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杉並区 12 (30/10/24) 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村 (1) 本村

2024.10.30 14:03

杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村

旧下荻窪村 小名 本村

小字 川北

小字 街道附



一昨日雨で外出はできず、昨日は病院で定期健診・検査で朝から午後3時までかかり自由時間が取れなかった。検査結果は異常なしで一安心。今日は晴れで杉並区の史跡巡りを再開する。


杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村

下荻窪村は、北は青梅街道、南は新田街道、東は田端村、西は上荻窪村に囲まれた地域で、現在の荻窪一~五丁目、上获一丁目、南荻窪一、二、四丁目に相当する。村のほぼ中央を斜めに、西から東へ流れる善福寺川の両岸にわずかな低地があり、それより南と北へゆるやかな台地が拡がっている。中世には、上下荻窪村は一ヵ村だったが、井荻の荻窪は、当時まだ上下に別れず単一の荻窪村だったが、1590年 (天正18年) に徳川家康が関東へ入国し、検地を行い、行政の便宜上で広い村を細分したとき、荻窪は武州多摩郡上荻窪と下荻窪に別けられたものと考えられている。下荻窪村は善福寺川の北岸の小名本村と、南岸の小名忍ヶ谷戸 (しのびがいと) に分かれていた。地元では、本村を川北、忍ヶ谷戸を川南と呼んでいた。

江戸時代の初期は、下荻窪村は、伊賀忍者 (伊賀組) の隊長服部半蔵、上荻窪村は伊賀同心八名の知行地だった。忍びの者が領有する谷戸という事で、忍び者の谷戸と呼ばれ、後に者が省略されて、忍谷戸になり、大正時代から「しのびがやど」と呼ばれるようになったという。江戸時代初期の服部半蔵の知行地だった頃の逸話が伝わっている。

昔、荻窪が服部半蔵の領地であった頃、半蔵は忍ヶ谷戸の百姓へ、雨が三粒でも降ったら仕事をやめて博打を打てと奨励していた。雨の日には忍ヶ谷戸で賭博場が開帳される事が世間に広まり、諸国から大勢のならず者が博打をしに集まってきて、半蔵はこのならず者から諸国の情勢を収集していた。後に博打が禁止になっため、半蔵は賭博場を公認した罪で、御国替えになったという。
慶長年間 (1596年~1615年) 頃に、下荻窪村は江戸幕府直轄の天領となり、後、1635年 (寛永12年) に麹町日枝神社領となっている。日枝神社領 (下荻窪村、阿佐ヶ谷村、天沼村、堀ノ内) となった後、1672年 (寛文12年) の検地では前検地時に比べ、耕作地が倍に増え他のだが村の石高と年貢は以前のままに据え置かれた。日枝神社の働きかけがあったと推測される。上荻窪村に比べて年貢は半分、下井草村に比べ三分の一だった。村人は年貢が低い事や、日枝神社の行事の際の賦役で伝馬役が免じられていたので、非常に住みやすい地域だった。

明治時代に入り、日枝神社領の特権が廃止され、税負担率は他の地域と同じになり、江戸時代から三倍になっている。

1889年 (明治22年) の町村制施行で、下荻窪村は、当初、杉並村へ編入される予定だったが、学校区の問題から、上井草、下井草、上荻窪、下荻窪の四ヵ村が合併して、井荻村が成立している。下荻窪村は井荻村大字下荻窪となり、小名本村は青梅街道に沿った土地という意味で小字街道附と従来から呼ばれていた小字川北に、小名忍ヶ谷戸は小字忍ヶ谷戸、あとから開けた土地という小字原、小字南に再編成されている。

また、1889年 (明治22年) に、甲武鉄道 (現在の中央線) が開通し、1891年 (明治24年) に青梅街道沿いに荻窪駅が開業したが、当時は鉄道を利用したのはごく僅かの人だけだった。この地域の発展が始まったのは、大正12年の関東大震災で都心から郊外への移住が増えた事、更に1926年 (大正15年) に土地整理事業で広範囲にわたって住宅地が造成された事が寄与している。更に第二次世界大戦では都心は大きな被害を受けたが、この井荻地域は被害が少なく、移住者が増加している。



杉並区 旧井荻町 (井荻村) 旧下荻窪村 小名 本村

江戸時代に日枝神社山王領となっていた下荻窪村小名本村は1889年 (明治22年) に大字本村となり、小字川北と小字街道附に分割されている。その後、1932年 (昭和7年) の町名変更で、小字川北は東荻町と荻窪3丁目の一部、小字街道附は荻窪3丁目の一部と荻窪4丁目になり、更に1969年 (昭和44年) の住所変更で旧小字川北は荻窪三丁目と荻窪四丁目となっている。

