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真宗大谷派 霊苔山 金相寺

掲示伝道(10月no2)

2024.10.16 01:00

「はだかにて 生れてきたに 何不足」小林一茶


 私の欲は尽きることがありません。その欲を仏教では貪欲と教え、その貪欲の世界を餓鬼道と教えます。いつでも、飢え乾き、さまざまなものを求めています。「歳を重ねるごとに段々と欲がなくなりました」とおっしゃる方がいますが、本当にそうでしょうか? 物質的な欲は若い頃に比べ、少なくなるのかも知れません。しかし、私たちの欲は物質的な欲(金銭欲や物欲、食欲など)に限らず、知識や身体的な欲望など、あらゆるものを求め、満足することを知らないのです。

 私たちはいつでも我が思いで比較して生きています。そして、あれが足りない、これが足りないといって貪って生きているのです。

 そのような貪欲に苦しむ私たちに仏教は、「少欲知足(欲を少なく、足るを知る)」「自体満足」を教えます。このように聞くと、仏法を聞けばあるがままに満足して生きることができると思うかも知れませんが、そうではありません。

 親鸞聖人は、『一念多念文意』の中で、

「凡夫」というは、無明煩悩われらがみにみちみちて、欲もおおく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ、おおく、ひまなくして、臨終の一念にいたるまで、とどまらず、きえず、たえず

とおっしゃっておられます。私たちの煩悩はいのち終えていくその瞬間まで、常にはたらき、消えることがないのです。

 それでは仏法を聞いても意味がないではないかと思われるかもしれません。しかし、そうではないのです。そういう我が身を知らされるということが何よりも大事なことなのです。その我が身を知らせる教え、はたらきに出遇うことが大事なのです。そのことによって、煩悩の身を「それが私でした」と引き受けて生きていくことができるようになるのではないでしょうか。

 この小林一茶の句は、決して一茶が誰かに向けて諭すようにうたわれた句ではなく、煩悩まみれの我が身を教えから知らされたところに聞こえてきたお言葉だったのではないでしょうか。