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杉並区 14 (01/11/24) 旧杉並町 (杉並村) 旧成宗村

2024.11.02 05:14

旧井荻町 (井荻村) 旧成宗村

小名 矢倉 (やぐら)

小名 尾崎 (おざき)

小名 白幡 (しらはた)



今日は、東京での杉並区巡りの5日目。杉並区の旧成宗村を訪れる。



旧井荻町 (井荻村) 旧成宗村

この地に成宗村の地名の起こりの伝承がある。

昔、中野左衛門尉成宗、時宗、正宗という三人の兄弟が殿様の命令で、矢倉台の見張り役に派遣されてきて、見張り役を勤めながら食糧を自給するため、原野を開墾したのが村のはじまりで、兄の名を取って成宗村になった。

1625年 (寛永2年) 頃、成宗村と田端村は岡部小右衛門忠正の領地で、両村とも水田が多い村で住民は善福寺川流域にのみ住み、台地はまだ開墾されていなかった。領主岡部忠正の先祖は、岡部六弥太忠澄で、1184年 (寿永3年)  に源氏軍に参戦し、一の谷の戦いで、平清盛の弟薩摩守忠度を討ち取り、武名を天下に轟かせた。その後裔の忠正は、小田原北条氏の重臣松田尾張守康秀に仕えたが、秀吉の小田原城包囲作戦の際、主人の松田康秀が秀吉方へ内通したことが露顕し切腹させられたとき、忠正は主人康秀を介錯し、その首を高野山へ葬り、隠棲した。その後、家康に召し出され、関ヶ原の合戦で大阪城攻略戦に出陣し、数々の武功を立て、千五百石の旗本に取り立てられ、成宗、田端村その他の土地を受領している。忠正が領地境の青梅街道へ植えた杉苗が杉並木に成長し、後世、杉並の地名が生まれている。1698年 (元禄11年) に忠次の孫の忠直の代に領地替えがおこなわれ、成宗、田端村は幕府直轄の天領 なり、新しく幡羅 (はら)、男衾 (おぶすま)に領地を受領している。

江戸時代には、成宗村は矢倉、白幡、尾崎の小名で構成されていた。1889年 (明治22年) の町村制施行で成宗、田端、天沼、阿佐ヶ谷、馬橋、高円寺の六ヵ村が合併して、杉並村が成立し、成宗村は東多摩郡杉並村大字成宗になっている。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、江戸時代の小名矢倉は成宗一丁目に、小名尾崎が成宗二丁目に、小名白幡が成宗三丁目になっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、従来の旧小名ベースでの区割りから河川や道路を境界にした町名地番に改定され、郷土史の解明と研究が非常に困難になっている。成宗一丁目 (旧小名矢倉) の大部分と東田町 (旧小名関口) と成宗三丁目 (旧小名白幡) は、成田東一~五丁目になり、成宗一丁目 (旧小名矢倉) の一部と成宗二丁目 (旧小名尾崎) と西田町二丁目 (旧小名大ヶ谷戸、日性寺) は、成田西一―四丁目になり、西田町一丁目 (旧小名田端、高野ヶ谷戸) は、荻窪一丁目と三丁目に改称されている。

1932年 (昭和7年)の町名変更の頃から成宗一、三丁目に住宅が建ち始め、1934年 (昭和9年) に井之頭線浜田山駅が開業してからは、成宗二丁目にも新築住宅が見られ、その後、年毎に畑は住宅地となり農村から都市化へと進んでいった。太平洋戦争中には、この地域のほとんどは空襲の被害を受けなかった事で平穏な緑多い住宅地として益々発展し、戦後は善福寺川が改修されて、低湿地帯も住宅適地となり、1958年 (昭和33年) に、成宗田園の水田地帯が埋め立てられて、52棟350戸の阿佐谷団地が、本村田圃の水田跡にも26棟875戸の荻窪団地が建設され、その周辺にも個人住宅が増加して急激に住宅街へと変貌している。



