度をしようと思って電子レンジの扉を開けたら、そこに昼の忘れ物を見つけた。滑稽句でありながら、老いを感じさせて、ちょっぴり哀しい。

       ※

 俳誌『円虹』発行所を兼ねた弘子の家は、海を見下ろす神戸六甲の山の中腹に開かれた新興住宅街の中にあって、途中の坂道に、谿に沿って約二十本ばかり辛夷の木が並んでいた。弘子はこの純白の花をこよなく愛し、春が来ると毎年のように句に詠み、エッセイに書きとめた。また、その「こぶし坂」から近く谿あいにあった大きな合歓の木も、彼女の愛する句材であった。

 平成十一年以降、弘子は年二、三回のペースで沖縄の南の島、宮古島を訪問している。島の俳人たちと交流し、子どもたちに俳句作りを指導して、俳誌『円虹』に宮古島子どもページを設けた。但馬地方の山間部で生まれ育った弘子にとって、南海の島の子どもたちが詠む平明な句は懐かしく、限りない可能性を秘めた文芸と思えたのである。

(後注)季語「氷紋」は「氷」の傍題。ホトトギスの歳時記にも記載がある。

(つづく)


https://tsukinami.exblog.jp/29200258/ 【平明と流行―山田弘子の俳句(5/5)】より

(「平明と流行―山田弘子の俳句」は、第十六回「山本健吉評論賞」奨励賞作品。国光六四三著『私の俳句入門』文學の森(二〇一六)に収録。)

   五 伝統

 文学作品で用いられる言葉が、先行する古典や古い時代の社会生活から引き継がれてきたものであるとき、その言葉に伴う約束事を「本意」と書き表わして、ふつう「ほい」と発音する。本情とも云う。歴史的な背景を持った言葉から生まれる情念、印象こそが、文学用語としての本当の意味、本質だと云うのである。

 この本意からはずれた句を詠むと、たいてい失敗する。早い話、花咲く春は麗かでなければならず、紅葉散る秋は寂しくなければならない、と云うが如きである。ことに伝統俳句の世界において、季題の本意は大切なものとされている。

 ただし、伝統を伝統たらしめるためには、矛盾して聞こえるかもしれないが、平明と流行を忘れてはならない。難解な雅語にこだわるだけではいけないし、古人の模倣に堕してもいけない。正岡子規の云った「月並」に陥る。やさしい言葉づかいで、季題季語の本意に新たな光をあて、芭蕉の確立した俳句の枠をうんと押し拡げたい。

 江戸中期すでにこの難問に挑んだ俳人がいる。与謝蕪村である。一流の画家で、芭蕉に憧れた蕪村は、絵画のような、物語のような、抒情的、浪漫的、幻想的、写実的で、滑稽で、ときに生活臭のある句さえ、詠みきった天才であった。だから子規は、直観的に蕪村を高く評価したのであろう。現代俳人山田弘子もまた、〈読初や蕪村びいきに傾きつ〉(『残心』)と詠んで、蕪村に憧れた一人に違いない。

       ※

  去に急ぐ頃より祗園囃子急

 『螢川』所収。昭和四十九年夏。

 祇園祭は、京都東山の八坂神社の祭礼で、日本三大祭りの一つ。七月十七日山鉾巡行と神幸祭でピークを迎える。上五は「いにいそぐ」と読むのであろう。大勢の人混みの中、帰りを急いでいるわけだから、宵山のとき詠まれた句かもしれない。七月に入ると早くも鉾立ての頃から、祗園囃子が賑やかにコンチキチンと奏でられ、京の町は祭り気分に包まれる。二つの「急」の文字が、雑踏のあわただしさを活写した。

  雪女郎の眉をもらひし程の月

 『螢川』所収。昭和五十七年冬。

 実際に雪原の妖怪、雪女郎の眉を見た人など誰もいない。それでいて、三日月のようなと云われたら、なるほどそうかと納得してしまう。確かな写生力に裏打ちされた、実に巧みな、見立ての一句である。

  鶴羽をひろげ朝かげ放ちけり

 『こぶし坂』所収。昭和六十三年冬。

 「ホトトギス」で初巻頭を飾った句である。伝統俳句の世界に、新たな個性の出現を告げたとされる。一読して上五に違和感を覚えるかもしれないが、「鶴」の後に主格の助詞が省略されている。作者らは長崎から天草を経て、鹿児島の出水を訪ね、八千羽もの鶴の大群舞を目撃した。日暮れ時、あちらこちらの森や林から甲高い鳴き声が湧き立ち、荒荒しい羽音を響かせながら、鶴の大群が餌田に舞い降りるさまは、おそろしくさえ思えた。

  大文字に京の方角定まりぬ

 『こぶし坂』所収。昭和六十三年秋。

 屏風絵か歴史絵巻を見るような風格のある大作である。八月十六日の宵、京都東山にある如意ケ岳の西峰、大文字山の中腹で、大の字の形をした盆の送り火が焚かれる。京洛の人々は鴨川にかかる橋の上から、あるいは自宅の二階からこの火を見物する。この夜は、他の山でも妙法、船形、左大文字、鳥居形といった送り火が焚かれ、古都に盂蘭盆の終わりが告げられるのである。

