聖五月
http://blog.livedoor.jp/lean_0406/archives/2263114.html 【聖五月◇平畑静塔】
鳩踏む地かたくすこやか聖五月 静塔
まずは静塔氏の自解から、〈五月は聖母マリアにささげる月、健康で明るく透明な五月は、まさに聖五月と云うにふさわしい月ではある。私の宗教俳句はすべてをすてて、この一句だけをのこしてもよい位であろう。そう云う人も居る。……後略〉
五月の地が「かたくすこやか」とはいかない湿度の高い気候にわれわれは暮している。地中海式気候のどこかに……ワープ。
掲句と見開きのページに「白壁に消えも入らずに毛糸編み 静塔」もあった。解説によると精神科病院での吟ということだが、無心に「毛糸を編む」面差に聖母マリアを感じるのは私だけだろうか。
ハッピーなときにこそ大いなる存在を感じていたいと思う。
写真は「自然万華鏡BLOG」より拝借した。オオアマナとオドリコソウ、どちらも清らかな写真。解像度を良くすると
https://note.com/okadakou/n/n16da6c55d3ae 【「聖五月」という季語】より
岡田耕
キリスト教のカトリック教会では、五月はマリアに捧げる月とされていて、特にマリアを崇敬し、祈りを捧げます。
この五月は、聖母月やマリアの月と言われますが、俳句では「聖五月」と固有の言い方をすることがあります。
歳時記では「聖五月」は、季語「五月」の傍題で、または「聖母月」の傍題で見られます。
この「聖五月」という言葉は、カトリックの俳人・平畑静塔(一九〇五~一九九七)の考案によるものだそうです。
平畑静塔の聖五月を詠み込んだ代表句に、「鳩踏む地かたくすこやか聖五月」があります。
平畑静塔は、戦後、大阪女子医専の教職にあった一九五〇年のクリスマスの日に、西宮市のトラピスト修道院で受洗しています。
聖母月の信心は三百年ほどの歴史がありますが、俳句で聖母月を「聖五月」という言い方をするのは、戦後になってからのようです。
聖母月の信仰は十八世紀に盛んになったというイタリア。マリア信仰そのものは、千年以上の歴史があるそうです。
https://defining21.rssing.com/chan-11428025/all_p120.html 【瓢箪から句が出る】より
淺津大雅
この数ヶ月くらいだろうか、実作からも読むことからも少し離れていたので、かつて自分が好きだと胸を張って言えたであろう俳句たちを、さてそのまま取り上げて「好きな俳句です」と差し出しても良いものだろうか、と少し弱った。
試しに書き出してみると、確かに好きではあるが、同時に、「小さい頃に好きだったスーパーファミコンを押入の奥から引っ張りだしてきて、目の前に置いた時のような違和感」がある。
件のスーファミをテレビにつなぐと、ちゃんと動いた。久しぶりにやるストリートファイターⅡは確かに面白いのだが、ヨガファイヤーしてくる兄貴にボコボコにされていた当時と全く同じ気持で楽しめているかというと、それは違う。新たな趣を見つけた気分である。ザンギエフもエドモンド本田も当時よりかっこ良く見える。
しかし、やはり最新のプレステ4も欲しい。最近新価格になったようであるが、お金がないので買うことができず悲しい。
閑話休題。
そういうわけで、「私の好きな五句」という課題をちょっとずらしてみる。まず「好きだったし、今は別の魅力を感じる三句」を読みたい。その後で、「最近好きになった二句」を読む。良い機会だから自身の趣味趣向の変化を振り返ってみよう。
鳥の巣に鳥が入つてゆくところ 波多野爽波(『舗道の花』)
滝の上に水現れて落ちにけり 後藤夜半(『翠黛』)
お手本のような写生句として挙げられることが多いこれらの句であるが、描かれるモノに違いはあれど、描き方とその主題とするところ(俳句に「主題」なんて似つかわしくないかもしれないが)にかなり似通ったところがあると最近気づいた。
