マリリン・モンロー主演『ナイアガラ』
彼女が13歳のころから
準備したものとは?
618時限目◎映画
堀間ロクなな
「13歳のころから準備が必要なのよ」
映画を観ていてなんの気なしに耳にしたセリフが、いつまでも耳の奥に残ってしまうという経験はだれでも覚えがあるに違いない。ヘンリー・ハサウェイ監督の『ナイアガラ』(1953年)に出てくる上記のセリフは、わたしにとってそのひとつだ。
アメリカとカナダの国境に位置する世界的な観光地、ナイアガラ大瀑布へ新婚旅行でやってきた若夫婦は、宿泊先のロッジに逗留していたもうひと組のジョージ(ジョゼフ・コットン)とローズ(マリリン・モンロー)のルーミス夫妻と知りあう。そのローズはまばゆい金髪に真紅のルージュを合わせ、ピンクのワンピースをまとって、下着をつけていない臀部を左右にくねらせながらピンヒールで歩いていく。そのありさまを見送って、若夫婦はつぎのやりとりを交わすのだ。
「おい、すごくセクシーだな。きみもあんなドレスを着たらどうだい?」
「あれを着るには、13歳のころから準備が必要なのよ」
そう、世に名高い “モンロー・ウォーク” がスクリーンにお目見えした瞬間だ。製作会社の20世紀フォックスは社運を賭けて新たなセックス・シンボルを送りだそうと、当時26歳のマリリンの初めての主演作品を企画したというから、この映画史上最も長い歩行シーンとされる、彼女の躍動する後ろ姿こそがいちばんのキモだったはずだ。その夜、屋外のダンス・パーティでローズは若夫婦にこんな歌を口ずさんでみせた。
いまこそ快感のとき 私を震えさせて
あなたの腕のなかに しっかりと抱き寄せて
そして私を最高に 満足させてちょうだい
さあ抱いてダーリン 私の愛を受け止めて
キスして 強く抱きしめてちょうだい
なんと、ふしだらであどけない魅力! まだケツの青かったわたしが目の当たりにするなり、下半身から這いのぼってきた戦慄が頭のてっぺんへと突き抜け、あっさり悩殺されてしまったのも無理はないだろう。そして、なるほど、ひとりの女性がここまでエロティックな生きものとなるのには、確かに13歳のころからの意志と鍛錬が必要かもしれない、とうなずける思いがしたのだった。
ところが、である。今度久しぶりに映画を見返してみて、どうやらかつては性欲に惑わされて肝心なポイントを見落としていたらしいことに気づいた。
マリリンが扮するローズは若夫婦に向かって、夫のジョージのことを「レターマン」と呼んでいる。これはサンフランシスコの陸軍病院を指し、実は、この映画が制作されたのはアメリカが朝鮮半島で激烈な戦争を繰り広げていた真っ最中のことで、ジョージは出征したのち極度の戦争神経症を患って送還され、くだんの陸軍病院の精神科を退院して、妻とともにナイアガラへ保養に訪れたという設定なのだった。しかし、ふたりの仲はすっかり冷え切って、ローズはひそかに若い愛人と密会すると、相手をそそのかしてジョージの殺害を企てることに……。
ただし、わたしが注目したのはそうしたミステリーの展開よりも、あくまでローズのセックス・シンボルぶり、たとえ悪女の本性をさらけだしてもなお魅力を発散してやまない姿のほうだ。すなわち、ニンフォマニアの妻ローズとインポテンツの夫ジョージとは表裏の関係をなし、それは物質的な繁栄を謳歌しながら絶え間ない戦争に明け暮れるというアメリカ合衆国の光と影に重なるものであり、こうした強烈なコントラストが世紀のセックス・シンボルを成り立たせたのだ。
だとするなら、とわたしは考え込んでしまう。あの “モンロー・ウォーク” を実現するために、彼女は13歳のころからどのような準備を必要としたのだろうか?