  叡山の鋭角となる舟遊

 「『こぶし坂』以後」所収。平成三年夏。

 琵琶湖畔、草津の烏丸半島に蓮の群生地がある。俳諧の祖とされる山崎宗鑑の生誕地はこのあたりらしい。弘子ら一行は近江路に遊んで琵琶湖の古式漁法を見学し料理に舌鼓を打った。舟が進むほどに比叡山の姿は変化し、やがて鋭角に見えた。エイの音の繰り返しが、ゆったりとした時の流れを表現する。

  初刷の一書しづかに日の机

 『懐』所収。平成七年新年。

 「初刷の一書」とは、伝統俳句の新天地を開拓するべく、自ら主宰となって結成したばかりの結社が発行する、俳誌「円虹」の創刊号である。年初の静謐な厳粛さのなかに、歓喜の心情が溢れでた。むろん、直後に阪神・淡路大震災が発生することなど、このとき作者は知る由もない。

  除夜の鐘僧の反り身を月光に

 『春節』所収。平成七年冬。

 絵画のごとく美しい円熟の一句。格調の高さに脱帽するほかない。大震災を体験した年の大晦日、弘子は友を誘うことなく、一人で高野山に詣でた。龍光院から奥の明神まで大松明とともに運ばれる御幣納めの行事を見ることと、大震災で犠牲になった多くの霊魂を密かに弔うことが、目的であった。

  蒼海へ鷹を放ちし神の島

 『草蟬』所収。平成十一年(鷹渡)秋。

 宮古諸島は、秋に何万と云う鷹が南下する中継地である。沖縄の那覇から宮古島の本島まで飛行機で四十五分、さらに十五分連絡船に乗ると、大神島に着く。人口数十人だけの小さな離島で、ユタと呼ばれるシャーマンすなわち神の使いをする女性の住む、神聖な島である。全体が小高い山になっており、頂上から真っ青な海に向かって、美しく厳かにたくさんの鷹が悠然と舞っていた。この句を刻んだ石碑は、いま宮古島の公園内に設置されている。

  みよし野の花の残心辿らばや

 『残心』所収。平成十四年春。

 関西在住の俳人にとって、否、ほとんどの日本人にとって、奈良の吉野山は和の心の聖地である。皇子であった天武天皇が出家隠棲したとき詠んだ吉野の歌が万葉集に採られているし、鎌倉から討伐されかけた源義経と弁慶が駆けこんだのも吉野であるし、京都から逃れた後醍醐天皇が南朝をたてたのも吉野であった。むろん西行が庵を結んだ地であり、古今集、新古今集にもたびたび吉野の桜は登場する。「残心」は、武道や芸道の用語で、仕舞を迎えても気を抜かず、なお次の動きに備える心構えを云う。中七の「花の残心」を得た時点で、この句は成功している。そのうえ下五の和歌的表現であるから、おそろしく完成度が高い。

 半年前に夫と永別し傷心癒えぬ弘子は、自ら車のハンドルを握って吉野山での句会に参加し、この残花の句を投じた。

  鮟鱇のあんの唇かうの顎

 『残心』所収。平成十四年冬。

 鮟鱇は、海底深くに棲む硬骨魚である。体躯は扁平で大きく、口が広く、長い髭があって容貌怪奇。見ようによってはユーモラスな顔立ちで、鍋にすると美味である。作者の的確な観察眼と、思いきった表現の落差が面白い。あるいは、酔った者たちの掛け合いのルポルタージュかもしれない。

  手向けばや円山川の草摘みて

 『残心』所収。平成十五年春。

 円山川は兵庫県北部を流れる一級河川で、朝来市生野町の円山を源に北上し、豊岡市で日本海へとそそぐ。但馬出身の弘子にとっては故郷の代名詞とも云える。平成十五年二月、高濱年尾夫人の葬儀が東京で営まれた。敗戦直後、年尾一家が兵庫県の和田山町へ疎開したおり、小学生の弘子は、喜美(子)夫人とも出会っている。

  空蟬を机上に置けば飼ふごとし

 『月の雛』所収。平成十八年夏。

 「空蟬」は蟬の抜け殻で、古来、むなしいこと、はかないことのたとえに用いられた。和歌の枕詞になり、『源氏物語』の巻の名前になった。そんな空蟬を机上で飼うとは、如何なる寓意であろうか。作家として、また一人の女性としての、喜悦と虚無の象徴なのかもしれない。

  灯を消して月の雛としばらくを

 『月の雛』所収。平成十九年春。

 遺句集の表題となった作品である。電灯を消して、月光に照らされた雛飾りを眺めているとき、作者は一人であったか。家族や友人たちが立ち去ったあと、かすかな月明りの中、孤独の世界に沈んでいるのであろう。己が人生の曲折を振り返りながら、妖しく光る人形の横顔に、何ごとか語りかけている。

