不老不死の仙薬
http://be-well-tokyo.co.jp/episode.html 【霊芝 エゾウコギについて】より
■霊芝のエピソード
霊芝(レイシ、Ganoderma lucidum (Leyss. ex. Fr.) Karst)はマンネンタケ科の一年生のキノコで、形態は系統により様々に変化する。肉質はコルク質様で表面はニスがかけられた様な光沢がある。別名万年茸(マンネンタケ)、霊芝草(れいしそう)。 「http://ja.wikipedia.org/wiki/霊芝、http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail54lite.html」に参考。 漢方の本番中国では、秦の始皇帝(紀元前246年に即位した)は三千人を日本の島々に派遣し永遠の若さを保つ霊薬である霊芝を探させたという物語がある。特に霊芝 エゾウコギについて事績は有名である。始皇帝は徐福に対して東方にあるという蓬莱国へ向かい、霊薬を持ちかえてくるようにと命じた。この蓬莱は日本の事を指していると記載されて、日本各地には徐福の最期の地といわれる場所が複数ある(徐福伝説)。霊芝とは、中国語では霊(タマシ)が宿る伝説的な植物のことである。 最古の漢方経典とされる『神農本草経』(西暦25年~220年)に数々の天然物がその働きによって「上薬」「中薬」「下薬」の3段階に分類されており、霊芝は「上薬」に分類され健康維持に役立つものと記されている。 霊芝は日本にも早くから伝わって、 『日本書紀』(720年)や日本最古の本草書である『本草和名』(918年)にもその名があり、健康を保つキノコとして知られた。 霊芝には様々な味、色、形のものがあり、一説では100種以上存在するといわれている。 未だに漢方の教本とされている中国の明の時代に編集された漢方書「本草網目」では色合いや味の違いから赤、黒、青、白、黄、紫の6種類の霊芝に分類されている。また同じ色の霊芝でも産地や栽培環境によって成長状態が違うので形によって肉芝、鹿角霊芝、半霊芝、霊芝などに分類される。
霊芝は日本では長野、岐阜、三重などに比較的多く生息しているが、天然の霊芝を発見することが難しく、これらの地域でも現在では人工栽培が主流となっている。
■《霊芝の人工栽培必要性》
霊芝は一年生の真菌であり、季節に合わせて収穫しないと中に含まれる有効成分は薄めてしまう(特に我が国の雨が多いから)。 霊芝の中に200以上の成分は含まれている。多くのが身体にとして重要な成分である。
エゾウコギ
■エゾウコギのエピソード
エゾウコギ(蝦夷五加、学名:Eleutherococcus senticosus;Acanthopanax senticosus (Rupr. et Maxim.) Harms)はウコギ科の落葉低木で、薬用植物。 北海道、サハリン、千島、朝鮮半島、中国北部、シベリアに分布し、薬用人参(朝鮮人参)と同種のウコギ科に属する植物である。利用部分は実、枝の皮、根皮で、漢方の刺五加(五加皮)として二千年以上前から使用されている。 学名はギリシア語でAcanta(=刺のある)とPanax(=ニンジン・万能)との合成語である。 1980年代には中国黒竜江省などで良品が栽培されるようになったが、旧ソ連でシベリア地域に自生するものが初めて近代的な研究をされていることから、シベリア人参という呼び名がつけられた。 黒龍江省は、冷涼なシベリア近隣に位置し、しかも世界三大黒土地帯の一つに数えられる肥沃な地域である。そのなかでもエゾウコギを栽培する山林は、その張り巡らされた根によって、手付かずの生態系が保たれ、動植物をはじめとする自然環境が守られている。 「http://hfnet.nih.go.jp/contents/detail113lite.htmlに参考。
