「やわい屋の新書」はじめました。
「民藝」とはなんでしょうか?
「これは民芸」「あれは民芸」ではない、そんな簡単に比べられるようなものではないでしょう。それは個々の営みに正解不正解なんてないことと同じです。
隣の芝生は青く見えるので、どうしても他者を羨んでしまいますが、そのように誰かと比べていてもキリがないことは、多くのひとが気がついていることだと思います。
「民藝」もまた然りです。悪いところを探すのではなく、優れたところを讃えあい、喜びのある生活のほうが僕は好きです。
「やわい屋の新書」第一弾は、読んでいてそんな気持ちにさせてくれる本「ぼくらの思う民藝的な本」を選ばせていただきました。
簡単に紹介させていただきます。
こちらの本は廃盤にならない限り、今後継続的に並べさせていただきます。
「やわい屋の定番」となる本です。
どうぞ末永くご贔屓のほどよろしくお願いいたします。
「柳宗悦随筆集・民藝紀行・南無阿弥陀仏」民藝の指導者であった柳宗悦の著作です。柳の言葉を知るのは「民芸」ということを考える上でなにより大切なことです。別に崇拝する必要はありませんが、「単語」を覚える意味でも眼を通す価値はあると思います。「民芸」は「物」を語るだけの言葉ではありません。今風に言えば「多様性社会の実現に向けた試み」のひとつであるとぼくは考えています。明治から始まる急速な西洋化によって日本は経済成長をなしとげましたが、失ったもののなかには多くの「本来の日本人らしさ」がありました。柳等民芸運動の同人が見つめ多くは、時代に取り残され今まさに消えてしまうとしていた多くの「自然とひとが共生している営み」から生み出される「道具」や「文化」でした。単に「道具」の部分を切り取ると「様式美」「プロダクト」で済まされてしまいますが、柳が民芸という言葉で見つめなおそうとしてものは、もっと根底的な「祈り」にも近い「ひとが自然と生きる術」のようなものであったとぼくは考えています。
民芸運動の同人であり柳の最大の理解者でもあった陶芸家:河井寛次郎のエッセー集「蝶が飛ぶ葉っぱが飛ぶ」柳が思想から民芸という東洋思想のしっぽをつかんだ人物だとすると。寛次郎は人間そのまま丸裸で自然というおおきな存在のしっぽを掴んだ人物でした。寛次郎の言葉には喜びが満ち溢れています。けして裕福とはいえない時代に生き、それでも日々のささいな瞬間に驚き喜び飛びはねるように作陶にむかいました。寛次郎の残した「この世このまま大調和」という言葉には、生涯名声に背を向け「美を追いかける」のではなく「美が追っかけてくる」世界に生きた寛次郎の生涯は、どこまでも貧しく清らかな祈りと喜びにあふれたものでした。
染色家:柚木沙弥朗の私生活を紹介した「柚木沙弥朗 92年の色とかたち」と、昨年民藝館で行われた展示会の図録「柚木沙弥朗の染色」柚木さんは染色家:芹澤銈介さんのお弟子さんで寛次郎と同じく「喜びのひと」だとぼくは思っています。柚木さんの作られる作品は、染めにとどまらず造形や絵にもおよびますが、その多くが蒐集された世界各国の民芸品や身の回りのものから切り取られ、いずれも瑞々しく楽しい気持ちにさせてくれるものばかりです。それは、谷川俊太朗の詩のようで、宮沢賢治の童話のようでもあります。絢爛豪華で精緻ものとは違い、揺らぎのあるお仕事は「自然光」のようなぬくもりを生活のなかにもたらしてくれます。
民芸的な思想をもって生活し製作している人はいますか?と問われたら、ぼくは間違いなく「生活工芸」と呼ばれる世界で活躍されているこのお三方のことをお話します。「三谷龍二:すぐそばの工芸」「赤木明登:二十一世紀民藝」「安藤雅信:どっちつかずのものづくり」偶然なのか昨年自身の工芸論を述べられる本が三冊相次いで発刊されました。現代作家で自らの仕事の意味「民藝」や「工藝」について本を出される方はほぼいません。しかし、これからはそのような本が増えるのではないかと僕は感じています。それは激動の昭和期に白樺派をはじめとして文学の世界で私小説がたくさん出されたことからもうかがい知れます。戦争を知らず、貧しさや耐えることも知らず、団塊世代ほど時代を達観することも出来ない我々はこれからの「大人」=「社会のなかで責任のある人物」はどのようなものなのか暗中模索していかなくてはなりません。それは柳宗悦等が模索した問いと同質であるように思います。社会や世界のことでなくもっと身近な「生活」と「営み」の話なのでしょう。