  眼の翡翠のこし蟷螂死にゆくか

 『月の雛』所収。平成十九年秋。

 ヒスイは翠緑色をした光沢のある宝石で、トウロウすなわちカマキリの複眼は、たしかに翡翠石に見える。近づくと、黒目のような小さな黒点があることに気づくが、これを偽瞳孔と云う。また、夜になれば眼全体が真っ黒に見えて、すこし気味がわるい。この句には、村上鬼城の〈冬蜂の死にどころなく歩きけり〉の句を髣髴とさせる、気高さと剛直さとがある。死にゆく蟷螂の眼は、滅びの美の象徴なのであろう。むろんそんな事実はないのだが、なにやら辞世の句の趣すら漂う。

  胸に棲む人と酌む酒十三夜

 『月の雛』所収。平成二十一年秋。

 陰暦九月十三日の月を「後の月」と云う。八月十五夜の頃より季節も進んで、夜はかなり冷えこむため、ものさびしさが深まる。弘子の亡き夫の命日もこの季節である。

  セーターの闇くぐる間に一決す

 『月の雛』所収。平成二十一年冬。

 最後の句集中、もっとも話題を呼んだ作品である。弘子代表句と云って差し支えなかろう。彼女は物事に拘泥しない、さっぱりとした性格であった。それでも心に闇を抱えることだってあったはず。セーターを脱ぎ着る日常の動作の一瞬に、いさぎよく何ごとかを決意した。

       ※

 山田弘子は、昭和五十五年俳句結社「ホトトギス」同人に推挙され、同六十二年「ホトトギス」を母体に日本伝統俳句協会が設立されるとこれに参加し、のち役員に就任する。平成三年には第二回日本伝統俳句協会賞を受賞した。この頃から、日本国内だけでなく、海外にまで俳句指導に出向くようになり、また、結社の枠にこだわらない横断的な俳壇活動にも、精力的に取り組んでゆく。

 平成七年、俳誌「円虹」を創刊し、主宰として立つ。同年一月阪神・淡路大震災が発生して周辺に甚大な被害を受けたが、影響を最小限に抑えるべく奔走し、結社を継続発展させる。

 誌友に対しては、有季定型と歴史的かなづかいを骨格とし、客観写生と花鳥諷詠のホトトギス系伝統理念にのっとりつつも、現代感覚を生かした新しい時代の俳句を求めた。自らは結社の主宰、教室の講師、各地イベントの選者などで多忙を極める日々をおくりながら、柔軟な発想と鋭い観察眼をもって自然と生活を見つめ、ときに女性らしいユーモアをまじえた軽やかな調べの中に、高い詩精神を模索しつづけた俳人と云えよう。

 平成十一年以降、神戸新聞文芸欄の俳句選者。平成十四年兵庫県文化賞受賞。平成十五年から二年間NHK俳壇の選者をつとめると、全国的な知名度が増した。平成十九年、大阪俳人クラブ会長に就任。平成二十年、第十九回日本伝統俳句協会賞受賞。

 平成二十二年二月、心不全により急逝。享年七十五歳。七つの句集といくつかの評論、随筆を遺した。

(了)

 《参考文献》

○山田弘子の句集

『螢川』東京美術(一九八四)、再刊・ウエップ俳句新書(二〇〇三)

『こぶし坂』東京四季出版(一九九〇)

『山田弘子句集』(現代俳句文庫10)ふらんす堂(一九九三)

『懐』富士見書房(一九九六)

『山田弘子』花神社(一九九九)

『春節』日本伝統俳句協会叢書32(二〇〇〇)

『草蟬』ふらんす堂(二〇〇三)

『残心』角川書店(二〇〇六)

『月の雛』ふらんす堂(二〇一〇)

『山田弘子全句集』ふらんす堂(二〇一四)

○山田弘子の句文集

『空ふたつ』蝸牛社(一九九七)

『夜光杯』(愛蔵文庫版自解句集13)梅里書房(二〇〇二)

○山田弘子の随筆

『草摘』角川SSC(二〇〇八)

○山田弘子の俳論

稲畑汀子編『俳句表現の方法』(俳句実作入門講座3)角川書店(一九九七)

山田弘子編・解説『京極杞陽句集 六の花』ふらんす堂文庫(一九九七)

宮津明彦・山田弘子共著『四季別俳句添削教室』角川学芸出版(二〇〇八)

連載「俳句を楽しむ」・「週刊日本の歳時記」小学館(二〇〇八~二〇〇九)

○その他主なもの

正岡子規『俳諧大要』岩波文庫(一九五五)

『連歌論集・能楽論集・俳論集』(日本古典文学全集51)小学館(一九七三)

夏石番矢編『俳句百年の問い』講談社学術文庫(一九九五)

高濱虚子『俳句への道』岩波文庫(一九九七)