小名 矢倉

小名矢倉の由来について新編武蔵風土記稿に「矢倉、四方田圃にて高き場所なり、伝へ云ふ。鎌倉時代より陣屋櫓のありしを、その後、太田道灌の持となり、家臣某をして守らしめしを、道灌滅亡にいたりて廃したりと、或は云ふ、成宗が柵跡なりと、このことまことならんには、後、陣屋櫓ありし処へ成宗移りて籠居せしなるべし。此の辺りに鎌倉街道跡ありといふ」と記している。ここに陣屋櫓があったので、小名矢倉の地名が生じたそうだ。江戸時代の小名矢倉は 1889年 (明治22年) の町村制施行で四つの小字 (東杉並、西杉並、天王前、屋倉) に分割されている。小字東杉並と西杉並は、江戸初期に領主岡部氏が青梅街道に杉の木を植えたので、杉並と呼ばれ、東地区と西地区に分けて、それぞれ東杉並、西杉並と名付けられた。小字天王前は、江戸時代に牛頭天王社と呼ばれた須賀神社が祀られている事から天王前の地名となった。小字屋倉は小名矢倉の中心地域で矢倉から屋倉と変えている。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、江戸時代の小名矢倉は成宗一丁目となり、更に、1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、成宗一丁目 (旧小名矢倉) の大部分と東田町 (旧小名関口) と成宗三丁目 (旧小名白幡) は、成田東一~五丁目になり、成宗一丁目 (旧小名矢倉) の一部と成宗二丁目 (旧小名尾崎) と西田町二丁目 (旧小名大ヶ谷戸、日性寺) は、成田西一―四丁目に改称されている。


成宗須賀神社

南阿佐ヶ谷駅の南西に旧成宗村本村の鎮守だった成宗須賀神社があり、素盞嗚尊 (すさのおのみこと) を祭神として祀っている。社名は出雲の須賀神社 (須我神社) にちなんでおり、別当寺は宝昌寺だあった。神仏混淆では素盞嗚尊は牛頭天王の化身とされ、江戸時代にはこの神社は牛頭天王社と呼ばれており、この地域は明治時代には小字天王の前と名付けられた。神社の始まりは不明なのだが、伝承では、承平天慶の乱 (平将門の乱 935年 ~ 941年) の後、941年 (天慶4年)に安房守平公雅によって創建され、1599年 (慶長4年)に再建されたと伝えられている。明治維新後、明治5年には成宗村の村社に列格され、村社として人々の信仰を集めていた。当時は氏子63戸をかかえていた。


鳥居、石橋供養塔 (150番)

石造りの鳥居を入ると広い広場の境内になっている。鳥居を入った所には石橋供養塔が置かれている。1778年 (安永7年) に成宗村講中25人により造立されたもので、石塔正面には 「奉掛石橋二十一ヶ所 天下泰平国土安全」 と刻まれている。神社の隣の旧弁天池の畔にあったものが移設されたとも言われている。


狛犬、手水舎、神楽殿

広場から社殿へは階段を登り向かう。階段の上には狛犬が鎮座している。

右の狛犬の側に手水舎が置かれている。左側には神楽殿が建っている。この神楽殿は1958年 (昭和33年) に社殿を新築した際に、旧拝殿を神楽殿に改築したもの。


社殿 (拝殿、幣殿、本殿)

境内奥には1958年 (昭和33年) に新築された社殿が建てられている。


御嶽神社、稲荷神社

社殿横には境内末社が二社建てられている。向かって右側には日本武尊を祀る御嶽神社が置かれている。

左側には宇迦之御魂命を祀る稲荷神社がある。


神輿庫

社殿の東側にももう一つ鳥居が置かれた入口があり、そこには神輿庫が建てられ、中には神輿が数基納められている。


水琴窟 (成宗の滴)

境内の隅に水琴窟が作られていた。昨日も角川庭園でも造られていた。説明板には 「遠い出雲の地から飛んできたから雨が一滴、二滴、水琴窟に落ちていると知 像しながら、竹筒に耳を当て滴の奏でる音色に聞き入るうちに、清々しい(須賀々々しい)気分になることが出来ましたら 、これ以上の喜びはございません。」 とある。刺さっている竹筒を通して澄み切った優しい音が聞こえてくる。


成宗五色弁財天、浅間神社、大日如来像 (149番)

成宗須賀神社の隣には成宗弁財天社が鎮座している。創建年代は不詳だが、成宗村の開村と同時期に、水神の加護を祈って、湧水池(神社裏手にあった弁天池)のほとりに建立されたのが始まりと伝えられているといわれ、弁天講中の人々により手厚く守られてきた。現在は成宗須賀神社により維持管理されている。

