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善立寺ホームページ 5分間法話 R⑮ R.6,10.10日更新

2024.10.10 11:58

地震・雷・火事・猛暑――今年の夏は過去の気象庁のデータをすっかり塗り替えてしまった過酷な猛暑、残暑の日々でした。10月も中旬を迎えて俄かに秋の深まりを感じる候となりましたね。寺の境内や山裾では例年より半月遅れて彼岸花が満開です。

 皆さんは、夏バテされることなくお元気でお過ごしでしょうか。

 冒頭の諺は、江戸時代の後期ころから流行った諺を今の時世に合わせて表現したものです。「地震・雷・火事・親父」――世の中で生じる突発的な災害の恐ろしさをわづか10文字で表した諺で知られていますが、平成年間は、「地震・雷・火事・女房」と、男性の影が薄くなって、妻の顔色を窺う男性を揶揄するような諺として流行りました。昔は、親父が威厳を持っていて、家族は、地雷を踏むようにしないといけないと怯えておられたのかも知れません。一方で、主人の威厳を重んじつつ本人のご自覚を促したいという家族の思いが、「親父」という語として入ったのかも知れないと思っています。雑学を付け足しますと、「火事」「親父」は、韻(いん)を踏むという表現、すなわち、「火事 か」「親父、おや」と、同じ響きの語を配置して、覚えやすく、しかもユニークにした表現であるとも感じています。

今回は、前回に続いて、東大医学部教授・矢作直樹先生の「ギフ・アンド・ギブ」についての続きを述べたいと思います。

「人生はギブ・アンド・ギブ 惜しみなく与え続けると 全く別のところから ギフトが届く」について、「全く別のところから」とは、どこからかをお考えになられましたでしょうか。そして、与え続ける人に、どんな「ギフト」が届くのかお考えいただきましたでしょうか。

 そのヒントは、「全く別の人」とは表現していないところです。つまり、与えた人でもなければその周辺の人でもないと思います。予期もしないところからなのです。

私が住んでいます「善立寺」は、1959年(昭和34年)の伊勢湾台風と、2004年(平成16年) の台風23号で近くを流れる出石川の堤防が決壊、大規模半壊の損害を受けました。伊勢湾台風被災のときは下流の堤防が決壊、小坂平野と呼ばれる広大な農地に川の水が流れ込みました。寺は決壊場所から遠く離れた場所にあったので、水位は徐々に上昇したので、幸い泥の被害からは免れました。しかし、本堂にも浸水、寺に避難されていたご近所の方々は逃げ場所がなくなり狼狽えておられました。幸い、消防団の船がいちはやく本堂に横付けされ、命拾いはされました。その被災時は妹が出石中学で生徒会の役員をしていたからでしょうか、数十人の生徒が自転車で復旧支援に駆けつけてくれました。まだ、世の中でボランティアという言葉がなかった時代でした。水に浸かった当時の藁で編まれた畳の重量はずごいもので、大人が6人で持たないと運べませんでした。百枚近い畳が短時間で運びだされたのでした。そのとき「数は力なり」ということを身に染みて感じました。

全国から救援物資がたくさん届けられました。とても有難く感じたのは、毛布や衣服バスタオル、そして缶詰がいっぱい届き驚きました。缶詰は想像を超えたギフト物資でした。箸さえあれば水も不要、煮炊きの手間も不要、すぐに食事が出来、食後の片付けも不要でした。被災にあったあと、私は被災地に支援に出かけるときや救援物資を送る際には、第一に缶詰を送るようにしています。伊勢湾台風から65年が経過、今は、缶詰の種類も豊富、自然解凍で食せる栄養ある冷凍食品も豊富です。救援物資を送られる際は、まず缶詰等をお薦めします。

1997年、島根沖でナホトカ号が座礁して大量の重油が山陰海岸に流れついたときは、多数の人たちに呼び掛けて重油の回収作業に携わりました。重油回収という作業は初体験で、最初に参加したときは一人参加でした。重油まみれになることは想定していて服装も長靴も破棄してよいものを準備して行きましたが、一人作業ではとうてい困難なことがわかりました。岩場や海の中から浜辺に置かれた回収容器のドラム缶まで運ぶ重油の重さは想定外でした。まるで鉄の塊でした。当時は高校に勤務していましたので、二度目からは職員仲間に呼びかけて参加しました。小型のバケツに重油を回収、リレー作業でドラム缶の中に入れ、効率が上がりました。まさに「数は力なり」でした。人を募って数人で行くことは大切なことです。

