手放した先に「あなたらしさ」があるのかも、しれません
Facebook加藤隆行さん投稿記事【自己防衛のクセ】
何年か前に映画を見ていてなんだかアタマの中がうるさいなと思って気がついたのですが
ボクは、画面に俳優さんが出てくるとその俳優さんの名前をアタマの中でいちいち復唱してるんです。
たとえば長澤まさみさんが画面に出てくると「長澤まさみ」とアタマの中で何度もつぶやく。
で、なんでこんなことやってるかと言うと、名前を忘れないようにするためなんです。
ボクは人の名前を 覚えるのがすごく苦手で 顔は覚えてるんだけど名前が全然でてこない。
結構身近な人の名前も 何度も会った人の名前もすぐ忘れるし、思い出せない。
今で言えば発達系(ASD)のものなのだと思います。
これが学校や集団の中で生活するようになるにつれて大変困りごとになってきた。
名前と顔の一致なんてフツーの人なら息を吸うかのようにできることなのだと思うけど
クラスメートの名前も先生の名前も同僚の名前も、上司の名前も部下の名前も顧客の名前もなかなか覚えられない。ていうか忘れる。
親しいのに忘れたりするとあまりにも失礼だし仕事だと特にトラブルにもなったりしかねない。だから英単語帳を覚えるみたく顔と名前を何度も何度も何度もつなぎ合わせる練習をする。それが名前の復唱。
これが不器用な自分が社会の中で必死に生きるために作り上げてきた生存戦略。
いちいち脳内で名前の漢字の文字ビジュアルを思い浮かべてからそれを読み上げる、ということをしている。脳の作りがビジュアル系なんだよね(笑 音で覚えられない。
で、何年か前に映画を観ているときに それを無意識にやっていることに気がつき、愕然として、「よくやってきたな」「よく頑張ってきたな」「もういいよ」「もう名前なんて覚えなくていいよ」と映画館の暗闇の中で自分に伝えてあげた。
必死に社会に適用しようとしている自分をもうゆるしてあげた。ちょっと涙も出た。
そっから人の名前を覚えるのをやめました。すぐに忘れてしまいまあちょっと困ることもあるのだけどそれでいいことにしました。
そしたら本当に必要な人の名前だけは絶対に忘れないことがわかった。
だからボクにはそれでいいのだと思った。それがボクが生きるに必要な人間関係で、自分はそういう生き方でいいんだと もうムリするのをやめました。
先日『自分を「適材適所」に置く』
https://www.facebook.com/takayuki.kato.547/posts/pfbid02JXdzNqw2wQzF8KgHZbRpgdCM5DfoNZeqKyoMvDuNDiCpj885Zr6MZkZPYPohrEUel
という記事を書きました。ボクは大きな集団には向かない。
その特性を知ってそれに合わせて、小さな社会で必要な人とだけ生きることにしたことでラクに暮らせるようになりました。
そして逆に名前を覚えている人がボクに本当に必要な人だという選別フィルターになってくれているということにも気づきました。
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あなたが無意識にしているクセや習慣はありますか?
あなたが生きるために作り上げた生存戦略は、なんですか?