参道には三体の地蔵菩薩が置かれている。向かって右には1723年 (享保8年) に造立された丸彫の合掌地蔵菩薩立像で、1730年 (享保15年)、1740年 (元文5年)に故人が二名追加されているので供養塔になる。中央のものは身代わり地蔵菩と刻まれており、1961年 (昭和36年) に成宗弁天講により造立されている。左端には1957年 (昭和32年) に造立された丸彫の月輪を背に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が置かれている。

弁天社の祠には鎌倉時代に江ノ島弁財天で焚いた護摩の灰を練り固めて作ったと伝わる素焼きの曼荼羅像 (右下) を神体として祀っており、中央に剣を携えた弁財天、その周囲に十数体の童子などが浮彫されているそうだ。裏面には手形が捺され、指の部分に「天長七年 (830年)七月七日 於江島弁戝天法 秘密護摩一万座奉修業 以其灰此像形作者也」の刻印、手のひらの部分に空海の名と花押がある。江戸時代に型取りされ全国に頒布された複製品のひとつとみられている。

弁天池はかつてはこのあたりの村々の水信仰の中心地で、日照りが続くと人々は雨乞いのため、この弁天社にお詣りをして弁天池の水を持ち帰る習慣であったという。(下の写真は埋め立てられる前の弁天池)

中野村・高円寺村・馬橋村の名主らが中心となり、水量が豊富な善福寺川の大谷戸橋付近から水不足に悩む桃園川流域への分水を目的として、1840 ~ 41年 (天保11 ~ 12年) に開削した新堀用水(天保用水)の中継池として利用された。分水した水をこの弁天池に引き入れ、水位を上げて、北方を流れる桃園川に流していた。善福寺川と弁天池間の台地には地下水路を掘って水を通し、江戸時代に既に高度な土木工事が行われたが、完成直後、川獺の巣による漏水、大雨により土手が崩壊してしまい、一部路線を変更し、再度工事を行っている。

浅間神社の鳥居前に残る石橋・水路跡 (写真左) は新堀用水(天保用水)の名残りだそうだ。弁天社の祠前には新堀用水路が建設された40年後の、1880年 (明治13年) に用水利用者が、先覚者の苦労に感謝を表し、功績を後世に伝えるために造立した天保用水記念碑 (写真右) が旧弁天池の竹藪で見つかり、この場所に移設されている。

新堀用水(天保用水)工事の際に行われた弁天池の拡張工事で出た残土で富士塚が築山され、成宗富士、泥富士と呼ばれていた。この富士塚は、高さ12メートル程の大きなものだったという。頂上に大日如来の石像を安置し、中腹には浅間神社を祀り、麓に手水鉢や惣同行の石碑が置かれていた。大日如来石像は1845年 (弘化2年) に成宗村、烏山、内藤新宿他六ヵ村の人々により造立、手水鉢は (天保15年) に江戸講中により、惣同行の石碑は1845年 (弘化2年) に造立されている。大正初期頃までは富士登山・榛名詣り・大山詣りの年には、弁天池で水ごりをして、道中の安全を願ったという。この富士塚は、1918年 (大正7年) 頃にとりこわされたが、大日如来像 (149番 右下)、惣同行の碑 (中中)、浅間神社 (上)、手水鉢 (左下)などは、この弁天社に移設され、かつての成宗富士のおもかげを伝えている。


鎌倉街道、矢倉台跡 (共立女子短期大学学生寮)

小名 矢倉には昔は鎌倉街道の一本が走っていた。成宗弁財天社の前から次に訪問する共立女子短期大学学生寮の西を通っている。


この鎌倉街道の東側には見張り台があったという。矢倉台と呼ばれ、この小名の名の由来になっている。この矢倉台には成宗村の始まりについての伝承が伝わっている。

昔、中野左衛門尉成宗、時宗、正宗という三人の兄弟が殿様の命令で、矢倉台の見張り役に派遣されてきて、見張り役を勤めながら食糧を自給するため、原野を開墾したのが村のはじまりで、兄の名を取って成宗村になった。

この矢倉台は鎌倉時代から陣屋櫓が置かれており、その後、太田道灌の家来が常駐しており、太田道灌滅亡後、中野成宗兄弟がこの地に移り矢倉台を管理していた。現在の共立女子短期大学学生寮の場所と考えられている。


