【劒持奈央】VOL.③ 聖なる性とパートナーシップの伝道師の家族に起こった事件から辿り着いた愛とは?
次ページ→レイプ「被害者」として罪悪感を持ち続けてきた過去と、見ないようにしてきた「事実」
現実は想像を超えたところにあり「そうならないと分からない」
―もちろん、トントンの受けた「傷」は気になりますが、周りが過剰に「問題」にしていくことも多々あるように思います。
そうなんです。「事実」から目を背けて、「かわいそうな子」を創り上げてしまうことなんて簡単だな、とも思いました。例えば、「こんな大変なことをしたんだから」と言って、慰謝料を請求することもできてしまう。
そうすることで、気持ちの整理をつけたいことも分かります。でも、今回はそんな気持ちはなかった。 こういうことを言うと、本当に軽々しいと思われちゃうのかもしれないのですが、それは事実だから仕方がないんです。
―劒持家は、日常から感情を隠さずにストレートに表現されるお2人ですよね。
先ほどもお話しましたが、私もひでちゃんも、日常で「怒り」に触れることは多々あります。例えば、ひでちゃんはお店の店員さんに「接客の態度が悪い!!」と怒ることがあります。私も、ひでちゃんにすごく怒るし、子どもにも怒りますよ。
その人の「怒りが触れるところ」ってあるでしょう。それが、今回、おっちゃんの場合は何も触れなかったんですね。これが、「違うケース」だったら、全然変わっていたんだと思うんです。
―状況や関わる人が違えば、受けとり方も違う。
悪質な犯罪もありますし、結局人なんですよね。トントンが体験したこと、私たち親が感じたこと、おっちゃんという人、背景など、それらが組み合わさって起こったということが事実です。それ以上でも以下でもないんです。
だから、「たられば」で話しても、実際に分からないことの方が多いですよね。ひでちゃんは、怒りが源泉となって動く人だから、よく怒るし、こんなことがあったら相手を殺そうとしてもおかしくはないくらいなんです。
実際に、以前彼は「自分が人を殺す時があるとするならば、子どもたちに何かあった時くらいかな」と言っていたんですよ。
―でも、今回全くそんな気配はなかった。
はい。「本当にそうならないとわからない」ということです。いざそうなった時に、「殺そうとしない」彼がいたことが事実なわけで、頭で考えていることは当てにならないのだと思いました。 現実は、本当に想像を超えたところにあって、それは予測できることではないから。
特に「生死」が関わっていることについては、本当に何が起こるかわからない。今回のことがハナちゃんに起きていたら、また違かったと思います。だから何が良かった、悪かったではなくて、この時のこれが事実としてあった。
―そうですね。第三者は、その事実を自分の世界に当てはめてみてしまうことで、色々な受け取り方をするのではないかと感じます。
そう。「誘拐」や「事件」を自分や社会のフィルターを通して捉えてしまい、実際に体験している人や、その背景を無視して考えてしまう面がありますよね。
その固定されたイメージのものに対して、「自分はそうはできない」という反応があって、「自分がそう反応している事実」としてあるだけなんですよね。
「いってらっしゃい」それは、魂が何かに触れて自分を動かしていた
今回の事件が私たちの人生の転機にもなったのと同じように「おっちゃんの人生にとっても、変化していくきっかけになってほしい」し、そうなるのはみんなの「願い」だと思うんです。でも、それは本人次第です。こちらのコントロールできることではないし、未来に期待をしているわけでもない。
―そうですね。祈りに近いものですね。
そうです。おっちゃんは今回、自ら「治療したい」と初めて言ったそうです。「子どもにこんなことをした自分が本当に情けない」と反省していると。でも、口ではいくらでも言えるのだと警察から信用されてないのは事実で、その側面も、もちろん理解しています。
―どちらとも言えるし、それこそ分からないこと。
ただ、私は「信頼しよう」と思いました。でも、罪は罪だから、判決のもとで一番良い結果になることを願いました。結果的に、病院で治療できることになり、「一番良い形」となったんです。
裁判が終わり、検察官と向こう側の弁護士さんとみんなで「良かったね。一番いい結果になったね。」とお互いに感謝を伝え合いました。裁判は、私たち家族とご縁ある方々で傍聴しに行っていたんです。