なんでここでこの本が?と思われるかもしれませんが、これからの時代を考えるうえで基本となることはこの一冊でなんとなく学べるような気がしています「落合陽一:日本再興戦略」たとえば民藝も日本のことを注意深く見ていった末に言われるようになったものではなく、当初は西洋的な立場から日本的なものを捉えようとしていました。過去を」学ぶのと同様に現代のテクノロジーや発想についても注視しておかなければなりません。ぼくらは別に「民藝」が世界を救うような思想だとはこれっぽっちも思っていません。というより、どんな素晴らしい思想やシステムであれ「無自覚な依存」は良い結果を生みません。理想的なコミュニティを目指した多くの先人が「守るために排他的になり」当初の崇高な理念を変質させてきたことをぼくらは知っています。大切なのは「ただしいこと」ではありません、誰がどのような考えを持っているかを知っておくことです。そして大きな問題に対しては適材適所の配置で一丸となって乗り越えていけたらいいのです。一丸となってバラバラに生きられたら、それをお互いが支えあえるのなら、それこそ持続可能社会ではないでしょうか。この本にはそのヒントが詰まってます。
お世話になっている哲学者の鞍田崇さんは「民藝にもとめられているのはノイズ化です」というお話をされています。まさにその通りだとぼくらも感じています。3.11以降ぼくらの日常が目に見える形でおおきく変異することはありませんでした。しかし表層ではなく深層でぼくらを支えてきた近代の原理の多くが歪み、破壊され、断片化されました。それもまた「ノイズ化」という現象であるように思います。正しくまとめられていた音は元の形がなんであるか分からないほど混線してしまいました。それはチューニングがずれたラジオのような状態で、皆があちこちで声高にてんでバラバラに主張を繰り返しています。そのようなノイズの時代において、壊れてしまったものを修復するにはどうしたらいいのか?仮にもともとあった周波数にあわせてもそこにはこれまでと変わらない「無反省で刹那的で消費的な活動」が繰り替えされるばかりです。ではそれに変わる新しい理想を立ち上げて声高に叫ぶ必要があるのでしょうか。ぼくらはそれも違うのではないかと考えています。これからの時代に必要なのは一見するとノイズにしか聞こえない様々な音に向き合い、ひとつひとつ音の糸を解いていき、あたらしい音楽を生み出すことではないでしょうか。それは「アンビエント=環境音楽」のようなもので、身の回りの音を細かに抽出し取捨選択をしたうえで、その環境に対して最適な形にチューニングすることです。「持続可能」というものが存在するとしたら、そのモデルは「自然とひとの共生関係」のなかにすでに存在しています。「こといづ:高木正勝」に書かれているのは、まさにそのようなこれからの時代をしなやかに生きていくための「ひとりよがりのものさし」のようなものではないでしょうか。
猪熊さんが好きです。多様性というものが人間の暮らしのなかに存在するとしたら、それは猪熊さんのアトリエのような感じになるのではないかと思います。上記で紹介した柚木さんもですが、あるいは柳宗悦もそうだったと思いますが「蒐集」というものは、その人の人柄をよく表しているように思います。まるで「おもちゃ箱」のように散乱したなかにもひとつの統一性が見える。それは「猪熊弦一郎」という人間というフィルターを通して選ばれたものに宿る「魂」のようなものなのでしょう古道具坂田の坂田さんが「ここから持ち帰ったらゴミになっちゃうよ」となにかに書かれていましたが、海で拾った石を部屋に置いてもなにか物足りないように、すべての「自然的なもの」は、ただそれだけ単体の存在ではなく、様々な物事や時間や空間と繋がりあっているからこそ「美しい」のでしょう。それは森や海の美しさと同様に、「個々が主張しあうのではなく、互いに共生関係にあることによって産まれる」そんな「調和の美しさ」なのではないでしょうか。