成宗墓地、お釈迦塚の地蔵と釈迦像、儀右衛門塚碑、中野時宗墓碑

1889年 矢倉台跡のすぐ東には成宗墓地がある。墓地の塀の外側に石仏や石塔が集められている。この中にかつて存在していたお釈迦塚 (成田東5-21) にあった釈迦座像(1692年 [元禄5年])と地蔵菩薩立像が塚が1952年 (昭和27年) に住宅地に造成された際に消滅し移設され置かれている。お釈迦塚は円形に盛土され、そこには石室らしいものがあり、人骨が出土したとか、石室などは無く出土したのは石だったとまちまちの言い伝えがある。

墓地は施錠されており中には入れないのだが、墓地内には儀右衛門塚 (成田東5-41 右下) から移設した碑があると資料には載っていた。外から探すと自然石の石碑裏側の上半分だけが見えている。(正面写真は借用)1956年 (昭和31年) に住宅地造成で消滅した儀右衛門塚には樹令数百年とみられる藤の古木が生え茂り、その下に、元禄三年銘の庚申塔 (宝昌寺へ移設)、儀右衛門塚の碑、寛文八年銘の庚申塔 (宝昌寺へ移設)、宝暦九年銘の地蔵菩薩像が、一列に安置されていたそうだ。儀右衛門塚についての由来には諸説ある。

  • 昔、儀右衛門と言う武士が、病気のため戦場へ行けなくなったので、穴を掘って中に入り、中で鉦をたたいて、この鉦の音が聞こえなくなったら、自分が死んだも のと思ってくれと、村人へ言い残して生き埋めにして貰い、数日後に亡くなったので、儀右衛門塚と呼ばれるようになった。
  • 明治維新の際に、傷ついた上野彰義隊の敗残兵が、高津儀右衛門と名乗って、この地で行き倒れ絶命したので、遺骸を庚申塚へ埋め、後、その霊を弔って儀右衛門塚の碑を建てたので、それ以来庚申塚を儀右衛門塚と呼ぶようになった。
  • 明治維新の際、上野の戦で傷ついた高津儀右衛門ら数名の彰義隊の落武者が、官軍に追われ、多少の縁つづきの野口家を頼って落ちのびてきましたが、野口家では、敗残兵をかくまってあとでお咎めを受けることを恐れ、かくまうことを断りました。儀右衛門等はいまはこれまでと切腹し果てたので、その遺骸を庚申塚へ埋葬しました。たまたま、野口家では子供が生まれても、生後まもなく死ぬことがつづいたので、当主の三右衛門は、儀右衛門等を助けなかった祟りではないかと思い、儀右衛門等の霊を慰めるために、この石碑を庚申塚に建てた。それ以降、庚申塚は儀右衛門塚と呼ばれるようになった。儀右衛門塚碑はこの野口家の墓所内に移されている。

儀右衛門塚碑の隣には野口家大先祖時宗之墓と書かれた墓碑 (大正6年造立 写真右下) が置かれている。これは先程訪れた矢倉台で見張り役だった野口三兄弟の次男の時宗がお釈迦塚 (右上) に葬られたという。大正の初め頃に野口家では災難が続き、時宗の慰霊の為に墓石を建て供養をしたもの。


成宗田圃

矢倉、白幡、関口の台地の大部分は、江戸初期の慶安から寛文の初めにかけて(1650 ~ 1660年) に開発された新田で、成宗田圃と呼ばれた。開発された新田は大部分は畑だった。1664年 (寛文4年) に、検地が行われ、石高が増えた地域の成宗新田は小名白幡に、田端新田は小名関口となっている。江戸初期には戦国の動乱、関ヶ原の戦、大阪の陣、お家改易などで主家を失った多くの浪人たちが仕官の口を求めて江戸に集まっていたが、召抱えてくれる大名はなく江戸の街作りの労働者となっていった。江戸の街作りが一段落すると、働き口がなくなり、職を求める浪人の不平不満が増大し、江戸市中の治安が悪化した。幕府は江戸市中の浪人調べをおこない、浪人抱え置き禁止令を出して、江戸市中より浪人を追い出し、帰農をすすめた。この様な時代背景があり、新田開発に従事し土着した人々の多くは失業武士だった。

かつての成宗田圃の東半分には1958年 (昭和33年) に阿佐ヶ谷住宅が建設された。敷地面積約53,000㎡、総戸数350戸で、豊かな自然の中にゆったりと並ぶしゃれたテラスハウスが人気となり、ドラマのロケ地やコミックの舞台になり、公団住宅の「聖地」として語り継がれている。

