津堅先生門下生発表会
今年もありがたいことに師匠の津堅先生門下生発表会の審査員を務めさせていただきました。
津堅先生門下発表会は音楽大学の学生が出演しますが、単に演奏するだけでなくコンクール形式で点数が付き、1位から最下位まで全員公表されます。2月に実技試験を控えた学生さんたちにとっては事前に人前で演奏できて、その上評価をもらえる点では非常に有意義なものとなっています。
そして今年は31回目!平成と共に歩んできた歴史があるんですねえ。
昔は高校生(音大受験生)部門というのがありまして、それを含めれば僕は7回目に当たるときに受験生で、8回目から11回目に出演していたことになります。そ、そんな前なのか。未だに全部覚えてるんだけどなあ...。
4年生の最後のチャンスの前日、管打楽器専攻の追いコン(追い出しコンパ)が学校であって、飲まされすぎて超絶二日酔いのまま演奏して大失態をしたことを今でも悔やまれます。
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真面目なことを書くと、今回とても強く感じたのが、楽譜に書いてあることを忠実に再現しようとする姿勢はとても強く感じたのですが、そのもう一歩先が欲しかった点。
演奏者の落とし穴のひとつに、楽譜を絶対の存在を思ってしまうことが挙げられます。楽譜の情報を充実に再現した先に音楽の完成がある、そんな気持ちなのでしょうか。
僕はほんの少しだけ編曲をしますが、例えば元気一杯に演奏して欲しくて「f(フォルテ)」を入力したその後、全然違う恐怖感を煽るようなシーンの最高潮にもやはり「f(フォルテ)」を入力します。
仕方がないのです。それしか記号がないから。
大きな音が鳴るところはとりあえずf(フォルテ)なんです。これ、ある意味妥協して書いている。
楽譜はそういった作曲者が書ききれなかった(込めきれなかった)部分を演奏者は感じ取り、読み取る必要があります。テンポを遅くするrit.(リタルダンド)も、なんで遅くするのか、遅くしたかったのか、遅くなるとどうなるのか、その次はどうなるのか、作曲者の意図を読み取らなければ、ただの機械的なテンポダウンにとどまってしまいます。
これがまず奏者の仕事のひとつです。でもこれだけでは足りません。
作曲者の意図を読み取ったら、次はそれに自分のイメージを投入します。そうしないと単なる作品の再現者に止まってしまうから。それだけで音楽が済むんだったら完璧な奏者が音源を作ってくれればそれで十分になってしまいます。
音楽の面白さ、興味深さ、同じ作品を何度も演奏する意味や価値は、作品を奏者がどのように解釈し、表現するか、そこにあります。
そうやって作り上げたものを聴く人(客席)に誤解なく届ける。それにはたくさんの技術が必要です。
ということで、ここまでが奏者のお仕事なのですが、今回の発表会では、楽譜に書かれたものをきちんと正確に再現する(そのクオリティは高い!)ところまでの人が多かった。試験やコンクールかもしれないけれど、それだって音楽であることに変わりはないのですから、この作品を自分はこうやって演奏するんだ!というのをもっと出して欲しいと思う発表会でした。
世の中の大多数は音楽理論や楽器の知識をほとんど持っていません。音大の中にいるとみんな音楽の知識が高い人ばかりなのでつい忘れてしまいますが、ひとたび学校の外に出てしまうと、「ハイドン1楽章の再現部、インターバルが難しいよね」とか「トマジの最後のHigh D決められるなんてすごいね!」とか、そんな話題普通は一切出てきません。そもそも生演奏を間近で聴く経験など(多分)みんなほとんどないし、クラシックですと言った瞬間毛嫌いする人もいるレベルですから、「トランペットって良い音だね!」「あなたのファンになった!」「今後どこで演奏するの?CDないの?」みたいな展開に持っていくなんて、よっぽどのことですよね。
僕は以前ららぽーと豊洲でパイプオルガンと毎月コンサートをしていましたが、たった2分程度の作品を最後まで足を止めて聴いてくれる人が圧倒的に少ないという経験を5年間し続けましたからとてもよくわかります。それがどんなに有名な曲でも子どもに大人気のアニメの曲でも、です。
話がそれましたが、音楽ってもっと自由でいいんじゃないかな?と感じます。音大のみなさんは技術力はホントに高いので、あともう一歩踏み出して欲しいな、と思う次第でございました。
では、1,2,3年生のみなさんは実技試験も楽しんで演奏してください。
発表会お疲れ様でした。
荻原明(おぎわらあきら)