 二度の水害や阪神淡路震災ボランテイァ、重油回収ボランテイァで学んだことがいっぱいあります。23号被災のとき、いちはやく多数の男女の人たちが数台のジープに乗って支援に来てくださいました。一見して自衛隊員さんかと思われる服装の方々でした。災害が生じると、各地の支援に出かけているグループだと言われました。職業は電気屋さん大工さん看護師さんたちが含まれた仲間でした。建具を外す、床板をはがす、泥を搬出することなど実に手慣れておられました。目を見張る作業でした。男性の多くの方は、靴底に鋲がある靴を履いておられました。被災現場に行かれると、金属の破片やガラス、釘を踏む、滑って怪我をする危険もあるので当然なことでしょう。でも、意外なことを一つ学びました。それは、部屋の中から廊下に何かを運び出すとき、また、板張りの廊下を行き来するとき、板張りの洋間などには、その上には捨てる畳でも毛布でも板でもよいから敷くということが必要だということです。なぜかを詳細に記すと、批判に受け取られかねないので省略します。

重油回収作業のとき、最初は、私は手にピッタリのゴム手袋を準備していきました。ところが、休憩してお茶を飲みたいときやトイレに行くとき、重油まみれの手袋が滑って簡単に着脱ができないのです。これは想定外のことで難儀しました。重油の回収ボランティアなどに行かれる機会はもうないでしょうが、水害支援に行かれる際は、肱の辺りまでの、ゆったりしたサイズのゴム手袋をお薦めします。また、破棄してよい安物の合羽でよいですが、脇の下などに数か所穴を空けて身に付けると汗がこもらなくてよいと思います。

竹野海岸で重油回収作業に携わったときは、竹野町役場の計らいで、海辺の温泉の入浴券が配布されました。作業に出かけて、まさか温泉に入れるとは予想だにしなかったことで、思わぬところからの思わぬギフトにボランティアの人々は歓声をあげました。

 話が前後しますが、台風23号被災のとき、善立寺には、延べ人数550人の人たちが近畿各地から復旧活動に駆けつけてくださいました。大阪から支援にこられた方は、車の中で5日間も寝泊まりして作業に携わってくださいました。意気込みの強さに打たれました。

 姫路からこられた中年のご夫婦は、「ボランテイァ活動は、生まれて初めての取り組みです。私たちにも何かできることがあるのでしょうか。足手まといになるのではないかと危ぶみながら来たのですか」と、仰いました。男性の人には、先着作業をしていた人から床下の泥の搬出にバケツリレーをお願いしますと声がかかって、さっそく作業に取り組まれました。女性の方は、門前の水路の中で、大量の食器の泥落としをされているお婆さんがおられるので、そのお手伝いをお願いしますと依頼を受けられて、いそいそと取り組まれていました。

 被災した翌朝、戸外を見て驚きました。庫裏の階下はすっかり水没していました。広い平野の前方に建っている小坂小学校の一階は水没していて二階だけがまるで湖の上に浮かんでいる光景でした。寺の境内には膨大な土砂や破壊された近所の家の建具や流木で埋まっていました。悲惨な状況を見て、最初に感じたことは、生きている間に果たして復興が叶うのだろうかという思いでした。

 しかし、多数の方々の献身的な奉仕活動のお陰で、年末には庫裏に畳が入れられて、年始を迎える見通しがつきました。そのとき、奉仕活動に携わっていただいた方々にご報告を兼ねてお礼の気持ちを述べたいと思いました。そして、毎年、お正月の参拝者の方に配布しているカレンダーを添えて送ろうと思い付きました。幸い、奉仕活動にこられた方々の氏名、住所は全員記録して保存していました。

 報告、令状を送付しますと、お礼状が続々と届きました。姫路からこられたご夫婦からも丁重な令状が届きました。「ボランティア活動は初体験でした。私たちに何が出来るのだろうか、参加しても足手纏いにしかならないのではと危ぶみつつも参加しました。主人は、迷うよりもまず現場と言って、長靴とゴム手袋、軍手、合羽さえあればなんとかなるだろうと準備、行動に移しました。寺に着くと、全く見知らぬ人たちから暖かく迎えられて、無理をしないようにと励まれました。帰途、皆さんの顔は輝いていました。私たち夫婦もお役に立つことができたと、心ほのぼのした状態で帰宅しました。お礼のお手紙を拝見して恐縮いたしました。私たちの方からお礼状を差し上げるべきだと感じていました。素敵なカレンダーもいただきありがとうございます。主人もこの経験を生かそうと言っています。」と、記されていました。

 このお手紙を紹介しましたのは、皆さんもお分かりでしょう。奉仕活動という布施をなさったご本人の心の中には、他の誰れからでもない、ご自身の心の中からご自身に喜びのギフトが届いているのだと言えると思いました。

人の喜びや悲しみに寄り添う心の布施は、ご自身自らに喜びの心がプレゼントされたのです。このことを矢作先生は、思わぬところからギフトが届くと表現なさったと受け止めています。

寒暖の差が激しくなって来ました。どうぞ体調管理に努めてお健やかにお過ごしください。※ 次回は一月半ばに更新予定です。