苦しいのなら シンドいのなら 不自然なのなら、もうそのクセ手放してもいいのかも、
しれませんよ。
手放した先に「あなたらしさ」があるのかも、しれません(^ω^
https://shutter-girl.jp/?p=26263 【自己模倣との戦い】より
私には、撮った写真の大半を見てくださる方が何名かいます。信頼できて、イエスマンではなく客観的な意見をくださる方に、世に出ているもの、セレクトしたものではなく、仕事・趣味・デジタル・フィルムで撮ったもののほとんどを、ときどき見てもらっています。写真を人に見せることが仕事だから、そうした方が良いかと思っています。
昨年末、そこである方に言われたことが忘れられません。
「あなたは自己模倣が始まっています」
話を聞いてみると、自己模倣というのは、ある程度個性の確立した人間に訪れるもので「私だったらこういうものが美しいと思うだろう」と思い込むことのことだそうです。大村祐里子だったら、こういうものが美しいと思うだろう、と思い込むこと。
「最近のあなたの写真は、平均的には良くなりましたが似たようなものばかりです。昔、あなたの写真からはどれを見ても新しさを感じました。だけど、近頃がそれがない。技術ではなく、視点が固まりすぎているように思います。美しいと感じるものを、自分自身で限定してしまっているように思います」
そう言われたとき物凄くショックでした。なぜなら、薄々感じていたことだったからです。
実は、2017年度は作品を2つつくり、コンテストのようなものに出したりもしていました。そのとき、審査員の方に「あなたが本当に心揺さぶられるものを撮ってください」とひとこと、言われたのです。
当時は言葉の意味がよくわからなかったのですが、自己模倣の話を聞いた瞬間、すべてが繋がりました。ああ、あれはそういう意味だったんだな……と。
私は現状を悟ったとき「そんな自分は絶対に嫌だ」と強く思いました。そんな自分は絶対に許せない!
すぐに「どうしたらこの状況から脱することができますか」と聞きました。
「脱する方法はあります。いまのあなたは忙しすぎます。見ていると、インプットが1、アウトプットが99くらいの割合で動いています。インプットの割合をもっと増やして、新しいものに触れる機会をつくってください。それだけです」
本当にその通りだなと思いました。2017年は本を読む時間もほとんど取れませんでした。そして撮影では、確実に自分らしい写真が撮れる場所や人を選んでしまう。その結果、同じようなものばかりが生まれる……。
そのような状況の中で、常に新しいものを生み出せる人もいます。若い頃は、自分もそうなんじゃないかと少し思っていました。だけど現実は全然違いました……。
「自己模倣というのは、ある程度写真を続けて個性が確立してきた人には、誰にでも訪れるものです。それに気がつかず永遠に同じような写真を撮り続ける人もいるし、気づいていながら抵抗するのを諦める人もいるし、全力でそれに抗う人もいます。どう対応するかはその人次第です。正解はありません」
「さらに、長く写真を続けていくと……自己模倣というのは一度きりではなく、写真人生の中で何度も何度も訪れてきます。巨匠は、何回も自己模倣期を経験していると思います」
私はこの話を聞いたときに……「自己模倣に負けたくない」と思いました。
だから、2018年は全力で「自己模倣」に抗っていきます。
積極的に、新しいものに触れます。
人生が進んでいくほど、まわりには、注意やアドバイスをしてくださる方が少なくなっていくように感じます。こうやって客観的に意見してくださる方が周りにいてくださることは、本当に幸せなことだと感謝しつつ、今年は自分と戦っていきたいと思います
https://a-117.biz/archives/222 【「守・破・離」というプロセスの重要性】より
私自身、実践のために、まだまだ学び続けている最中ですが、その際には「守・破・離」を意識しています。
きっちりした敬意を持って「守」に取り組まずに、「破」や「離」に行ってしまうと煮詰まりやすく独りよがりで天井が近くなります。
「守・破・離」(しゅ・は・り)とは・・・
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人・茶人であった千利休、織田信長・豊臣秀吉に仕えて”茶聖”とも呼ばれたそうですが、茶道千家流の始祖として、あまりにも有名ですね。
その千利休が詠んだ和歌に、「規矩作法 守りつくして 破るとも 離るるとても 本を忘るな」というものがあり、これが守・破・離の概念が広まる始まりであったと言われています。
茶道や華道などの習い事を体得して、進化させていくための過程として述べられています。
「規矩」(きく)とは「規範」の意味で、「本」とは「基本」の意味です。
または、およそ600年ほど前に能の世阿弥(ぜあみ)が説いた「風姿花伝」(「花伝書」ともいう)のなかで展開した芸能論の一部という説もあります。
能や歌舞伎などの稽古事で物事を学んで、芸・表現を身に付けていくための重要な成長ステップとして伝えられたそうです。
いずれにしても、モノゴトを身に着けていく際の最初のプロセスとして、現代でも重宝されています。
私は茶道や芸の業界に生きているわけではありませんが、様々な学びをしていく際に深く通じるものとして、肝要に捉えています。
「守」 ・・・
最初は、師の教えを清濁、併せ呑み、「型」を忠実に「体現」出来るように取得するステップ。
(例) 箸(はし)の持ち方。格闘技の型。自動車の運転の仕方など。
ここを徹底的にしっかりさせておかないと、自分自身にご都合の良い浅い解釈で考えて使ってしまうことにもなりかねません。
それと案外、この「清濁、併せ呑み」というのが曲者で、メンタルブロックを引き起こすこともあり、ブレーキ要因ともなることもあります。
教えてくれる人は、それが先生であれ師匠であれ、聖人君子ではありませんし、聖人君子を求めるものでもありません。
根幹の目的からブレないことが大切
【Q】 根幹の目的は、その場の自己満足を得たいことなのか?