鳥の巣に鳥が入る。滝の上に水が現れ、落ちる。共に「あるべきところにあるべきものが動きとして出現する」という構造を持っている。「あるべきとろにあるべきもの」は、まとまりとして一つであるから、景はとてもシンプルになる。そのなかで表現される「動き」は、なぜかスローモーション、あるいは何度も再生される映像のように反復される動きとして感じられる。躍動感を感じさせる絵、というものがあるが、まさにそれと似ている。静止のなかに表現された動きであるから、我々がいちいち再生ボタンを押さずとも、ずっと動いているGIF画像のようなものである。(という例えは風情がないか。)
南風石包丁に穴ふたつ 岸野桃子(『星果てる光Ⅱ―広島高校文芸部第二句集―』掲載「虹と私」)
初出は俳句甲子園だったように記憶しているが、その時以来なぜか忘れられない句である。忘れがたい句というのは良し悪しをさしおいて価値のある句であると思う。さて、どうやら前傾の二句ともども、私は「あたりまえ俳句」が好きらしい。あたりまえすぎて誰もわざわざ言わないようなことを言ってしまう、そしてそれがはっとするような新鮮さを与えてくれる俳句である。「あたりまえ」を新たな角度から切り込むことで、真理を垣間見た気分にさせてくれる。
ただし、傾句は前傾の二句と比較すると、そこまで鋭い描写ではない。「石包丁」の「穴ふたつ」はあくまで静止している。動的な要素が盛り込まれているとすれば、「南風」であろう。穴に風というのはつきものかもしれない。穴が開けばそこを風が吹きぬける。土に空いた縦穴の場合は別かも知れないが。また、「風穴を開ける」という言葉もあるが、これはちょいと物騒である。
さておき、南風は湿って暑苦しい風であるから、自然の熱量を思わせる。石包丁は縄文時代から見つかり、弥生時代のものが大量に出土している磨製石器で、よく教科書に乗っている。二つの穴は、紐を通して、指に引っ掛けるために使われていたようだ。「石包丁に穴ふたつ」は純朴な描写だが、そこに「南風」の熱量が加わることで、弥生時代へ吹き飛ばされる。「穴ふたつ」が人間味を帯びてくる。
今読み返しても、以前とおおよそ同じ感じを受けるが、「南風」のあたりにまだいろいろな可能性を感じる。季語が動く、動かないって、なんだろう、という考えの種になりそうでもある。(そういう考えの種になりそうな句はたくさんあるが、季語の斡旋についてはまだまだ分からないことが多いので勉強していきたい。季語と措辞の関係性についてはまだまだ混沌とした部分が多く、いくらか整理が必要に感じる。)
さて、最近好きになった俳句であるが、その仕入先はちょっと変なところである。冒頭に「しばらく実作からも読むことからも離れていた」と書いたが、俳句以外に目を向けても、結局俳句に出くわしてしまうのは、一つの運命か。
橘やいつの野中の郭公 芭蕉(一字幽蘭集)
芭蕉の発句であるが、これを改めて面白いと感じたのは、九鬼周造(1888-1941)という哲学者の文学論においてである。彼の文学論は現代の詩歌実作者にとっても示唆するところが大きく面白いので、ぜひどこかでそのうちきちんと紹介したいと感じているのだが、いや、直接読んでいただいた方が早い。九鬼のこの句に対する鑑賞と評価を引用する。(それも、ほとんど彼によるプルーストの引用で言い尽くされてしまっているので、実質的にはプルーストの考えの借用ということになるが。)