https://www.mikumano.net/setsuwa/jofuku.html 【秦の始皇帝に仕えた方士・徐福、熊野に上陸】より
熊野には徐福が渡来したとの伝承が伝わっています。
徐福とは、紀元前3世紀の中国・秦(しん)の始皇帝に仕えた方士(神仙思想の行者)。いまから2200年くらい前(日本でいえば弥生時代初期)の人物です。始皇帝の命により、東方海上に不老不死の仙薬を求めて三千人の少年少女を引き連れて船出し、この熊野に上陸したと伝えられています。徐福一行は熊野の地に上陸すると、そこに住み着き、里人にさまざまな新技術を伝えたといわれています。
徐福の渡海は、司馬遷が著した中国の歴史書『史記』などに記されていて、それらの記事と実際に大陸からの渡来者があったことから、徐福が日本に渡来したとの伝説が発生したのでしょう。
徐福の渡海は、司馬遷が著した中国の歴史書『史記』などに記されています。
『史記』秦始皇本紀の始皇二十八年(B.C.219)の条には、斉の人徐市(=徐福。「市」」と「福は同音)が始皇帝に、「海中に蓬莱(ほうらい)・方丈(ほうじょう)・瀛洲(えいしゅう)という三神山があり、仙人がおります。私は斎戒して汚れなき童男童女を連れ、不老不死の仙薬を得たいと思います」と書面で願い出た。
そこで始皇帝は徐市を遣わし、童男童女数千人を海上に送りだして仙人を求めさせた。
とあり、始皇三十七年(B.C.210)の条には、
徐市は海に出て仙薬を求めたが、数年を経ても得られず、巨万の富を費やしたというのに、ついに仙薬を得ることはできなかった。
徐市は譴責を恐れ、
「蓬莱に行きさえすれば仙薬を得ることができます。しかし、いつも大鮫に苦しめられて島にたどりつくことができません。どうか大鮫を射止めるために弓の名手の同道をお許しください」と偽りの奏上をした。
始皇帝はこの年の7月に亡くなっています。
また『史記』准南衡山(わいなんこうざん)列伝では、また徐福を遣わして、東海に入って仙薬を求めさせた。
徐福は帰還すると、「私は海中の大神にお会いしました。大神は『お前は西の皇帝の使いか」と尋ねられたので、その通りですと答えると、さらに『お前は何を求めているのか』と尋ねられました。私は延命長寿の仙薬を求めておりますと答えました。
すると、大神は『お前の仕える秦王の礼物が薄いので、お前には見せてやるが、採らせるわけにはいかない』といわれ、私をすぐに蓬莱山へ連れていってくださいました。そこには霊芝に囲まれた宮殿があり、仙界の使者がいました。それは灼銅色の龍のような身体をもち、発する光は天まで照らしていました。
そこで私は再拝して、どのような礼物を持参したらよいか尋ねました。大神は『良家の童男童女とさまざまな分野の技術者を献上せよ。そうすれば望みの物が得られよう』といわれました」と偽りの報告した。
秦の始皇帝は喜び、良家の童男童女三千人と五穀(中国の五穀は麻・黍・稷・麦・豆)の種子とさまざまな分野の技術者を徐福に託して旅立たせた。
徐福は、「平原広沢」を手に入れ、そこに留まって王となり、帰らなかった。そこで人々は悲しみ嘆き、反乱を起こそうとする者が十戸のうち六戸に及んだ。
中国では、徐福は伝説上の人物で、徐福と始皇帝との出会いは歴史的事実ではなくある種の民間伝承だと、長らく考えられてきたそうですが、1982年に中国江蘇省連雲港市かん楡県で、徐福の故郷であるとの伝承をもつ徐福村(現徐阜村)が発見されたことにより、徐福が実在の人物として学術研究の対象となるようになったそうです。
『史記』の記事を見ると、徐福は始皇帝を甘言で欺いたペテン師のように書かれていますが、実情はおそらく違ったものであったのでしょう。
