感情と想い
https://jphaiku.jp/how/omoi.html 【風景や物に想いを載せる】より
喜びや寂しさ、感動などの心の動きは、そのまま「子供が死んで寂しい」などと書いてしまうと、単なる説明になってしまいます。
とんぼつり今日はどこまでいったやら
これは江戸時代の女性俳人、加賀千代女(かがのちよじょ)の作品です。
彼女には息子がいたのですが、幼い頃に死んでしまいます。
いなくなってしまった息子は、きっとどこか遠くまでとんぼつりに出かけてしまったのだろう、早く帰ってこないかなぁ、という子供を偲ぶ句です。
あるいは、息子は天国でもとんぼつりをして楽しく暮らしているのだろうか、という解釈もできます。
作者の感情を断定的に書かないで、とんぼつりに託したことで、読み手は千代女の気持ちを想像して、より深く、その悲しみや寂しさ、親心などを理解し、共感することができます。
松尾芭蕉の高弟、服部土芳(はとりどほう)は、その著書『三冊子(さんぞうし)』の中で、この点について、次のように述べています。
物によりて思うふ心を明かす。その物に位をとる。
引用『三冊子』 著者:服部土芳
「物に託して、心を表現することが大切です。
その心にふさわしい品位を物によって表します」
という意味です。
例えば、正岡子規の句で、次のような作品があります。
いくたびも雪の深さを尋ねけり
これは病気で寝たきりになってしまった子規が、雪景色を見ることができずに、どれくらい雪が積もったか、何度も尋ねてしまった、という意味です。
『雪』の儚い、それでいて冷たく冬の厳しさも感じさせるイメージが、病床にある子規の気持ちを代弁してくれています。
物に気持ちを託す場合には、その物の持つ品位、言い換えるとイメージが大切であるということです。
感情を述べずに、物に託して伝えることで、単なる説明では伝えきれない深い心の動きまで読者に伝えることができるというのが、俳句の醍醐味です。
ポイント
物の持つイメージ
物に気持ちを託す場合は、物の持つイメージが大切です。
我と来て遊べや親のない雀
これは、小林一茶が母親と幼くして死に別れた不幸な子供時代を思い出して読んだ句です。
「親のない雀の子、一緒に来て遊ぼう」という意味です。
ここでは、雀の持つ、小さくて可愛らしいイメージ、いたずら子供っぽい感じが、一茶の気持ちを表現するのに役立っています。
これがキツネやタヌキだと、なんだか小ずるそうな感じがしてしまい、まったく違った印象を受けるでしょう。
https://ameblo.jp/tanakaeritanakaeri/entry-12827293654.html 【感情と想いの違いに気がつけた青空】より
2023-11-04 13:20:02
テーマ:ココロの成長記録
少し前に、私は悩みにぶつかると"ワタシってナニ?"と自分探しに陥ってしまうけど、何気ない事から答えを見つけては都度スッキリしてきたから、結構ジブンわかってきたぜー!というお話をしたと思うのですが、
先日横濱へ帰省する際の羽田へ向かう機内で、まさにスッキリする事がありました✈️
人間関係の悩みでモヤモヤしていたあの時、ふと目をやった窓から見える空が、いつも以上にキレイに見えました。
キレイだなぁとボーッと眺めながらどうしても考えてしまいます。
なんで私は今回こんなに傷付いたのだろう?
それは単に基本的に相手の方々とのちょっとした価値観の違いなだけなんじゃないかな。
じゃあ、私の価値観て?
私にとっての本当に大切にしたいものって
なに?