一緒に行ったメンバーにも様々な背景や想いがあったんですね。だから、それぞれに意味ある体験になって。 それに、どこにも争うエネルギーや奪うエネルギーがなく、なんとも温かなエネルギーが裁判所に溢れていました。
ーなかなかそんな雰囲気の裁判はないでしょうね。
前回の裁判から約一ヶ月後、2回目の裁判は5分で判決が言い渡されて終わりました。その裁判は、トントンも一番前で見たんです。最後におっちゃんがこちらを振り向いて出ていく時に、トントンと目があいましたが、裁判のルール上、話してはいけないからじっと見つめ合っていました。
そのまま外で市の職員さんたちがおっちゃんを待っていて、車に乗って病院に連れて行ってもらう流れになっていたんですね。私たちは、「みんなでお見送りしようか」という話になりました。トントンにも「どうする?」と聞いたら、「お見送りする!」と言ったんです。
―トントンもお見送りしようと思ったんですね。
はい。おっちゃんが、裏口から出てきたときに少し話しをしたんです。まず、おっちゃんから謝罪の言葉がありました。それから、トントンの前に立って「この子か」とじっと目を見て「本当にごめんね」と言っていたのが印象的でした。トントンも「うん」と言って。
今思い出しても、人の本質の部分が伝わってきて、本当に胸が熱くなります。 でも、トントンは今を生きていて、ザリガニを捕まえたいから、網と虫かごを持ったまま「バイバイ」を伝えて、その後すぐ、堀へ直行して、ザリガニ捕りに1時間ぐらい夢中になっていました。
―そこにいた人にしか分からない、空気があった。
はい。私はその時、頭で考えるよりも突き動かされるように、おっちゃんの背中をさすって「いってらっしゃい」「治療頑張ってきてね!」と言っていました。
あの感覚は今でも鮮明に覚えています。トントンに「いってらっしゃい」と言うのと同じように、おっちゃんに「いってらっしゃい」をしている自分がいたんです。すごく不思議な感覚で、俯瞰して観ているもう一人の自分がいました。
ー同じ「人間」として見ているという感覚でしょうか。
そうです。誰が家族かとかではなく、同じ一人の人間として受けとめている私がいました。そこには、調和のエネルギーだけがあったんです。 そうしたら、涙がどっと溢れてきて。それはもう、《魂が何かに触れて自分を動かしていた》としか言えないんです。
そこには《善悪》は何もなく、本当に《調和の世界》しかなかった。このことを《魂は知っているし、私はこれを再確認するために、今ここにいるんだな》と思ったんです。 「ママの方が年上みたいだった。ママがおばあちゃんみたいだったね。」と子どもたちが笑いながらそう言っていました。
親の責任とは何なのか。人のせいにしないで、自分の人生に責任を持つということ
―今回のことで、何かトントンに伝えたことはありますか?
はい。私とひでちゃんで、トントンに伝えたことがあります。
「あなたの、誰にでも素直に飛び込んでいけるところは、めちゃくちゃ良いところだから、それは絶対になくさないでね。そして、そう生きることで、怖い面もあるし、嬉しいこともある。両方必ずあるよ。だから、自分の責任で選択していこうね」と話しました。
トントンは気を付けていても、一人でどこかに行ってしまいます。今回も退院して2日後には公園でおじちゃんからお小遣いをもらっていて。知らない人に挨拶をして、仲良くなって、可愛がってもらって、それが彼の日常なんですよね。
極端に言えば、ずっと監視して閉じ込めていられるのかというと、そんなことは不可能だと思うんです。
―管理して安全をとる方法に舵をきることもできますね。
そうですね。でも、《もう何が起こっても、産んだ私たちと彼の自己責任で、ここからは生きるしかない》と思いました。「こんなことがあったから、私たちが全力で守ります」とか、そちらの方が無責任に聞こえてしまって「できないな」と思ったんです。
やっぱり彼を産んだ私たちが責任を持つんだと再認識しました。そうでなければ、子どもを囲ってしまって可能性を摘んでしまうだけでしょう。だから、もう「この地球を楽しんでください」という感じでしかできないんです。
―なるほど。親は子どもに対して「放棄」でもなく、「監視」でもなく接するのが良い、なんて綺麗に言われがちですが、実際には、その家族に合った形のこたえを出すしかないなと感じます。
そうなんです。私たち夫婦の中では、本当に何をするにも全部が「自己責任」だと思ってやってきました。ハナを産むときから。ハナを出産する時、私たちは自然分娩を望んでいたのですが、子宮口が開く前に先に破水をしてしまいました。