始皇帝は、強大な軍事力で、韓・魏・楚・燕・斉・趙の6ヶ国をすべて制圧して中国を統一し、自らを王の上に立つ者として「皇帝」の称号を名乗った人物です。
徹底的な専制政治を布き、数多の大改革を断行、中国に統一国家の礎を築きましたが、その手法ははなはだ強引で暴力的でした。
始皇帝は王のなかの王としての威勢を誇示するために、多くの人民を徴発し、万里の長城や阿房宮などの大土木事業に取り組みましたが、なかでも驪山陵の造営には七十余万人の刑徒を徴発して労働に当たらせ、建設が終わると刑徒たちを生き埋めの刑に処したといいます。
絶対的な権力者である始皇帝は驚くべき残忍性をしばしば発揮しました。焚書坑儒(ふんしょこうじゅ)といい、儒家思想弾圧のために、詩・書・百家の類の書を全て焼き捨て、それに反発する儒生460余名を生き埋めの刑に処したりもしました。
暴虐ぶりを見せつけ、中国全土を支配し、望むものすべてを手に入れたであろう始皇帝が最後に求めたものが不老不死の仙薬でした。
始皇帝は各地の神仙の方士に命じて不老不死の仙薬を求めさせましたが、その薬に効果がなければやはり死刑に処すという苛烈さであったことでしょう。
不老不死の仙薬を見つけられなければ死刑、一族ともども死刑に処す。これくらいのことは始皇帝ならやるでしょう。
生き延びるために、徐福は智慧を絞り、自分の命と一族の命を賭けて、残忍暴虐な絶対権力者である始皇帝をペテンにかける大勝負に出た。これが実際の状況だったのではないでしょうか。
不老不死の仙薬を探しに行くと偽って、一族で国外逃亡する。
徐福が連れていった「良家の童男童女三千人」と「さまざまな分野の技術者」というのは徐福の一族から選ばれた者たちであったのではないでしょうか。
始皇帝の側にしてみれば、たしかに徐福はペテン師でしょう。しかし、徐福の側にしてみれば、自分たちの命を守るために国外逃亡を企てたということだったのだと思います。
徐福が渡来したとの伝承を伝える地域は、熊野だけでなく日本各地に多数あります。
『史記』などの中国の歴史書の記事と実際に大陸からの渡来者があったことから、徐福が日本に渡来したとの伝説が日本の各地で生まれたのでしょう。
また日本と中国との交流により、中国側でも徐福が日本に渡ったとの説が受け入れられたようでした。多数ある日本の徐福渡来伝承地のうちで、中国側で最も一般的だったのが熊野の地だったようで、徐福が熊野に渡ったとの話が中国側の文献の上でいくつか見られます。
熊野の徐福渡来伝承地
熊野にある徐福渡来伝承地は和歌山県新宮市と三重県熊野市波田須(はだす)の2ケ所。どちらにも徐福の宮と徐福の墓があります。
まずは新宮市。
徐福は上陸すると、熊野川河口付近にある孤丘・蓬莱山(ほうらいさん)の麓に住み着き、里人に農耕や漁法、捕鯨、造船、紙すきなどの技術を伝えた。連れて来た童男童女の子孫は熊野の各地の長となった。
JR新宮駅近くには、徐福の墓が建ち、徐福公園として整備されています。
徐福の墓は初代紀州藩主・徳川頼宣が建設を計画し、それからおよそ100年後の1736年に現在地に建てられたのだそうです。墓碑には「秦徐福之墓」と刻まれています。墓碑の横には徐福に仕えた7人の重臣を祀った「七塚の碑」もあります。
また蓬莱山(そもそもこの名前も徐福に因んだものでしょう)の麓に鎮座する阿須賀神社には徐福の宮が祭られ、阿須賀神社の境内からは、戦後の発掘調査により、徐福が暮らした跡かどうかはもちろんわかりませんが、弥生時代の竪穴式住居趾や土器類などが出土しています。
熊野古道「伊勢路」が通る熊野市波田須町では、
徐福一行は何十艘もの船で船出したが、台風に遭い徐福の船だけが波田須町の矢賀(やいか)の磯に流れ着いた。そのころ、波田須には家が3軒しかなく、その3軒の人たちで徐福らの世話をした。