明治時代までは民家の分布はほとんど変化がなく、民家は青梅街道など道沿いに集中している。大正時代末期から昭和15年頃には民家分布は拡大し、戦前にはほぼ全地域に住宅地が広がっている。現在ではかつての畑はほとんど消え失せて全土が住宅の密集地となっている。


小字 川北

小名 本村の西半分が1889年 (明治22年) に小字 川北となっている。川北の由来についての記述は見あたらなかったが、多分、善福寺川の北側という意味なのだろう。


荻窪駅

1889年 (明治22年) に、甲武鉄道 (現在の中央線) が開通し、1891年 (明治24年) に青梅街道沿いに荻窪駅が開業している。当時は駅周辺には民家が2軒ほどしかなく、原野状態だった。運賃が高く、また徒歩での移動に慣れていた事もありう、わざわざ、鉄道を利用したのはごく僅かの人だけだった。1906年 (明治39年) に甲武鉄道は国有化されている。1909年 (明治42年) には中野駅 - 吉祥寺駅間複線化され、1919年 (大正8年) には電化されている。1921年 (大正10年) に西武軌道が乗り入れている。当時はまだ南口だけだったが、1927年 (昭和2年))  に北口が新設され、南口と北口は連絡路の陸橋が設置された。

戦後は、1963年 (昭和38年) 東改札側地下コンコースができ、1966年 (昭和41年) に複々線化が行われ、帝都高速度交通営団 (営団地下鉄) 東西線が乗り入れし、交通の要所となっている。


稲荷神社

荻窪駅南口の前にある駐輪場の奥が樹々に囲まれた稲荷神社がある。この稲荷神社の情報は見つからなかったが、明治時代の地図を見るとこの辺りには民家が密集しているので、地域の鎮守だったのか、個人宅の屋敷神だったのかも知れない。現在でも柵が施され、大切にされているようなので、地域の鎮守社の可能性が高いのではないだろうか。


観音押出し (かんのんおんだし)

青梅街道から現在の荻窪駅へ向かう白山通り商店街の道は江戸時代には観音押出し (かんのんおんだし) と呼ばれていた。観音通りといわれたこともあり、古寺の光明院の創設とともにできた荻窪のもっとも古い道で光明院への参詣道だった。押出し (おんだし) とは大きな道との出会うという意味や、坂道での荷車後押し業の事を言う。


荻窪白山神社

観音押出しを線路に向かって進むと道沿いに荻窪白山神社の鳥居がある。ここから伸びる長い参道の先に旧下荻窪村小名白幡の鎮守の荻窪白山神社が建っている。祭神を伊邪那美尊 (伊弉冊尊 いざなぎのみこと) とし、後土御門天皇の文明年間 (1469年~1487年) に、関東管領上杉顕定の家臣中田加賀守が、知行一千町歩を領して荻久保村に住したという。管領 落居の後、中田加賀守はこの地の百姓となり、名を大学と改め、生まれ故郷の加賀白山の白山比咩神社より分神を勧請し邸内に五社権現社を建てたのが始まりと言われている。江戸時代には五社権現社と呼ばれ、荻窪光明院が別当寺として管理していた。

白山神社は昔から歯の神様としての民間信仰があり、現在でも歯のお守りなどを配布している。赤ちゃんのお宮参りでは男児には白い箸、女児には赤い箸が授与される。この歯の神様の逸話が伝わっている。

中田加賀守の弟兵庫が、あるとき激しい歯痛に悩まされました。その晩「汝、わが社前に 生える荻を以て箸を作り、食事をなせば歯痛忽ち癒えん 夢々疑うことなかれ」との、神様のお告げがありました。 翌朝、兵庫はお告げの通り、荻の箸で食事を摂ると、不思議にも今までの歯痛が嘘のように治りました。この噂が村人に拡がり、遠くからも歯痛に悩んでいる人々が参拝に来るようになり、歯痛が治った人は、御礼に荻の箸を神社へ納めるならわしが自然に生まれました。


石鳥居 (一の鳥居)

参道入口には、1916年 (大正5年) に氏子中より寄進された石鳥居が置かれ、その側には1940年 (昭和15年) に奉献された近衛文麿書の白山神社社号碑 (右下) が立っている。