芭蕉は花の匂いを嗅ぐ。かれは、野原でほととぎすが鳴くのを聴きながら、かつて同じ花の同じ匂いを嗅いだことのあるのを思い出している。それに次のような注釈を与えることを許されたい。「かつてすでに聴いたことのある一つの音、また嗅いだことのある一つの匂いが、現実的ではないのに実在的なものとして、抽象的ではないのに観念的なものとして現在と過去に同時に新たに蘇るとき、たちまちにして、いつもは事物のうちに隠されている永遠の本質が解放され、時には長い間死んでいたように思われていながら実は死んではいなかった我々の真の自己が目覚め、そして自己にもたらされた天上からの糧を受けながら生気をえるのである。時間の秩序から解放された一瞬が、それを感じるために時間の秩序から解放された人間を、われわれのうちに再創造したのである」(マルセル・プルースト『見出された時』Le temps retrouvé、第二巻、十六頁)。(以上は岩波文庫『時間論 他二篇』九鬼周造著、小浜善信編、2016、p48より引用)
無論、実際の句の表現に厳密に即して鑑賞していく立場からすると(そして以前の私はそういう立場に立とうとかたく決めていたのだが)、この句を「無限の表現」として読む九鬼の考えは容易には受け入れがたい。しかし、橘の香りと「いつの野中の」ほととぎすとの取り合わせが私に与えた印象を、九鬼の、またプルーストの言葉は確かに言い表してくれているように感じる。単純な景の描写には収まらない重層性が、俳句をより面白く読ませてくれるのかもしれない。よく「瞬間を切り取る文学としての俳句」ということが語られるが、時間性と俳句の交わりは、単純に一瞬、瞬間ということから語られると、浅く薄いものになってしまいがちである。実際に描写される瞬間と、そこから私たちが受ける印象としての時間には大きな差がある。掲句自体は、橘とほととぎすの取合せの具体的景の季節の実感を伴いながら、同時に「なにかを回想すること」の共感へ私たちを引き入れる強さを持っている。
こう考え込んでいくのも悪くないが、やはり読んだ時の第一印象というのは重要である。最後の句は、私が大学で所属しているサークルの会誌に投稿された、新入生の句である。
この句を読んだ際の状況を簡単に説明する。久しぶりに顔を出したサークルの例会でせっせと冊子をホチキス止めして、やっと終わった、と思って冊子を捲っていると、俳句が見つかった。普段は小説や漫画、イラストばかりのサークルなので以外に思いつつ句を読む。作者の一回生がすぐ目の前にいたことに、あとから気づいた。感動して声をかけた。
誰を見る ぢつと灼けてゐるゲバ字 八橋大社(創作サークル「名称未定」『幻想組曲vol.70』掲載「夏標Ⅰ」)
何より予想外のところから俳句をしている人が出てきてくれたのが嬉しかったのだが、それ以上に、簡単には型にはまらないのびのびとした句の面白さに心を奪われた。
良い物に出会った時は純粋な衝撃がはしる。主題も表現も、どこか京大俳句的なところ、あるいは新興俳句的なところを感じさせはする。しかし、十七音しかない俳句の中で、突然「誰を見る」と始まり、そこから「ぢつと灼けてゐるゲバ字」へと着地させる転回の上手さに驚いた。とても冷たい氷に触った時に「熱い」と思ってしまう、いや、実際には純粋な驚きがやってくるように、あまり見ることのないタイプの俳句に出会うと、その実態がどうあれ「驚き」が先に来る。そういう句は改めて読んだ時に「なぜ面白く感じたのだろうか」と疑問に思ってしまうことも少なくないのだが、掲句はそれに耐えた。
いったい誰が「誰を見」ているのだろう。それを問いかける作者の立ち位置はどこだ。「ぢつと灼けてゐるゲバ字」が、見る者か。見られるものは私たちか。じりじりとさす夏の日に照らされて熱くなるゲバ字の看板。実景としてはそうであるが、さまざまな(政治的・社会的な)意味を想像させてくれそうであり、同時にどのような解釈も素直には受け付けようとしない硬さがある。このくらいの情報不足は、案外俳句に馴染む。何度も読み返したくなる句である。
まだまだ俳句は面白い。これからも、面白いものに出会える。そういう救われた気分がした。金もないし、プレステ4の世話になるのは当分先になりそうだ。