阿佐ヶ谷住宅は老朽化などにより 2013年 (平成25年) に解体され、跡地にはプラウドシティ阿佐ヶ谷が建てられた。


中層住宅で敷地内には広場や小公園なども造られてゆったりとした空間のつくりになっている。


遊歩道 (新堀用水跡)

矢倉台から東の坂道を下ると、かつての新堀用水跡と交わる。現在では暗渠となり、遊歩道 (写真上) が整備されている。北からの地下用水路が地上に出た所になり、善福寺川に向かって伸びている。住宅地を通り (写真中)、善福寺川緑地の北の端 (写真下) に沿って西に伸びている。この部分は地下用水路だったので、この部分の遊歩道が当時の新堀用水かどうかはわからなかった。緑地北から大きく北に曲がり、昨日訪れた天神橋公園の遊歩道を通り、新堀用水の取水口があった善福寺川まで続く。



小名 尾崎

尾崎の地形は台地が低地の成宗田圃の方へ突き出ており、この地形を陸先 (おかざき) と呼んでいた。陸先 (おかざき) が「おさき」と呼ばれ、尾崎と書くようになったという。また、別の説では源頼義が奥州征伐の折に当地で見た白幡のような雲の尾のあたりを尾崎と名付けたという。

1889年 (明治22年) の町村制施行で江戸時代の小名尾崎は三つの小字 (原、道角、尾崎) に分割されている。小字原は、尾崎台地で最も開発の遅れた地域で野原だったことから原と呼ばれた。小字道角は、伝承に江戸防御のために五日市街道をわざと直角に曲げて作られた地区という事で道角と呼ばれた。小名尾崎の中心地はそのまま尾崎が小字となっていた。1932年 (昭和7年)の町名変更の施行で、江戸時代の小名尾崎が成宗二丁目になっている。更に1962年 (昭和37年) に町名変更が行われ、成宗一丁目 (旧小名矢倉) の一部と成宗二丁目 (旧小名尾崎) と西田町二丁目 (旧小名大ヶ谷戸、日性寺) は、成田西一―四丁目に改称されている。


尾崎熊野神社

矢倉台跡から坂道を下り善福寺川に架かる矢倉橋を渡ると尾崎熊野神社になる。尾崎熊野神社は神社の東南脇に総本家屋敷を構えていた安藤一族が住んでいた。安藤氏の先祖は鎌倉時代末期、1312年 (正和元年) に武蔵国に定住したと伝わり、この熊野神社 は、安藤氏が一族の氏神として勧請し、祭祀を司っていた。創建年代は不詳だが、大宮八幡宮や成宗白山神社とほぼ同年代の創建と言われている。いずれも素戔嗚尊(すさのおのみこと)の子である五十猛命 (いそたけるのみこと)、大屋津比咩命 (おおやつひめのみこと)、抓津比咩命 (つまつひめのみこと) の三柱を祭神とし、旧成宗村の鎮守で、江戸時代には、宝昌寺が別当を務めていた。明治維新後は、神仏分離により大宮八幡宮の神職が兼務するところとなっている。

また、1968年 (昭和43年) に社殿改築のため、境内地の一部(社殿裏手)を売却することになり、発掘調査を行った。境内から縄文時代早期 (井草式) の土器片、縄文時代前期(諸磯式)、約6000年前の土師器時代 (鬼高式) の住居址 (尾崎熊野遺跡)、弥生時代、古墳時代の遺物が発掘され、古くからこの地には人間が住んでいたことがうかがわれる。


一ノ鳥居、道角橋欄干

家と家の間に立つ一ノ鳥居から参道が伸びている。参道の途中には、「道角橋」と橋名の彫られた欄干が残っている。これは旧五日市街道にあったが1921年(大正10年) に整備された際に埋め立てられた小川に架かっていたもの。明治時代にこの神社に合祀された猿田彦社も南側の小字道角にあったので、その縁で移設したのだろう。


ニノ鳥居、狛犬、手水舎

木製のニノ鳥居をくぐると境内となり、参道両脇に1936年 (昭和11年) に奉納された狛犬が鎮座している。社務所の前には手水舎が置かれている。


クロマツ神木

境内の拝殿の前にはクロマツの大木があり、しめ縄が掛けられている。神社の御神木で、杉並区内でも有数の樹木の一つで、樹齢約400年と推定されている。


社殿 (拝殿、本殿)

社殿は1754年 (天和3年)、1811年 (文化8年)、1926年 (大正15年) に改築され、現在の本殿は1969年 (昭和44年) に鉄筋コンクリート造りで新築され、向拝は1978年 (昭和53年) に増設されている。本殿では以下の三柱の神が祀られている。