奉納記念碑

石鳥居からは拝殿まで約150mの参道が伸びている。石鳥居を入った参道の脇には記念碑が置かれている。1915年(大正4年) の秋大典記念として氏子中より寄進された花崗岩敷石記念碑 (左下)、同年に寄進された境内接続地畑地226坪 (右下)、境内接続地山林315坪 (下中)、1949年 (昭和24年) に寄進された31坪の土地に関わる四基の記念碑になる。


石鳥居 (二の鳥居)

参道を進むと燈籠が二対ありその先に1916年 (大正5年) に氏子中より寄進された石鳥居が建っている。この石鳥居をくぐる境内になる。


手水舎

石鳥居をくぐり境内に入ると猫の石像がある手水舎が置かれている。猫が持っている白玉から水が流れ出す様になっている。元の手水盤は明治3年に寄進されたが、現在の手水盤 は新しいものになっている。この後、幾つか猫の石像を見かけることになるのだが、これは1967年 (昭和42年) の改築の際に、十二支の瓦が奉納されたが、当時の神主が「仲間はずれになるのは可哀想」ということで、十二支にない猫の石像を設けたという。

早速、手水舎の裏で石のまねき猫がいた。


神輿庫

参道右手側には神輿庫がある。神輿庫には、約563kgもある立派な神輿など三基が収納されている。この内の二基は1928年 (昭和3年) に奉納されたもの。


社殿

参道両脇には狛犬一対、その先に燈籠一対が置かれて、奥に社殿が建っている。

1865年 (慶応元年) に拝殿本殿の大改築が行われたが1968年 (昭和43年) に環状8号線拡張により改築となり、繁華街の中心にあるため、防火上、やむを得ず、木造建築ではなく耐火鉄筋コンクリート造りになっている。この時に狛犬も奉納されている。

社殿には弘進社が1898年 (明治31年) に奉納した繭玉の奉納額などがあるそうだ。弘進社は養蚕組合で、当時の井荻村の繭の生産が盛んで、豊多摩郡中第一位の生産高を誇っていたそうだ。


神楽殿

境内には1931年 (昭和6年) に新築された神楽殿が置かれている。ここには1967年 (昭和42年) に奉納された神輿大太鼓が納められており、武蔵国総社の大國魂神社の太鼓に次ぐ都内2番目の大きさだそうだ。神楽殿の前の垣根の中に猫の石像が置かれている。荻窪のなごみ猫と呼ばれている。東日本大震災の際に神社社務所を含め荻窪の街々は大打撃を受け、十二支の祀られていた屋根の瓦もすべて壊れ落ちてしまった。その中でこの石の猫だけは何事も無かったかのようにその笑顔を湛えていた。のんびりと昼寝をしている姿を参拝者に見せることで不安や心 を痛めた人たちの心を大いに癒やし和ませたそうだ。そんな猫たちの姿を大切に思い、参拝者の心がなごむよう感謝と祈りを込めてねむり猫、 なごみ猫と呼ばれる様になったという。


境内末社 (正一位稲荷神社、田守稲荷神社、三峯神社)、狐霊奉安庫

神楽殿の隣には境内末社が集められている。末社の鳥居を入ると先ずは明治2年祀られた正一位稲荷神社 (右下) と(明治39年) に街道附にあった田守稲荷神社 (左下 鎮守稲荷大明神 1687年 [貞享四年] 再建の棟札) が合併されている。

その奥には三峯神社が置かれている。ここにも猫の石像があった。

更に奥には祠が置かれている。狐霊奉安庫とある。多くの神社を訪れたが狐霊奉安庫は初めて見る。奉安庫や奉安殿は戦前や戦時中に天皇皇后の御真影と教育勅語を収めていた金庫を言うのだが、ここでは狐の霊を納めているのだろうか?


杉並公会堂

杉並公会堂は1957年に音響設備等が優れた最先端ホールとして開館し、東洋一の文化の殿堂と呼ばれた。杉並区の文化的シンボルとして区民に親しまれ、数々のテレビ番組の収録が行われていた。

現在の公会堂は、2003年に旧公会堂を取り壊して改築し、2006年6月1日にリニューアルオープンしている。1,190席の大ホール、194席の小ホール、オーケストラのリハーサルなど練習室の160名のグランサロン、その他スタジオが5室ある。


神明山

荻窪高校の南部分は大正時代までは神明山と呼ばれていた。善通寺川からは緩やかな登り坂なので、昔はもう少し高い丘になっていたのかも知れない。この名の由来は不詳だそうだが、この地域には 神明通りなど、「神明」と名のつく地名が幾つかある。


