ナポレオンをめぐる女たち② 母レティツィア2
ナポレオンはこんな言葉を残している。
「私の考えでは、ある子供の将来の立派な行為にせよよこしまな行為にせよ、全面的にその子の母親いかんによる」
母が子に授ける教育の重要性について述べているが、自分の母親レティツィアについても次のように礼賛している。
「母はわたしの幼少時代から厳しい愛情を注いで、偉大なことしか考えないように気を配ってくれた」
「私がもし幸運に恵まれたとすれば、そして私が世の中のために役に立つようなことをしたとするならば、それはすべて母が私に、その原則的な態度というものを、しっかりと教えてくれたからだ」
「わたしの運命は、母による若き日の私の育て方のおかげである」
ナポレオンが生まれたのはフランス革命勃発の10年前の1769年8月15日。この日は、ルイ15世が地中海の小さな島コルシカ島(フランス語:コルス島)のフランス併合を宣言した一周年記念日。それに8月15日はカトリックの聖母被昇天祭。アジャクシオのノートル・ダム大聖堂で歌唱ミサが始まろうとしていた。開始と同時に、レティツィアは胎児が激しく動くのを感じた。義姉ジェルトリュードと急いで家に帰る。しかし寝室までたどり着けそうにない。迎えに走らせた産婆も間に合わない。サロンのかたい長椅子に寝かされたレティツィアは、義姉の手助けを受けて男児を出産。ナポレオンの誕生である。
ところで、この年の5月までコルシカ島では40年に及ぶ独立戦争が続いていた。レティツィアは嵐のような戦乱の中、胎児を身ごもったまま夫に同行し馬にまたがって戦った。後にこう語っている。 「戦況を知るため、切り立った岩場の堅固な隠れ家から抜け出しては、現場まで偵察に行ったものです。弾丸が耳元をかすめたりもしましたが、少しも怖くはなかった。聖母様がお守りくださっていると信じていましたから」
この独立戦争に敗北した司令官パオリはイギリスに亡命したため、フランスとの降伏条約に調印したのはパオリの副官だったレティツィアの夫カルロ。彼は見栄っ張りで社交的な性格で、苦しい家計にはお構いなしに、のんきに外で散財して歩く。そうした費用も何とか捻出しつつ、一家をとりしきっていたのが母親のレティツィアだった。子どもたちの教育にほとんど注意を払わない父親に代わって、ひとりで子供たちの教育にもあたった。彼女のしつけは厳しかった。教会のミサに行くふりをして遊びに行ったりしたことが後でばれると、「ミサをさぼったことよりも、そういう嘘やごまかしがよくない」と言って、ナポレオンをひっぱたいた。足の悪い祖母の後ろを歩き方を真似して歩いたときは、ナポレオンはズボンを脱がされ、とくにこっぴどく尻をひっぱたかれた。
レティツィアはわずか14歳で結婚。死産を含めて1年か2年おきに子どもをもうけている(ナポレオンには7人の兄弟と妹がいた)。当然ろくに教育も受けていない。イタリア語の方言のコルシカ語しか話せず、フランス語は知らないし、イタリア語も随分下手だったと言われる。文字を書くのが苦手で、晩年にいたるまでほとんど口述筆記させていた。しかし彼女は、高貴な威厳、すぐれた知性、静かな行動力で子供たちを教育し、激動の境涯を生き抜いた。
(「ナポレオン像」アウステルリッツ広場 アジャクシオ コルシカ島)
(「ナポレオン像」ド・ゴール広場 アジャクシオ コルシカ島)
(「ナポレオン像」フォッシュ広場 アジャクシオ コルシカ島)
(アジャクシオ コルシカ島)
(アジャクシオ コルシカ島)
(レティツィア・ボナパルト)