  • 五十猛命 (いそたけるのみこと): 大屋毘古神、須佐之男命の子神、林業の神様
  • 大屋津比売命 (おおやつひめのみこと): 樹木の女神、須佐之男命の子神、五十猛命の妹
  • 抓津比売命 (こつひめのみこと): 樹木の女神、須佐之男命の子神、五十猛命の妹


境内末社 (稲荷社、猿田彦社、御嶽社)

社殿横には、1908年 (明治41年) に小字原にあった稲荷社、五日村内小字道角にあった猿田彦社、御嶽社を境内に合祀し、現在では境内末社として祀られている。猿田彦神社と稲荷神社は一つの合殿に祀られている。

そのとなり、社殿との間にある小さな祠には御嶽神社も祀られている。


神楽殿、神輿庫、社務所

その他、境内には神楽殿 (写真左)、神輿庫 (右上)、社務所 (右下) が建てられている。


宝昌寺

熊野神社一ノ鳥居前の道を南に進むとかつての熊野神社別当寺だった白龍山宝昌寺がある。ここにはまだ桜の花が残る4月8日に来ている。この時は本堂が工事中だったので、その後、工事完了したかと思い再訪した。掲載している写真はその時のものも含めている。現在の宝昌寺は曹洞宗の寺で、本尊として釈迦牟尼如来坐像を祀っている。創建年代は不詳だが、室町期作の真言宗密教系木造大日如来坐像や板碑が現存している事から、室町時代には真言宗の寺か庵があったと推測される。大日如来坐像は真言宗だった当時の本尊だった。境内地からは1313年 (正和2年) と、1380年 (康暦2年) の板碑が出土、矢倉台から出土した1430年 (永享2年) など20基あまりを保存されている。1594年 (文禄3年) 頃に中野成願寺五世葉山宗朔 (ようざんそうさく) によって中興され、曹洞宗に転宗したと伝わっている。江戸時代の宝昌寺は、成宗村の檀那寺として村民の信仰の拠りどころだった。また、村内の牛頭天王社 (須賀神社)、稲荷社、白山神社、熊野神社の別当寺でもあった。


地蔵菩薩立像、石橋供養碑

参道入口の右側に、2体の地蔵像が置かれている。向かって右側には1713年 (正徳三年) に建造立された丸彫りの錫杖と宝珠を携えた延命地蔵菩薩立像と、その隣には交通安全を祈願して1971年 (昭和46年) に建立された月輪を背に、錫杖を持ち、幼児を抱き抱えた地蔵菩薩立像が安置されている。入口左側には、1864年 (文久4年)に建てられた山型角柱の石橋供養碑が立っている。この石橋供養碑は移設されたもので、もとは小字道角の用水路の石橋の傍らに建てられ、道標も兼ねて東江戸道と刻まれている。


山門、庚申塔 (129番)

山門の左手前には1690年 (元禄3年) 造立の駒型石塔の庚申塔があり、正面上部には日月が刻まれ、合掌六臂の青面金剛像、その下に三猿が浮き彫りされている。この庚申塔は元々は儀右衛門塚より移されたもの。


六地蔵

山門を入った左には六地蔵が堂宇の中に置かれている。


庚申塔 (130番、131番)、馬頭観音 (126番)

六地蔵の隣には三基の石仏がある。二基の庚申様のうち、右側は儀右衛門塚より移されたもので、1668年 (寛文8年) に造立された杉並区内最古の宝塔型庚申塔 (130番) になる。日月が刻まれ、邪鬼を踏みつけた合掌四臂の青面金剛尊、その下に三猿が浮き彫りされている。四臂の青面金剛像は珍しく杉並区内では唯一のもの。左側は、1690年 (元禄3年) 造立の宝塔型庚申塔 (131番) で、日月が刻まれ、合掌六臂の青面金剛尊座像と三猿が浮き彫りされている。座像の青面金剛像は珍しい。これら二基の庚申塔は儀右衛門塚二あったものをこの寺に移設している。この二基の庚申塔の脇には丸彫りの月輪を背にした三面八臂の馬頭観音座像 (126番) が置かれている。元々は、成田西交差点付近の願主民家の前に1816年 (文化13年) に造立されたものをここに移設している。


万霊供養塔、如意輪観音像 (133番)

