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偉人『モハメド・アリ』

2024.11.01 00:00

モハメド・アリことカシアス・マーセラス・クレイ・ジュニアは1942年1月17日、アメリカケンタッキー州ルイビルの中流家庭で生まれ育った。今回彼を取り上げるのは勿論今週月曜日2024年10月28日の子育てサジェスチョン『子供のハング精神の育み方』記事を描いたからだ。

アメリカのボクシング選手で好きな人物はという質問に対してマイク・タイソン、フロイド・メイウェザー・ジュニア、エドウィン・バレロなどの名を挙げる世界中の人々が多いであろうが、その質問を尊敬するボクサーは誰かと質問を変えると多くの人は『モハメド・アリ』と答えるであろう。なぜなら彼の人生の歩みを辿ると『反戦運動』『徴兵拒否により受けた弾圧』『平和運動と活動』『人種差別やパーキンソン病との闘い』とあげるだけでも不屈の精神がなければ乗り切ることができず誰をも彼の人生を真似ることができない強さが存在する。しかし彼にはその強さに辿り着くまでに自分自身が歩むべき進むべき道が偏見と差別の中に存在することを余儀なくされてきたのだ。

彼がボクシングと出会ったのは父に買ってもらった自転車に乗り友人と出掛けた近所のフェスティバルに関係していた。その自転車を盗まれ途方と怒りの感情を抱いていた時、そたまたま近くにいた警官のジョー・マーティーンに「犯人を捕まえて叩きのめしてやる」と訴えたのである。その発言を聞いたジョー・マーティーんは「ならば戦い方を知らなければならないから、自分のボクシングジムへ来い」と誘ったのである。根っからの真面目さを武器にはメキメキと実力をつけ、18歳でローマオリンピックライトヘビー級で金メダルを獲得した。当時のボクシング試合は殴り殴られというものが一般的で他のボクサーとは一線を画し技量才能がずば抜けていたアリは技量で相手が太刀打ちできない試合展開を繰り広げ勝利してしまうのである。観客はこれまでのような白熱した試合観戦の楽しみを味わうことができずアリの人気は出なかった。そこでアリは考えたのである。

試合の進め方は変えられない。ならば試合前にアクションを起こそうと。自分自身を誇大評価しKOノックアウトして見せるなど相手を挑発するような言葉をマスコミの前で発言し続けたのである。この行動が聴衆の心を掴みビクマウスと揶揄されながら注目を集め、そしてボクシング技術の高さをもって勝利をするアリの人気は鰻登りとなった。

そして人気絶頂の1966年ベトナム戦争が激化し彼は「何の罪も恨みもないベトコンに銃を向ける理由は私にはない。ベトコンは俺のことをニガーと呼んだこともない。」と語り徴兵を拒否したのである。ベトナム戦争はアメリカの民衆を巻き込んで勢いよく戦争へと突き進んでいたためアリに対してのバッシングは怒号のように凄まじかった。彼はどんな批判を受けようとも意思を曲げず戦争参加を容認することはなかった。そこからアリは参戦を後押しする民衆やアメリカ政府との戦いが始まった。禁固刑5年を受け罰則金は1万ドル(当時の金額で360万円)、それに加え彼のこれまでの人生で獲得した全てのタイトルが剥奪された。またそれだけにとどまることなく生活の基盤となるボクシングのライセンスも剥奪された、パスポートさえも没収されたのである。おそらく彼が白人であったならばそこまでのことはされなかったであろう。彼が生れながらにして受けてきた人種差別は彼が知名度を上げても尚歴然と行方を阻むように鋭く切り立っていた。

がしかしベトナム戦争が泥沼の様相を呈し親を亡くし逃げ惑うベトナムの子供達の映像がアメリカで流されると民意は一気に反戦に傾いていったのである。やがて彼の名誉が回復され3年7ヶ月のブランクを乗り越えリングに立てるようになったものの全盛期を通り過ぎたためか以前のような勝利を手にすることはできず思うように活躍することはできなかった。しかし彼の不屈の精神は抑圧された人間に当然備わるかのようなにその厳しい状況の中でも力を振り絞って今できる最善のことを尽くしたのである。それが今でも奇跡として語られる『キンシャサの奇跡』である。アフリカの大地で行われる試合は体力を消耗するため、アリは短期戦で勝利してきた相手との試合を長期戦に持ち込む策を立てた。自らロープにもたれ掛かり打撃を数ランドかわし体力を温存し、相手が疲れたと判断するや否や反撃に出たのであ。これは相手の戦い方の情報を分析し勝つために策を練ったアリの策士の一面を垣間見ることができる。転んでも仇では起きないハングリー精神の結実した瞬間であった。そこから勝利しを重ねたものの際どい判定や負けを繰り返しながらも何度も挑戦してはリングに沈みながらまた立ち上がるを繰り返したものの1981年の試合で引退し表舞台から姿を消した。そして1984年パーキンソン病を発症した。

1996年アトランタオリンピックでパーキンソン病のため震える手にトーチを持ち、聖火点灯に向かう彼の姿は痛ましくもあり過去の強い姿はなく弱々しい姿で現れたと感じていたのだが、聖火点灯に向かうわずかな距離を懸命に進むその姿に人間の強さを感じた。彼の人生は戦いを挑む人生であった。しかし闘争心むき出しの誰かを傷つけるような戦い方ではなく、人の命とは何か、人間の尊厳とは、平和や平等とは、そして難病と向き合うということや人生とは何かを考え続けた人生であり、大きく深い人生のテーマを生き切ったといってもいいだろう。

彼の有名な名言に『リスクを取る勇気がなければ何も達成することがない人生になる』と語っている。人間はリスクを取ることに勇気が出ず躊躇し、どうにかして現状を守ろうと考えるに至るのが一般的である。彼のような選択をするわけにもいかいなせよと子供達に教える母親はいないであろう。しかし不屈の精神を持つことができたら力強く生きていけるだろうとも考えるのではないか。ならば子供達に彼のような人物も世の中に存在していたんだと知らしめることはできるのではないだろうか。

多様性が求められる社世界的な潮流の中で比較的日本は人種差別が他国ほどは強烈ではない。しかし全く無いかといえば日本人社会の中でも差別意識はあり、自分自身の価値観と他者の価値観が違えばそれは批判の対象になったりするものである。しかし子供達には人間は表面的に判断するのではなく、内面から人を見て差別や偏見を行って良いのかと教え考えさせ多様性を認める人物への成長を促すべきであると考える。