地蔵菩薩立像

神明山の北西、桃井第二小学校の前に地蔵が祀られている。この地蔵菩薩についての情報は見あたらなかったが、江戸時代の地図を見るとここには村の道が桃井第二小学校を突っ切りように通っていたので、村人が何らかの理由で道沿いに建てたのだろう。花が供えられており、現在でも地域住民に大切にされているようだ。



小字 街道附

小名 本村の東半分が1889年 (明治22年) に小字 街道附となっている。街道附の由来についての記述は見あたらなかった。


タウンセブン

荻窪駅北口の前にタウンセブンとビルがあり、多くの商店がビルに入っている。この場所には戦後すぐにヤミ市現れて、その後、発展し、1946年 (昭和21年) に食料品、衣料品、雑貨などを扱う1区画3坪の小さな店舗150店が集まって荻窪新興商店街 (新興マーケット) となっていった。地元の人々の最も親しまれ、当時は、まだヤミ市の雰囲気を残していた。

その後、荻窪駅北口地区市街地再開発事業により、1979年 (昭和54年) にビルへの建て替えを開始、1981年 (昭和56年) にマーケットの跡地に荻窪タウンセブンが建てられ、マーケットの店舗を収容しオープンしている。


春木屋

タウンセブンから駅前ロータリーを過ぎた青梅街道沿いに荻窪ラーメンの老舗の春木屋が営業を続けている。荻窪ラーメンの始まりは1931年 (昭和6年) に創業した天沼の中華そば店といわれている。戦後、荻窪駅前に誕生したヤミ市にもラーメン店が生まれ、後に青梅街道沿いに店が建ち並ぶようになった。春木屋は1949年 (昭和24年) に屋台から営業を始め、多くの著名人が通っていたという。


庚申塔 (番号無し)

荻窪駅南口から道を東に進むと、アメックス・インターナショナルのビルの前庭に庚申塔が残っている。この辺りは旧青梅街道が走っていた場所になる。庚申塔は自然石文字型で、1847年 (弘化4年) に造立されたもの。庚申塔の表面には大きく 「庚申」 と刻まれ、裏面には 「弘化四丁未 歳十一月吉日 願主 下荻久保村 中田村右衛門 建之」 と刻まれている。


岩本、明治天皇御小休所

庚申塔がある辺りはかつては岩本と呼ばれたていた。昔、庚申塔の南側にはおきん茶屋という休み処があり、茶屋の屋号が岩本だったので、戦後までここを岩本と呼んでいた。その場所には江戸時代は名主の中田家の屋敷があり、その長屋門が復元されている。ここの当主が中田村右衛門で、先程訪れた庚申塔は彼が建てたもの。

この屋敷の敷地内にあった茶屋風の茅葺屋根の建物があり、明治天皇が小休所として使ったこともある。

現在では復元されているが、非公開で見る事は出来ない。また、江戸時代には善福寺池周辺が将軍家の鷹狩の地であり、第11代将軍徳川家斉が鷹狩の際に、度々、休憩に立ち寄ったと伝えられている。


立教寺

天沼陸橋の南の住宅街の中に小さな寺がある。円光山妙成就院立教寺という天台宗の寺で木造不動明王立像を本尊として祀っている。開創及び開山は不詳だが、昭和初期から杉並区内で布教活動をしていたが、1932年 (昭和7年)にこの場所に堂を建てで中興したといわれる。敷地は狭く境内などは無く、建物にの前に石仏や板碑が置かれている。


西郊ロッジング

立教寺から南に行くと古い建物が残っている。壁面に大きく西郊ロッジングと出ている。1931年 (昭和6年) にこの地で西郊ロッジングの名で下宿屋を始め、当初は洋風本館のみで、1938年 (昭和13年) に洋風新館が増築されている。現在では新館のみが西郊ロッヂングと呼ばれ、本館は西郊という旅館 (写真右下) になっている。2001年 (平成13年) に改修され、現在は賃貸住宅となっている。国の登録有形文化財に登録されている。


御不動山 (おふどうやま)

小字 街道附の南端、春日橋の東側の一帯を大正時代迄は御不動山 (おふどうやま) と呼んでいた。このあたりは山林で、その一部に不動明王の石塔があったことからそう呼ばれていた。善福寺川の南の住民が青梅街道に出る道で、急坂があり荷車の難所とされていた。


これで本村の史跡めぐりは終了。このあとは下荻窪村のもう一つの小名だった忍ヶ谷戸に移動する。


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)