万霊供養塔の上の中央に、1694年 (元禄七年) に造立された念仏供養塔の舟型石塔に如意輪観音座像が浮彫りされている。


地蔵菩薩庚申塔 (132番)

墓地入口には杉並区内最古の地蔵菩薩像が置かれている。1663年 (寛文3年) に造立された舟型石塔で錫杖をついた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。「爲諸善男庚申功力供養菩堤 奉造立地地蔵尊」 と刻まれており、庚申塔でもある。庚申塔に地蔵菩薩が刻まれているのも珍しく、17世紀半ば頃迄は、先に見た四臂、座像や、猿田彦、阿弥陀、三猿の様々な像の庚申塔があり、その後は合掌六臂青面金剛立像が定番となり、江戸中期から後期にかけては、庚申塔あるいは庚申と文字のみ彫り付ける文字型が増加している。


本堂

1856年 (安政3年) に大暴風雨で本堂庫裡が倒壊し、その再建工事の完成寸前 に火災を起こして全焼火災に遭い、本堂は焼失した。1886年 (明治19年) に本堂庫裡が再建されている。現在の本堂は1921年 (大正10年) に建立したもの。今年4月8日に訪れた時は建て替え工事中 (写真右上) で本堂は見る事ができなかった。今日再訪してみると、完成間近ではあるがまだ工事中 (下) だった。ここの住民に聞くと来年早々には終了予定とのことだった。写真左上は工事前の本堂の姿。


豊川殿

参道の先には豊川殿が置かれている。明治末年に付近一帯が飢饉に襲われた時、人々の災難消除と五穀豊饒を祈願して、愛知県の豊川稲荷から分霊し小祠を建立。その後、大正時代頃から近在諸村に豊川稲荷信仰が広まり、一 時は十ヵ村に講中が生まれ、豊川稲荷本社への代参者が50人になるほどの盛況を呈していた。現在の小祠は、1963年 (昭和38年) に再建したもの。


三年坂

宝昌寺の北側塀沿いの道は善福寺川緑地に向けて下り坂になっている。昔はもっと急な坂道だったそうだ。この坂は三年坂と言われている。名称の由来は、はっきりしていないのだが、様々な言い伝えがある。この坂で転んだものは、3年きり生きられないとか、3年たつと死ぬとか言われていた。この伝承と同じものが、東京神楽坂の三年坂 (三念坂) にも伝わっていた。



小名 白幡 (しらはた)

1051年 (永承6年) に源頼義が、奥州の阿部貞任征伐の途中、中野郷広原で軍を休ませた時、空中に白旗がたな引く様な白雲を見て、これは八幡大神の加護の現れで、必ず勝利すると言い、討滅後、この地に宮を造営すると祈願したと伝わる。実際に源頼義が戦いに勝ち、凱旋の途中に宮祠を建てたと言う。この事から、白旗の覆った地を白旗と呼び、旗の尾の先を尾崎と称するようになったというのがこの地の名の起こりだそうだ。

別の説では小名 白幡は、台地の広い畑だったので「広畑」と呼ばれていたが「ひ」が「し」になまって「白畑」になり、後に「白幡」と書くようになったという。

小名白幡は原野だったが、江戸初期の慶安から寛文の初めにかけて (1650 ~ 60年)、成宗村の村民によって新田開発が行われ、成宗新田と記され、検地後、小名白幡となっている。

1889年 (明治22年) の町村制施行で江戸時代の小名 白幡は三つの小字 (白幡、東白旗、台原) に分割されている。小字東白幡は、白幡台地の東部地区なので東白幡と呼ばれ、小字台原は、白幡台地の最も開発が遅れた地区で当時はまだ原野だったので「台地の原」 を省略して台原と呼んだという。


馬頭観音 (141番)、地蔵菩薩立像 (140番、142番)、白幡の坂、馬場み

宝昌寺から三年坂を下り道を進み善福寺川に架かる尾崎橋を渡ると旧小名白幡に入る。橋の南側の緑地は尾崎田んぼと呼ばれた農地だった。道を進むと三叉路になる。右に進むと白幡の坂 (南の道)、左の道 (西の道) が馬場みちでいずれも急坂だったそうだ。白幡の坂沿いに于堂が置かれている。于堂内には三基の石仏が置かれている。向かって右側から見てみると