【Q】 その場の自己満足ではなく、その先のビジョンやミッションのためではないのか?
【Q】 その先のもののためであれば、今、優先するのは目先の自己満足ではなく、どうすれば、もっとも効果的か、ということではないか?
【Q】 その目的は、なぜ向かおうとしたものか?
この、なぜ、Whyがあるのでしたら、そのことを優先して集中し続ける意識が肝要だと感じるところです。
その行動の先で、本当に求めるものは何か?に、心のなかでフォーカスするようにします。
「継続は力なり」とも言いますように、継続してこそ、初めて、その先で見えてくるものがあります。
そして、それらは頭で考えた理屈などを超えているものも多くあるのではないでしょうか?
「破」 ・・・
徹底した「守」で学んだ基本に自分なりの工夫を加え、自分にあった形で打破する段階。
「守」が甘いと、ここからのプロセスが単なる劣化版になるので、よくよく注意。
「離」 ・・・
離れていく。基本を中心に添えながら、形にとらわれず試行錯誤して見えてきた、自分独自の仕組みや体制を創りあげていく。
ここで「知っている」と「ワカル」は違いますし、よく言われるように「ワカル」と「デキル」も全く次元が違うということを、肝に命じるように心がけます。
まず模倣から入るのはモデリングとも言われ、大事なステップと言われます。
「学ぶは真似る」とも言われますね。
それはサルマネではなく、最低でも人まねレベルにまで引き上げなければ、現実には通用しません。
更に人まねレベルでも、その効果には、すぐに天井があります。
最初はわかっているようで、わかっていなかったりすることが、よくあると思います。
どこかで表面だけをなぞらっていては、どれだけ情報源があろうとも、時間・労力の浪費になりかねないこともあります。
・・・ 新しいことを始めるとき、サルマネになっていないか?という問いかけをします。
サルマネ、人真似を超えて、本当に伝わるオリジナルにまで引き上げられてこそ、自分自身のポテンシャルが投影されていくものとなると感じています。
ここを踏まえずに表面だけをなぞらって自己満足に走りますと、結局、期待する効果には程遠くなると予想されます。
そうして、目先、上手くいくように見えるものを新たに見かけると、つい、すがってしまうかもしれません。
結果、広く浅くは知っていても、実践の効果には結びつかない方も、巷(ちまた)には意外と多いと感じます。
知っている・学んだというだけの、まるで研究者のように知識をどれだけ持っているかを誇る話や自分に酔って、実際は効果がかなり低いというケースもあります。
お酒でもそうですが、あまりに酔っていたらフラフラ、自分の軸や足元がブレてしまいます。
このような繰り返しでは、仮にうまく行っているように見えても、瞬間最大風速、砂上の楼閣のようなものではないのだろうか?と思うところです。