自分の中の大切な価値観。
そんなもの考えなくたって、自分の中にずっとあったんです。
でも、いざ言葉にしようとするとうまく表現できないなと思いました。
でもこの美しい空を見ていたら
その答えがなぜか
いきなりはっきりと
クリアになったんです。
頭の中がスッキリ整理されたというか。
これまで寄せ集めてきた自分にとっての大切なもの(価値観)のカケラたちが、ピタっとハマってパズルが完成したみたいな感じです。
私が大切にしたいのは
"感情"より"想い"
そして
"意思を持ち自分で決めることの大切さ"
感情と想いって同じものと思っていましたが、良くも悪くも相手の感情をつい読み取って寄せてしまうクセがある私にとって、この違いが自分の中で明確になったことはとても大きなことでした。
私が寄り添いたいのは、感情じゃなくて想いだったなぁって。
ここに私が書いたのは、あくまで私にとっての根っことして一番大切にしたい事。
今、読んでくださっている皆さんひとりひとり、少しずつ違うものなのかもしれません。
もしかしたら"感情の方を大切にしたい"という方だっていると思うんです。
自分の湧き上がる感情、相手のそんな感情も大切にしたいという気持ち、私もこれまではそうしてきたし、感情<想いと気がついたのであって、感情ももちろん大切だとも思います。
ご自身の根っこの、生きる上で一番大切にしたい価値観みたいなもの。
もしも少し前の私のように自分自身でしっかりとそれを認識できていないかも?という方がいらしたら、是非とも認識する努力をされることをオヌヌメします。
なんつーか、生きるのが少しラクになった気がするから
https://ameblo.jp/scene-nya/entry-11283057922.html 【想い・感情は事実だけれど、真実はない。】より
2012-06-21 10:18:13
テーマ:ブログ
「想いに真実はない。
感情にも真実はないんですよ。
多くの人は、そこが真実だと思ってしまうのだけれど。」 by 老師
そうなんですよね。
真実は
過去にも未来もなくて
いま、目の前のこと、だけです。
自分が、考えや、分別をいれるまえに
すでに、そこにある、起きている、ことが、真実です。
想いって、本物な気がするじゃないですか。
だから、真実な気がするじゃないですか。
でも
ほんとのところは
想い、感情、考えにも、真実はないんです。
えー!
うっそー!
ショック―!
ほんまでっか?
わたしの想いはウソか?
こんなに悲しい思いはウソか?
^_^;
って思いがちですが。
ウソではないです。
事実です。
じじつです。
ほんとうです。
感じてることは、事実です。
でも、
真実ではない、だけです。
たとえばネガティブな想いや感情。
目の前の人に感じる、嫌な気持ち
怒りの気持ち
いろんな感情があると思います。
心理の世界では、ここをあえてフォーカスして
紐解いていきますよね。
禅は、違うんですね。
真実を見極める、観察する練習をすることが
禅です。
その感情は、おっかけては行かないんです。
だから、目的が違うんです。
禅の目的は(目的なんて無いって老師は言うけどね)
心理療法や、カウンセリングや、ヨガの世界とも
違う。
禅の目的は、見極めること、なのかもしれません。
間違えてしまいがちなのが
禅が、心理療法、カウンセリング、ヨガ、瞑想など
ココロを扱うことを、「否定している」ととらえてしまうこと。
このトラップに
わたしもすぐ引っかかってしまいます。
マインド(考え、想い)があることが、ダメなんだ、と。
あの人は、マインド優先になってしまっているから、ダメなんだと。
無意識に、そういうトラップに入りこんでいるときは
やっぱり、なんか、もやもやしたり、苦しくなる。(笑)
「苦しいか」どうかは
ちょっとしたバロメーターでもあるから
苦しかったら
ああ、またそっちにいってたわ、と
気づいて
そこから出るだけ。
雑草という草がないように
雑念という、想念(感情・想い・考えなど)もありません。
たとえば
雑念がわいてきたー! だから瞑想とか座禅できないーって
思わなくていいんです。
じゃあ、どうするのさっ。
ただ、
そこに、真実はないだけだなって
ただ、そういう視点を持つだけなんですね。
そうすると
自然と、スーッとそこから離れることができたりします。
だから
禅って
ココロを無視することでも
想いを無視することでも
感情を無視することでも
ないんだなと。
最近やっとそこまで分かりました~(笑)
マニアックです。地味です。
地味なの、だいすき。
おもしろーい。