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空手道【四端塾】

「昔の人はよく歩く」を検証してみた。

2024.10.15 01:07

石出常軒「所歴日記」に見る江戸期の歩行距離

 江戸時代、小伝馬町の牢屋奉行であった石出常軒(元和元年_1615 ~元禄二年_1689)✽ 1 は「所歴日記✽ 2」として遊山見物を記している。

 一般的な江戸~京都間の旅程は、和服、草鞋で荷物を背負い、武家であれば大小二本の刀(約2.5kg)を腰にして、10 ~ 14 日程であったと言う。日記によれば常軒は、3週間ほど掛けて京都入りしているから、旅程の道すがら随分と彼方此方を見物したと思われる。

 寛文4年(1664)の3月3日に江戸を出て東海道125 里(500㎞)を25㎞ / 日で歩き切り、3月24日の夕刻に京都に入った常軒は、「廿五日(中略)前には加茂川なかれて むかひはいとひろき野(中略)こりき町と云所」に仮舎りを決め、翌26 日から早々に京見物に出歩いている✽ 3。

 この記述を元に、新暦と旧暦、定時法と不定時法を考慮し、果たして往時の人達はよく言われる「ナンバ歩き」を駆使して「それ程早歩きであったのか」を検証してみる事にした。

 まず旧暦3月3日(今年の4 月22 日)の日の出日の入りを調べると✽ 4、日の出05:00 ~日の入り18:20 で、日照時間は13:20 ある。往時の不定時法を基準とした生活習慣によれば、所謂「お江戸日本橋七ツ立ち」とすると、出立は04:00 頃で宿入りが19:00 頃となるから、休みを含め15 時間は歩いている事になる。

 京見物を始めた3月26 日の日の出は04:37 ~日の入り18:39 で、日照時間は14:00 ある。この日は「先近きあたりを…」と東山の建仁寺に向かう。そこから六波羅蜜( 蜜) 寺- 大仏殿- 耳塚- 三十三間堂- 豊国廟-鳥辺野- 大谷を越えて清水寺- 霊山、丸山を経て法観寺- 雲居寺跡- 祇園- 知恩院と廻り、「(知恩院は)浄土宗の総本寺なれば 輪奐眼をおとろかすもむへなりとてやとりに」帰っている✽ 5。

 手元にある京都の古地図は文久3(1863)年の物である為、その行程を其々が名所であってそう極端には街路の仕切り変更は無いという前提にして、Google map で距離を測った結果、この日は11 ~ 12㎞程を歩いて廻っている。

 そして27 日も日照時間は同じ位であるが、何と40㎞程歩き、28 日は愛宕山を目指して廻り50㎞程…流石に29 日は近場巡りにしているものの、4月14 日まで延々とこの調子である。最終日4 月14 日(同6 月2 日)の日の出は04:26 ~日の入り18:52 で、日照時間は14:30 程となるから、京見物の間の日照時間はほぼ14:00 といった処になる。

 今風に9:00 ~ 17:00、8 時間労働を基準にしたら、観光せずに只管6 ~ 7㎞ /h で歩くか、観光したら8 ~ 10㎞ /h のジョギングを続ける事になってしまう。

 然し常軒の日記から計測した結果、休憩や観光の時間を差し引いても平均して毎日4 ~ 5㎞ /h であるから、距離としては随分と歩いているが決してそんなに早歩きではない事が分かるし、一里の基準が理解できる。

 今で言えば4 ~ 5 月の良い陽気の時期に、長い日照時間を使っての京廻りであった事が伺えた。新暦と旧暦、定時法と不定時法を知って分かる事の一つである。

 そしてまた、余分な体力を使わない、エコモードの「なみあし歩行」の意義が分かる事例の一つである。


✽ 1 「朝日日本歴史人物事典」朝日新聞出版、1994 年

✽ 2 駒 敏郎 他編「史料 京都見聞記 第一巻」、『所歴日記 第二』石出常軒、法蔵館、1991 年、p.14-35

✽ 3 「令和五年神宮館高島暦」神宮館、2022 年

✽ 4、5 前出✽ 2