全ては霊的エネルギー
今日は霊能の話します。
私の体験的な話なので、うすーーく読んでください(笑)。
龍神、天狐、蛇神、眷属と言われるエネルギーや、
これらを使いとする「八百万の神」のエネルギーや、
西洋の神話に出てくるのも然り。
全てはエネルギーで、その象徴として龍神とか人間がわかりやすいように表現しているだけ。何も説明(言葉)や見るものとしての表現(象徴)がなければポカーンとしてしまう。
それだけ人間は感覚が鈍いから。
こうしたエネルギーと繋がるための、意識の波長を合わせるための、目印のようなものが、神様とか天使とか、眷属とか、そうしたものに例えているのだと。
ほんとはそんなの無くても「繋がります」といえば、いつでもどこでも私達は繋がることができる。それが高次であれ低次であれ、高級霊であれ、低級霊であれ、地縛霊であれ、何にでも繋がる。
だから、高次のこれと繋がるけど、あっちは必要ないとか、低級霊は除霊してやっつけようとか、そうした考え方はどこか違うということ。
それは自分で判断して「悪者」を排除しようという分離の動きになってしまう。
それに気づくまで数十年かかった。
なんでこれに気づかなかったんや!(笑)
小さいころから、霊感が怖くて、自分の感覚も怖くて、世界が怖くて、オバケ怖いし、取りつかれるのも怖いし、体調なんていつも悪いし、変もの見たり聞いたり。
どうすることも出来なかったけど、でも、私を守ってくれていた何かもいつもそこにあって。それは感じていた。現実的にも、霊能者が身近にいたし(笑)。いつも話を聞いてもらって助けてもらった。
でもある時、あまりに怖くて自分でシャッターを下ろした。
得体のしれない何かが入ってこないように…
何かわからない漠然としたその「恐れ」を回避しようとした。恐れを見ないようにした。
具体的な何かに恐れているのではなくて、恐れそのものを恐れていたんです。
恐れそのものというのは、ちょっと言葉で説明しずらいんですが…
例えば私は日常的な何か、現実的な何かに感情が触れることは昔からあまりなくて。仕事がないとか、家がないとか、お金がないとか、そんなことに悩む事ってなくて。なのに何かがいつも「怖い」。これが何なのか全然わからなかった。
でもそれはこの世界が「恐れの世界」であることを物語っていただけだった。
それは自分がそう信じて、自分がそう思っていただけ。
分離を信じて、恐れを容認して、自我としての見方をしていただけ。
そうした区別する世界の見方しか知らなかったから。
今ならよく理解できる。(内観の成果や!)
最近私が思うのは…
全てのエネルギーは全てにおいて共有されていて、個々別々に捉えるそれの中には「光」を共有している。その光に繋がれば、いつでもそのエネルギーをお借りすることもできる。
光を見れば、それ以外は何も見えなくなる。
その光は、無罪性(ノージャッジ)、無垢性、愛、といった普遍で昔も今も何も変わらずにあるもの、ベースが平安であることと理解している。
目の前に映るあらゆる偶像の中に、その光を少しづつだけど捉えることができるようになってきたみたいです。
そしたらなんか知らんけど、急に怖くなくなった。霊感発動しても怖くない(笑)
だから数十年ぶりに、昔下ろしたシャッターを開けてみたんです。
そしたらそこには「何も無かった」
なーーーんにもない(笑) うそーーーー(笑)
あの頃のような怖さがない。
疑うと、名残のような、うっすら何かを感じるけど、それもいずれ無くなっていくのだろうと確信的に思う。まだ馴染んでないだけ。
何も変わらない中に、怖さがない。
低次のものとか地縛霊的な?(笑) ものについてちょっと意識してみたけど、そうした低エネルギーの中の光のエネルギーを見ることを意図したら、嫌な感じがしない、怖くない、何も見えないし、そもそも感じない(笑)
あーーーー何も特別なエネルギーなんてものはなくて。高いとか低いとか、その比較は、人間的解釈なだけやんってなった。これが自我か!と(笑)
そうしたバラバラに捉えているものの中に、ただ一つの絶対的な「光」を共有している(光って言うのも比喩ですけど)。
その光を持っていない人はいない。その光を含まないものはこの世界に何もない。
それは人間的に区別した高次のものだろうが低次のものだろうが、そこには共通した共有した光がある。
だからこそ全てはひとつであると思えてくる。
恐れのない世界。葛藤の無い世界、攻撃のない世界。
あらゆる解釈をしてきた自我を脇に置いたら、何かが変わった。
何を意思して、どこに合わせて、何を見ることに集中したらいいか、それがちょっぴりわかった感じがする。
今はまだその光が小さくても、いつかその光で全ては覆われて、全てがひとつの光になるのだろうと思う。
そんな霊能なお話でした(^^)/