産む場所として選んだクリニックでは、破水した場合は「分娩台でしか埋めない」決まりになっていたんですね。また、24時間以内に「陣痛がこないと促進剤を点滴される」となっていました。それが嫌で、何とか陣痛がくるようにひでちゃんと色々なことを試しました。
《赤ちゃんは、自分の「今出たい」というタイミングでこの世に自ら生まれてくる。その自然な赤ちゃんの意思を尊重したい》という想いがあったからです。
―うんうん。赤ちゃんは自分で決めてこの世界に生まれてくる。
そうして、色々試している間に、和室に行きたかったのですが、和室に行くには距離があり、医師からはリスクを考えて許可ができないと言われたんです。でも、「私たちが全部自己責任で、一筆書くから行かせてほしい」とお願いしました。
結果的に医師から許可は出ませんでしたが、助産師さんたちが気持ちを汲んでくれて和室に通してくれたんですよ。1~2時間そこでゆったり過ごせたことで、気持ちも緩んで「どこで産んでも一緒だ」と思えて、すごく良いお産ができた。
自己責任という言葉からそんな体験を思い出しました。
―お産も命がけ。真剣ですよね。その人の中にある純粋な願いに触れるって改めて大切だと感じました。
本当に。そこからずっと、子どものことを夫婦で考え、責任をもってやってきました。私たちの子育ては、一般的ではないと思っています。みんなで一緒に話し合って、子どもたちの「やりたい」を叶えるから、夜中までずっと起きていることもあります。
学校も行きたくないなら行かないでいい。でも、全部自己責任なんです。
―「自己責任」をちがう言葉に言い換えると、どんな言葉になりますか?
《人のせいにしない》です。それが、私たちの生き方になっています。それは、パートナーシップで学んできたことだから。だって、すぐに私もひでちゃんのせいにしたくなります。けれど、その責任転嫁を彼に指摘され、そこでまたカッとなって言い合いになる。
でも、また事実をみて自分の真ん中に戻るということを、お互いに十何年間繰り返してきました。それができたのは、やっぱり自分への信頼があり、愛が根底にあるからこそなんです。
私が今回の体験を通して受け取ったことはたくさんあったのですが、やはり大きかったことは、善悪の判断でどちらか一方に偏るのではなく、全ての事実の裏側に同時にある陰陽を受け止めながら包み込んでいく《マザーのエネルギー》に目醒めたことです。
―自分の中にマザーという「受け入れ、包み込んでいくエネルギー」を感じた、と。
そうなんです。私の内側に、こんなにも愛に溢れるエネルギーがあると知ることができました。日常に戻れば、またひでちゃんと言い合うこともありますが、そのエネルギーを思い出すと、また一段違うところから物事を見て、《真ん中に戻れる》ようになりました。
私のこれからの人生の指針になりそうです。 トントンは、きっと「このこと」をいつか振り返った時に、彼なりにまた受け取ることがあるのだと思います。ひでちゃんはひでちゃんで、ハナちゃんはハナちゃんで受け取ることがあったと思うんです。
私にとっては、自分の中に先ほどお話したような《マザーのエネルギー》があったのだということを思い出させてもらえたことに、「本当にありがとう」でしかありません。
人間は様々な感情に揺れながらも懸命に生きている。被害者意識や加害者意識に飲み込まれて自分を見失うこともあるだろう。彼女はそれについて、「自らが愛し守ってくれていただけ」と話してくれた。
そう思えたなら、根底にある愛を感じ、人間はいつからでも、どんな状況でも「自分を信頼して、自らの人生を生きることができる」と、メッセージを伝えてくれているように感じた。彼女自身、自分への罪悪感を長年抱えながら、苦しみ悩み生きてきた一人だ。
その彼女が、今回の事件を通して映し出された、今の真っ直ぐな「こたえ」を見せてくれた。その姿はとても美しかった。 人によって感情が揺れる場所が違う、ということが語りの中であった。「ただ事実を観る」ことは冷静な時は可能でも、感情が大きく揺れている時は、その事実の真ん中に立つことは難しい。
わたしを含め、人は見たくないものに蓋をして、比較的距離をとりやすい他者であったり、「過去」のことに紐付けて自分の本質から遠ざかる。
今回の私について言えば、記事の下書きの時点で、センシティブな内容であるが故に、「彼女の話を読者にフラットに見てもらいたい」という、ある種の「牽制とコントロール」が生まれていた。それによって、読者に起こり得る感情の揺さぶりを一部制御するような前提を置いていたり、一方で私自身が読者に影響を与えないように、「無機質であること」を過剰に意識していた内面が文章に表れていた。
