教育と洗脳
共同体は、同じ行動規範(norm)をもつことを求め、
そこから外れた人を異常、あるいは、劣悪とみなす。
(例: 国民国家、いじめ、差別)
教育という行為は、こういった同一性を求める共同体を形成・強化してきた一因ではないか。
カルト宗教などでみられる洗脳のように異質なものを許容できない身勝手なものではないか。
「教育」と「洗脳」の辞書的な定義は以下の通り。
教育
社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につくように、人を教え育てること。
また、それによって身に備わったもの。
洗脳
①資本主義的思想をもつ者に教育を施し共産主義的な思想に改造すること。
②その人の思想・主義などを全面的に改めさせること。
(明鏡国語辞典より)
「洗脳」の第一義に「教育」という言葉が使われていることに留意したい。
第二義は第一義と類似した事に対して同じ言葉が用いられ、意味がより一般的になったもので、
現在使われている「洗脳」は主に第二義の方である。
「洗脳」の第二義を、第一義を元に噛み砕いて表すと、
「ある考え方から全く違う考え方へ教育を施すことで変えること」であるといえる。
これは多くの教育者たちの行っている、または行おうとしている行動そのものではないか
しかし、洗脳は「人の思想を改造すること、改めさせること」であり、教育は「人を教え育てること」である。
つまり、人を一定の行動規範へ押し込めようとするのが洗脳であり、
ある程度社会から求められる行動規範を提示するものの、それに従うかどうかは本人にまかせているのが教育である。
(逆に、生徒の意見に根拠なく耳を貸さない、一方的で注入型の教育は洗脳的である、と言えよう)
「教育」の目的が「社会生活に適応するための知識・教養・技能などが身につくように」必要な情報を提示していくことだとするなら、
教育はどのようなものであるとよいだろうか。
※上記の定義だと「『社会のニーズ』を子供にしみ込ませるものが教育だ」とも解されうるが、
その『社会のニーズ』とやらは通時的かつ共時的に普遍的なものなのだろうか。