性被害からの回復③「安心して語り、聴き合うために」
(ロイ)
さて前回の予告通り、この性被害からの回復の証し第3回で「傷を広げない話し方と聴き方」について書きたいと思う。これはあくまで私が個人的に考えてきたことだ。私はひとりのサバイバーにすぎず、専門家ではない。しかし、このことを当事者が述べた文章に出会ったことがあまりないため、参考までに記してみたい。
まず、人生ではじめてのカミングアウトにおいて、望ましいと思うことを書いてみよう。相手と環境選びは重要だ。本当にこの人でいいのか、時間をかけて探りたい。そのためにより一般的に、暴力と理解されていることから話してみる。
例えば「殴られたんだ」と話してみて、その人は秘密を守るか、自分の身になってくれるか。「あなたにも問題があった」などの、理解のないアドバイスをしないか。そうやって探った結果、この人ならと思える人やグループを見つける。1対1の関係だと依存してしまうかも知れない。専門家なら会える時間に制限が設けられていることが多いけれど、友人の場合はその後の距離感に気をつけたい。
はじめはほんの少しだけ話す。そして自分の心身の変化を観察する。あの夜のように硬直して、痛みや息苦しさが出るかも知れない。フラッシュバックに気づいた時、現実に戻るための動作を決めておこう。できればトラウマ治療ができる専門家と、過去から「今ここ」に戻る方法を練習しておきたい。体が動きにくくてもできることから始める。指で顔をタッピングしたり、ぬいぐるみをなでるとか。
動けるようになったら、被害にあった時は存在していなかった音楽を聴いてみる。淡々とできる家事などの作業も良い。これは加害者から離れた後の25年間で、私が身に着けたノウハウである。
実際の初カミングアウトは大失敗。教会で牧師夫妻に打ち明けて「悔い改めたらどうですか?」と言われてしまった。自分だけでは出来事を客観視できないため、あいまいにしか伝えられなかった。牧師はきっと「罪悪感や恥は、イエスさまが解決してくださいますよ」と伝えたかったのだと思う。残念ながらその後、その教会には行けなくなってしまった。
そんなリスクのあるカミングアウトなら、しない方が安全だろうか。「あなたがこれ以上傷つかないために、黙っていなさい」そんな風に言われた経験もある。しかし、カミングアウトは生きるために必須だと思う。最も重要なことをひた隠しにして、小学生が普通に振舞おうと努力している様を思い浮かべて欲しい。
「無理しないで」そう思われるかも知れない。しかし被害を訴えたくても、証拠が提示できない。児童虐待防止の法律ができるのは、21世紀になってからである。しかも教会では父の日礼拝で「お父さんに感謝しましょう」と教えられることがある。学校でのいじめですら、先生がいじめっ子の味方をする場合もある。だから自分の心を捻じ曲げる。私が汚れているからだ。性欲があるからだ。きっと私が求めているから、こんなことをされるんだ。そんなストーリーのポルノだってたくさんある。有名な心理学者だって、それは子どもによくある妄想だって言う。父より私の言うことを信じてくれる人なんかいない・・・。
被害者はこのような自動思考に苦しめられる。そこから脱出したい。だからカミングアウトが必要なのだ。そして
「酷いね」
「あなたは何も悪くないんだよ」
そう言ってもらわなければ、新しく生き直すことは、不可能なのではないだろうか。
この「自分が原因説」をなるべく早くに覆しておかないと、大変なことになる。この原体験を薄めるために、どんどん性体験を重ねるかも知れない。親からされるより、他人からの方が、ずっと受け入れやすい。そして自分はこういうキャラだから・・・と思い込みを深めることだってあり得るのだ。
だから思うのだ。イエスさまを信じることの結実は、人それぞれだと。聖書に出てくる「罪」とは、的外れという意味だそうだ。悔い改めは、的外れからの方向転換。私を贖うために十字架で死に、よみがえったキリストを信じ、神の子とされること。そして栄光から栄光へと、主と同じかたちに姿を変えられる。(第二コリント3:18)それはキリストと似た人格へと変えられることだと教わった。そして罪の束縛からの解放だと。でも人生のスタート地点は人それぞれなのだ。イエスさまを信じて、ずっと怒ってきたことに気づけた。神の子とされたから、作り笑いを止められた。素直に泣けた。正直に祈れた。そんな結実だってあるのである。
話をもとに戻そう。この文章で目指しているのは「安心して被害体験を語り、聴き合うためには?」ということである。はじめからグループで語れるかどうかは人それぞれだと思う。解離性障害などを呈している場合は、まずは精神科へ行った方がいいかも知れない。トラウマにより起こる症状は様々だと思う。良い専門家につながることは、当事者ひとりでは困難である。
深い話は聴けなくても、つながりを応援することはできるかも知れない。カウンセリングは必要だがとても高価だ。症状によって医療費がかさみ、そこまで余裕がない時、地域生活支援センターなどの無料相談で、福祉サービスにつなげてもらえるかも知れない。
当事者は追い詰められている。はじめからグループで冷静に話すことはできないかも知れない。だからまずは生活を外側から立て直す。できるところから理解者とともに取り組む。そして少しでも生活が安定してきたら、少しずつ少しずつトラウマを語ることが叶うかも知れないと思う。
最後に、先述の牧師について書いておく。先生は人生の方向転換をした。新たに学ばれ、現在はひきこもりの子どもを支援する職についている。カミングアウトは難しい。受け止める側も話す側も、癒しが必要なのだと思う。
聴くのが得意な人もいる。それでも知らないことは多い。人は自分ひとりの人生しか知らない。だからお互いに配慮できたらいいなと思う。聖書は神のことばだと、私も信じている。それでも自分が自分にあてはめてきたように、聖書のことばをそのまま人にあてはめることはできないのだと知っていることは、隣人愛の基本なのかも知れない。
深い体験を語り、聴き合うことは難しい。でも希望はある。それはイエス・キリストがすべての人のすべての体験を知っていてくださるということ。神さまがどんな祈りをも、受け入れてくださるということ。だから話すこと聴くことを、諦めたくないなぁと思わされている。