それは、自分への疑いでもあったと思う。そこに彼女は「どんな揺れも一緒に感じたらいいよ」と話してくれた。私は自分の中で握りしめていた感情をゆるし、緩めることで、今一度、話し手と読者、そして自分を信頼して表現することにした。
揺れ動く感情をそれぞれが感じ、共にこの彼女のストーリーに入ってみようという位置に身を置いたのだった。 私たちは、他者にも、過去の自分にもなることはできない。すべては未知数で、「分からない」ことが事実だ。
今回の彼女の経験は、彼女の観た世界であり、私はそれに共感を求めてはいない。でも、だからこそ、自分と違う他者を知ろうとすることはできる。そう、違いを知り、自分を知ることはできるのだ。 人間は可能性に満ちていて、望むのであればどこまでも変化していける。
今回のインタビューで、そんなことを改めて気づかせてもらったように思う。彼女は今、コミュニティを立ち上げ、日常を共にすることで喜びも怒りも「そのまま」の自分を見せ、分かち合う場を育てている。
自然の力を借りながら、人間と人間が育み合いを重ねていく、そんな場に触れてみれば、「知らなかった自分」に出会えるかもしれない。
PROFILE
劒持奈央
聖なる性(錬金術)の探求者・愛の伝道師
1977年東京生まれ
2児の母
天真爛漫の少女時代を過ごす。夢を追い、好奇心旺盛だった15歳の夏、騙されてレイプに遭い、人生が劇変する。
性暴力からいのちを守るために自らの尊厳を明け渡してしまった体験から、自分と性が切り離され、本来の姿を生きられないもどかしさから摂食障害と鬱を患う。
あらゆる治療法を試みるものの解消されず、悶々とする中、目を背けてきた性と正面から向き合うこと(オーガズム体験の追求)で生命の源を目覚めさせ、その全てを解放する経験を持つ。
2013年より、実体験にもとづいて綴る女性限定メルマガ「セックスはまぁるい宇宙」を発行。メルマガから生まれた赤裸々で愛あふれるメッセージは、SNS・書籍・講演などを通して3万人以上の女性たちの心を揺さぶり、口コミで広がり続けている。
その後、2回の出産を通して、女性の身体に宿る創造性の神秘とオーガズムへの理解がさらに深まる。
2018年に淡路島へ移住。 現在は「いのちの営み」が身近にある暮らしを大切にしながら、聖なる性(錬金術)の探求と、女神性を発揮しながら生きる在り方を体現。
2022年より、性とお金とパートナーシップの講座“Sensual Beauty Awaking”を主催。聖なる性の真髄を伝えている。
【著書・プロデュース商品】
2014年12月「インカローズ美容液」を発売。
2015年4月 書籍「幸せなセックスの見つけ方~自分をまるごと好きになる『ひとり宇宙』レッスン~」を出版。
2016年7月 「たった一人の自分を満たせば、たった一人の男(ひと)と最高に愛しあえる。」を出版。
2021年8月「カレンデュラオイルTsuki」を発売。
MICOTO
共に生み出し、育み、奏であうコミュニティ
【SNS】
ブログ:https://ameblo.jp/re-born68/
Instagram:https://www.instagram.com/naokenmotsu
取材
はぎのあきこ
フリーインタビュアー / ウェルビーイング思想家
自分とまわりの環境とのつながりの中で、安寧を感じ幸福な状態を指すspiritual well-being思想を基軸として、「わたしたちはどう生きたいのか、どう死にたいのか」という正解のない問いを探究するため、独自のスタイルで取材・執筆をしながら、タッチケアやエネルギーワーク、ヒーリングを行うセラピストとして活動中。
保健師および看護師、教員として人の生死に触れ、「いのち」に直面してきた経験や最愛の祖母の死からの学びから自分の生き方、在り方を見つめ直すことが今の活動を始めるきっかけとなっている。「自分を知る」をテーマに生きる力を育み、体感して考える講義を得意としている。
取材や発信のテーマは、十人十色の「自分」という存在の美しさ、「いのち」がある今の喜びを伝えている。 情熱をもって「いのち」を尊重し生きている人への取材を2024年より自身のウェブサイトにて掲載スタート。
《主な講義》
2021年〜「生命倫理」「看護学原論」の一部講義
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