  • 地蔵菩薩 (140番): 1698年 (元禄11年) に造立された念佛供養の舟型石塔に月輪を背に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。
  • 馬頭観音 (141番): 1760年 (宝暦10年) に造立された舟型石塔に三面六臂の馬頭観音立像が浮き彫りされている。
  • 地蔵菩薩 (142番): 1753年 (宝暦2年) に念佛講中16人により造立された舟型石塔に錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像が浮き彫りされている。

地蔵菩薩 (138番、139番)

馬場みちから成宗白山神社に向かって南に道を進んだ途中に墓地がある。墓地を入った正面に二体の地蔵菩薩像が置かれている。

  • 地蔵菩薩像 (138番): 1792年 (寛政4年) に女中講中17人により造立された丸彫の錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像
  • 地蔵菩薩像 (139番): 1832年 (天保3年) に念佛講中より造立された丸彫の錫杖と宝珠を携えた地蔵菩薩立像

その裏には無縁墓があり石仏や石塔が集められている。


庚申塔 (137番)

白山神社の入口の脇に庚申塔が置かれている。1702年 (元禄15年) に造立された唐破風笠付角柱の庚申塔で欠損と風化が激しい。角塔正面には青面金剛像に三猿が浮き彫りされている。この庚申塔は村人が善福寺川の南岸から禍いが白幡へ入ってこないように祈って、現在地より100mほど西の村道脇に建 立したもの。


成宗白山神社

更に道を南に進み和田堀公園の手前に成宗白山神社がある。成宗白山神社の創建年代は不詳だが、源頼義が奥州征伐に向った後冷泉院(在位1045~1068)の時代に創建したと考えられている。旧小名白幡の鎮守で伊弉册命を祀っている。源頼義が奥州征伐の途中、この地で空に白幡がなびくような雲をみて、勝利の現われだと社を勧請したと伝わる。江戸時代には村内の宝昌寺が別当職を務めていた。現在は大宮八幡宮の兼務社となっている。


石鳥居、手水舎

庚申塔にある石鳥居をくぐると手水舎が置かれている。以前は社殿近くにあったものをここに移設している。


両部鳥居

東側にも神社への入口があり、朱塗りの木製両部鳥居が置かれている。


春日燈籠、狛犬

参道には階段があり、階段下には春日燈籠が置かれ、階段上には狛犬が置かれている。


社殿 (本殿、幣殿、拝殿)

社殿は1972年 (昭和47年)に鉄筋コンクリート造りで新築されている。2009年 (平成21年) の鎮座九百年記念事業で本殿屋根葺替え、境内整備が行なわれている。


御嶽神社、稲荷神社、金刀平神社、第六天神社

境内末社の御嶽神社、稲荷神社、金刀平神社、第六天神社はもとはもう少し左側にあったが、2014年 (平成26年) に現在地に合殿を建て祀っている。


社務所、神輿庫

境内には1980年(昭和55年) に新築された社務所と神輿庫が置かれている。



これで予定していた旧成宗村の散策は終了。明後日は無脛の結婚式に出るのだが、家族からは強硬に髪を切ること事を要求された。一年程、散髪をせずに伸ばし放題だった。子供のころから散髪屋に行くのは大嫌いだった。今は自由な生活をしているので、あまり身だしなみには気を使う必要もなかった。本人は髪の事はあまり気にしていないのだが、結婚式主役の娘の他のみなので、この帰りにしぶしぶ散髪屋に行った。


参考文献

  • すぎなみの地域史 3 井荻 令和元年度企画展 (2019 杉並区立郷土博物館)
  • すぎなみの散歩道 62年度版 (1988杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 19 杉並の地名(1978 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 36 杉並の石仏と石塔(1991 杉並区教育委員会)
  • 文化財シリーズ 37 杉並の通称地名 (1992 杉並区教育委員会)
  • 杉並区の歴史 東京ふる里文庫 12 (1978 杉並郷土史会)
  • 杉並 まちの形成史 (1992 寺下浩二)
  • 東京史跡ガイド 15 杉並区史跡散歩 (1992 大谷光男嗣永芳照)
  • 杉並区石物シリーズ 1 杉並区の庚申塔
  • 杉並区石物シリーズ 2 杉並区の地蔵菩薩
  • 杉並区石物シリーズ 3 杉並区の如来・菩薩等
  • 杉並郷土史叢書 1 杉並区史探訪 (1977 森 泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 2 杉並歴史探訪 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 3 杉並風土記 上巻 (1977 森泰樹)
  • 杉並郷土史叢書 4 杉並の伝説と方言(1980 森泰樹)