『孕む』著者:鋤名彦名
怖い夢を見た。それは私が彼以外の、しかも見知らぬ男に身体を許し、その男の子供を孕む夢だった。
私は彼を愛している。今こうして私の横で額にうっすらと汗を掻きながら微かな寝息を立てている彼の、その寝顔に私はとても愛おしさを感じる。普段の精悍な顔付きからはかけ離れた、まるで彼が男として生きる為の見栄やプライドみたいなものを全て脱ぎ捨てたような無垢な寝顔。どんなに狂暴な肉食動物でも鋭い牙を仕舞い、眠りに就いた時の顔は可愛く思えるような、そんな寝顔だ。私は目を潤ませながら彼の寝顔をじっと見つめた。その視線を感じたのか彼の瞼がゆっくりと開き、少し視線が宙をさまよった後、淡く照明に照らされた私の顔を捉えた。
「どうしたの?」
彼の声は弱々しく、まだ起きていない声帯を小さく振るわせ、なんとか喉を通したようなか細い声だった。その声はゆっくりと私の鼓膜に届き、そして溶けていくのを感じながら私は答えた。
「怖い夢を見たの」
「どんな夢?」
「浮気する夢」
「え、俺が?」
「ううん、私が」
そう言った瞬間、彼の目に男としての見栄やプライドが蘇ったような気がした。彼はその鋭い針のような視線で一瞬私を貫いた後、わざとらしく目尻を下げた笑みを浮かべて「浮気すんの?」と聞いた。
「そんな気無いよ」
「ならいいんだけど」
そう言うと彼は乾いた唇を私の唇に軽く重ねてから私に背を向けるように寝返った。
私は彼を愛している。彼の為なら全てを捧げる覚悟だって私にはある。そう思いながらも見知らぬ男に身体を許し浮気に興じる夢を見た。この夢は私に一体何を産み付けたのだろうか。この恐怖が彼への愛を次第に蝕んで行くのだろうか。彼の背中を見ていると私は夢の光景を思い出し、一筋の涙を流した。
見知らぬ男の子供を孕んだと分かった時、私は微笑んでいた。男も笑っていて、私達は幸せそうだった。
了