10月20日(日)礼拝説教全文
「私があなたがたを選んだ」 ヨハネ15:16~27
弟子との最後の夕食の席での告別説教の続きとなります。
イエスの選び(:19)、神の選び、それは、救われた者の新しい祝福の鍵であり、キリスト者(キリストの道を歩む者)の生命線となります。
実際に十二弟子に声をかけ、お選びになったのはイエスです。イエスがお選びになった十二弟子です。 「あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだ。」とイエスの言われる通りです(:16)。 イエスはどのような基準で彼らを選ばれたのでしょうか。 弟子たちの4人はガリラヤの漁師であり、特別の知識や能力、地位のあった人たちではありません。 人材という言葉がありますが、世の中では、面接があり、優秀な人や人柄で、企業側が採用することでしょう。 しかし、イエスが選ばれた人たちは、イエスの生活圏にいた「ガリラヤのただ人たち・普通の人たち」でした。 彼らはただ人でありますが、イエスの言葉の通りに、やがて「宣教者」となり、キリストの証人、「殉教者」となっていきます。
「私があなたがたを任命したのである。」 任命という言葉を聞きますと、内閣総理大臣の内閣を構成する閣僚の「任命責任」という言葉を思い出します。大事な仕事を託した大臣の働きや素行についての責任は任命した総理大臣にある、というものです。 全てのキリスト者は、イエスが意図される働きのために、イエスにより選ばれ、任命された者であると言うことができます。 それは私たちの資質に関わらず、イエスの一方的なご意志と言うことができます。 閣僚である大臣たちには、それぞれに重要な仕事がありますが、イエスが選び、任命されたのは、どのような仕事を私たちに託すためでしょうか。
口語訳聖書では、「それは・・・のためである」と記されており3つあります。
イエスによって任命されて託された使命
① 「行って実を結び、その実がいつまでも残るために」・・・宣教 キリストのからだである教会、その枝である私たちの使命は、宣教です。イエスを、そしてその福音を宣べ伝え、多くの人がイエスの十字架と復活の福音を聞き、信じて、罪の赦しと永遠の命を得るためです。
「行って」というのは、待っているのではなく、世界に、世に、私たちが住み、暮らしている社会に、ここから出て行くことです。私たちはこの教会から、イエスのもとから遣わされて、ここから出ていく者たちです。 「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい。信じて、洗礼(バプテスマ)を受ける者は救われるが、信じない者は罪に定められる。」(マルコ16:15~16)
出て行く、イエスによって遣わされて行く目的は、「実を結び」「その実がいつまでも残るため」です。 イエスを宣べ伝えるところには、罪の赦しと永遠の命に至る実が結ばれます。それは永遠に残る実です。今も私たちの時代にも次々に結ばれ続けています。 宣教・奉仕のない信仰生活は、何も実を結びません。証しのない信仰生活は、何も実を結びません。 宣教・伝道しない教会や私は、譬えて言うならば死海の海のようです。 当たり前ですが、教会の牧師は否が応でも伝道に心が向けられます。それは、イエスの任命による主要な働き・目的だからです。私たちは教会の働きについて、イエスの働きについて、皆で共に考え、そして、私にできることから主の為に働く者でありたいと思います。宣教の実はすぐには結ばないかもしれません。しかし、それを続けていきます。効果があるなしに関わらず、チラシ配布をして宣伝をして集会を行います。世のニーズを考えます。現代ではネットを通して伝道を展開することもあります。訪問・学び・特別集会を行います。
奉仕をする神の祝福は豊かです。不思議なことですが、奉仕から離れたとたんに 教会からも離れて行くことが多いのです。私(牧師)は前から言っていますが、主の働きをすることによって、イエスに繋がり続けていくことができるのかも知れません。神の前に最も弱い存在です。 イエスと共に奉仕に励み、喜んでイエスに仕え イエスのみわざを拝していく生涯を送るキリスト者でありたいと願います。宣教に出て行くことは、私達の祝福です。
② 「私の名によって願い、父が何でも与えてくださるために」・・・ 祈りの祭壇を築く イエスの名によって祈る。これは以前にも礼拝で話しました。イエスの名によって父なる神に求め、イエスが、父なる神が、祈りに応えてくださる生涯をキリスト者は歩みます。 私たちがイエスから任命された仕事は「イエスの名によって祈る」ことです。そして、祈りの結果である神のお答は、神の栄光のみわざを得ることです。 あまりこれまでそのような勧めはしてきませんでしたが、是非、祈祷会に参加してください。
「私は祈祷会に仕事の都合で参加できません。是非、早天祈祷会を行ってください」と言われたことがあります。 日本と韓国とではクリスチャンの数も、教会の規模も比較できませんが、韓国に行きました時に「明星教会」という教会の第二早天祈祷会に出席したことがあります。数千人の人が早天祈祷会に出席されて、熱心に祈っておられました。仕事に行く前に祈祷会に出席して、それから出勤するとのことでした。国を巻き込んでいくリバイバルのうねりは、祈りにあると感じました。
③ 再度、「互いに愛し合うために」・・・十字架の愛イエスの愛にとどまり続け、互いに愛し合う 「私が愛したように あなたがたも互いに愛し合うためです」 道に迷ったら、十字架に帰りましょう。イエスの愛に立ち戻ることです。人を愛せなくなったら、十字架に帰ることです。イエスの愛に立ち戻ることです。神の恵みを失ったと思ったら、十字架による神の愛、救いの喜びに帰ることです。イエスの愛にとどまり続けるとはそういう道です。
この世から迫害されることの予告(:18~27)
「宣教」の使命に生きようとする時、キリストの道を進もうとする者は、時に、世の人々から憎まれ、迫害されます。「私が先にこの世から憎まれたことを知っておくように」(:18)とイエスは言われました。宣教しない者は迫害されません。どうして、こんなに素晴らしい神の恵みを伝えているのに、憎まれ、迫害されるのでしょうか。イエスは、「あなたがたはこの世のものではない。私がこの世から選び出した者(:19)」だからだと言われます。世の道を行く歩み(生まれながらの道を進み、肉の思いに支配された歩み)から、イエスによって選び出され、イエスの道を歩き出した者だからです。「世はあなたがたを憎みます」。悪いことをしていなくても理由無しに憎まれます。 * それは、生き方・存在そのものが世と神との違いからです。(詩篇35:19 69:4 ダビデ)
イエスを迫害した世は、あなたがたを迫害します。イエスを迫害する者は、イエスの名によって歩む者をも迫害します。なぜならば、私と父はひとつであるように、私とあなたがたもひとつ(:23~25)だからです。 主の道を歩もうとする者は、世から憎まれ、迫害されます。世から愛され、受け入れられるのではありません。
そのような場面にあなたがたが立たされる時、イエスの言葉を、その真理を胸に抱きます。
弁護書、助け主、真理の御霊が、イエスについて証しし(:26)、その弁護者の傍らで、私たちも証しします(:27)
この世と調子を合わすことなく、神の前に正しく生き、神の恵みの中を生き、神と人を愛して生きようとする時(それを真剣に求めていくとき)、私たちは苦しみ、悩みます。適当に生きるのなら、何も悩む必要はありません。真剣にキリストの道を進むのは、決してたやすいものではありません。それは、自分の十字架を負って進む道だからです。繰り返し申しますが、是非知ってください。私たちには弁護者である聖霊が共にいて下さいます。それはイエスの御霊です。何よりも力強い同伴者です。神が味方であるなら、誰が私たちに敵対することができるでしょうか。
私たちはイエスと共に働き、宣教・祈り・愛の証を通して、実を結んでいきましょう。