徐福らは波田須に住み着くことを決め、「徐」姓を使わず、「秦」から波田・波多・羽田・畑など「ハタ」と読む漢字をあてて名乗った。そして3軒の人たちに焼き物の製法や農耕や土木、捕鯨、医薬などの技術を伝えたとされる。
「波田須」という地名は「秦住」から来ており、「矢賀」という地名も徐福が付けたとされ、徐福が焼き物をした場所は「釜所(かまどころ)」と呼ばれるようになった。「釜所」は徐福が製鉄を始めた所とも伝わる。
との徐福渡来伝承が伝わります。
波田須町矢賀には矢賀の蓬莱山とも呼ばれる丸山という山があり、その頂上には徐福の墓と徐福の宮が祀られています。明治の神社合祀令により波田須にあった4つの神社は波田須神社として統合され、敗戦後まで合祀されていましたが、氏子たちの徐福への信仰心は消えるはずもなく、合祀されていた期間においても密かに、中国人を神として祀っていることを隠して、徐福の宮を祀りつづけたようです。
徐福の宮には神宝として徐福から与えられたという外来技術で作られた須恵器のすり鉢が伝わり、また丸山からは焼物の破片や秦代の通貨「大型半両銭」などが出土されています。
熊野では、農耕、漁法、捕鯨、造船、紙すき(徐福紙。那智紙、音無紙の名で知られたそうです)、焼き物、土木、医薬などの新技術はすべて徐福から伝えられたものだとされてきました。実際に徐福本人が熊野に渡って来たのかどうかはわかりようもありませんが、世界最速の海流・黒潮の流れに乗って、熊野に漂着する者がときおりあったであろうことは想像できます。
それらの漂着者のなかの幾人かが大陸の新技術を熊野の土着民に伝えるということもおそらくはあったのではないかということも想像できます。徐福渡来伝承はそのような名もなき渡来者の歴史を「徐福」の名を借りて伝えているものなのでは、とも私は思います。
ところで、徐福が求めた霊薬は「天台烏薬」(てんだいうやく)というクスノキ科の常緑低木だとされますが、天台烏薬は新宮市の徐福公園や阿須賀神社、熊野市波田須町の徐福の宮で見ることができます。
天台烏薬は徐福によって熊野で発見されたと伝えられますが、もともと天台烏薬は中国の原産なので、徐福が日本に持ち込んだとも考えられます。もっとも日本には亨保年間(18世紀)に渡来したとされる説が一般的なようですが。
天台烏薬が日本では、日向の高千穂と熊野以外には自生しないため、神武天皇が東征の途上、この地に植えたのだとする説もあるそうです。
この天台烏薬を服用したところで不老不死が得られるはずもありませんが、腎臓病・リウマチなどに効果があり、活性酸素消去作用にもすぐれているそうです。
そういえば、徐福=神武天皇説というのもあるそうで、たしかに、進んだ技術をもった民族が数千人という単位で移住してきたというのなら、そういうこともありうるかもしれません。時代的にも弥生時代初期ということで合うような気がしますし。
熊野における伝承では平和的なイメージがあって、徐福が侵略者であったというイメージは湧きにくいのですが、もし本当に数千人という単位で渡って来たとしたら、原住民との対立はあったと考えるのが自然だと思います。
徐福一行が数十人までの人数なら、原住民も彼らを受け入れることができたと思いますが、数千人は多すぎます。そのような大勢の異民族に突然やって来られたら、原住民の側としては脅威を感じざるを得ないのではないでしょうか。しかも相手はこちらより進んだ技術を持っている。生き方、考え方も違う。衝突が起こるのが当然だと思います。
徐福一行は未開の蛮族の土地で生き延びるために戦闘せざるを得なかったのかもしれません。力の差をはっきりとさせて地域を支配していくということが生き延びるために必要だったのかもしれません。実際のところどうだったのかは知りようがありませんが。