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一号館一○一教室

ベルクソン著『〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉』

2024.10.16 11:15

AIには手の届かない
人類の知能の領域がここに


616時限目◎本



堀間ロクなな


 今年(2024年)のノーベル賞では、物理学賞と化学賞の両部門でともにAI(人工知能)に関する研究が授賞理由になったという、かつてない異例のニュースがAI新時代の幕開けを告げた。と同時に、物理学賞の受賞者のひとり、カナダ・トロント大学のジェフリー・ヒントン名誉教授がオンラインの記者会見で「早ければ5年後にAIが人類の知能を超えるだろう」としたうえで「AIが人類に代わって社会を支配する恐れがある」と述べ、自分の研究対象に対して激しく警鐘を打ち鳴らしたのもはなはだ異例だった。



 果たして、このAIという急成長する怪物をどう受け止めたらいいのか? その恐るべきパワーがわれわれを追い越していくのをただ黙って見守るしかないのだろうか? こうした問いかけについて思いもよらない視座を提示しているのが、フランスの哲学者、アンリ・ベルクソンだ。



 19世紀末から20世紀前半にかけて活動したベルクソンは、近代科学を土台とする産業革命の波が社会を隅々まで覆い尽くす一方、ダーウィンの進化論やフロイトの精神分析、アインシュタインの相対性理論といった新たな知見が続々と出現する状況のもとにあって、人間精神の意義の徹底的な追求を仕事にしたと言えるだろう。こうした業績に対してノーベル文学賞(1927年)を授与されている。そのベルクソンは1913年に心霊研究協会なる国際的な組織の議長に就いて、ロンドンで『〈生きている人のまぼろし〉と〈心霊研究〉』と題した記念講演を行った(『精神のエネルギー』所収)。



 講演のなかで、ベルクソンはこんなエピソードを披露している。少し前に参加した会議で、ある高名な医師がこう話したという。自分の知りあいの聡明な婦人が、軍人の夫が前線で戦死したちょうどそのときに夫の死の光景のまぼろしを見て、あとで知ったところでは現実に起きたことと寸分違わなかった。いかにもテレパシーが働いたと結論づけたくなる事例だが、そこには重要なことが見落とされている。世間では多くの妻が夫の死のまぼろしを見るものの、たいてい夫はぴんぴんしており、もし正誤表をつくればこの婦人のようなケースはごく稀な偶然の一致で、テレパシーの証明と見なすわけにはいかない、と――。すると、ひとりの若い娘がベルクソンに近づいてきて「いまのお医者さまの論理は間違っているように思います、どこに間違いがあるのかはわかりませんが」と口にしたという。



 これを受けてベルクソンは、まさしくその若い娘が言ったとおりで、高名な医師は間違えていたと断言する。このような論理だ。くだんの婦人が夫の死の光景のまぼろしを見たのは紛れもない事実で、それを似たようなケースの正しかった数と誤りだった数を比較するという数学の問題に移し替えたのは、婦人の現実の体験を無視したことに他ならない。つまり、たとえ世間にいくら多くの誤りがあったとしても、彼女の見たまぼろしがホンモノだったのならテレパシーが実在することの証明だというのだ。



 ベルクソンによれば、本来、科学は数学のうえに構築されているのに対して、人間の精神は決して数学に委ねられないものとする。さらに敷衍するなら、科学的に観察できる脳(身体)と精神現象を司る心(意識)とは、いわばオーケストラの指揮者の動作と演奏者たちが鳴り響かせる音楽の関係に譬えられ、そこに単純な平行関係は成り立たないとして、つぎのような驚くべき論理展開へと進む。



 「私たちの身体は空間において相互に外にあります。そして私たちの意識も、そうした身体に結びつけられているかぎり、空間的な隔たりによって切り離されています。しかし、意識がその一部分でしか身体に結び付いていないとしたら、それ以外の部分においては互いに侵入し合っているという推測が可能です。さまざまな意識の間で、浸透現象に比較されるような交換が各瞬間に起こりうるのです。〔中略〕そうしたイメージのうちの何かがこっそり、とくに抑制装置がうまく働かないときに境界を越えることは大いにありえます。ここでもまた〈心霊研究〉が力を発揮することになるでしょう。本当の幻視はこうして生じ、〈生きている人のまぼろし〉はこうして現れるのです」(原章二訳)



 これがベルクソンの解き明かしたテレパシーの原理である。われわれの心が必ずしもすべて身体に縛りつけられていない以上は、ときに自己の身体を離れて他者の心と相互に振れあう可能性があり、それがテレパシーとして発現するというのだ。もとより、仮説に過ぎないわけだけれど、はなはだ霊感の乏しいわたしでさえこれまでの人生で何度かテレパシーと思しきものに出会った覚えがあるくらいだから、だれだって虚心坦懐に振り返ってみれば大なり小なり馴染みのある体験なのではないか(とりわけ恋人同士のあいだではさして珍しくもないだろう)。



 もはや多言を要すまい。こうした自己と他者が物理的な制約を離れ、時空を超えて交流しあうテレパシーとは、脳(身体)と心(意識)を持つ人類ならではの知能の形に違いない。その意味で、あくまで数学の集積のうえに成り立っているだけのAIをいたずらに恐れるのではなく、その怪物にはとうてい手の届かない領域として、ベルクソンが100年前に主張したとおり〈心霊研究〉に取り組むことにはいっそう重大な価値があると思うのだが、どうだろうか。