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ZIPANG-2 TOKIO 2020~この国の原点の風景が息づく~「関ケ原古戦場グランドデザイン(その1)」

2019.01.16 15:05

先の北海道における地震災害、関西地方ならびに中国四国・九州地方における大雨・地震災害で亡くなられた皆様のご冥福をお祈りするとともに、被災された全ての方々に心よりお見舞い申し上げます。


関ケ原では、日本の歴史上避けて通れない大きな“天下分け目の戦”が二度ありました。
672年、大海人皇子と大友皇子による、日本最大の内乱「壬申の乱」。
そして1600年、石田三成率いる西軍と徳川家康率いる東軍が東西を二分するこの地で繰り広げた、戦国最大ともいわれる天下分け目の戦「関ケ原の戦い」。

この二度の戦がなければ、今の日本はガラリと変わっていたかもしれません。

小早川が見た、天下分け目の地
小早川秀秋が陣を置いた場所が松尾山。麓の駐車場から徒歩40分程度で登頂できます。山頂は、古戦場を眼下に見下ろせる絶景ポイントです。春には、やわらかな気候に包まれながら、夏には森林浴も兼ねたちょっとした登山気分を味わいながら、秋であれば色づいた木々とさわやかな風の中、ハイキング楽しむことができます。冬には、雪化粧をした関ケ原古戦場を一望。四季折々に、関ケ原合戦の様相を最も深く感じることのできる場所が、ここ松尾山・小早川秀秋陣跡なのかもしれません。


関ケ原には今も、どこかなつかしくて、なぜかホッとする、
そんな、この国の原点の風景が、息づいています。

関ケ原という地名の由来は、「関所」のある「原っぱ」だった、という一説があります。 日本三大関所のひとつにも数えられる「不破の関」が置かれていたこと、そして、江戸と京都を結ぶ中山道の六十九宿のうち、「今須宿」「関ケ原宿」、二つの宿場があったことからもこの地が古くから交通の要衝だったことがうかがえます。
現在の「関東」「関西」という呼び名も、“関”ケ原を境にしているとか。

関ケ原は、古き日から今に至るまで、交通の要衝として人々の暮らしを支えています。


力強く萌黄色の若葉が芽吹く春、あくまでも澄み切った紺碧の空と深緑の対比が何やら不穏な胸騒ぎのする美しい夏、戦いの傷痕を癒すかの如き紅葉のグラデーションに染まる秋、何事も無かったかの様に一面、白銀の雪景色と化す冬…そんな、四季を通してどこまでも広がる田園風景も、凛とした竹林の一本道も、どこにでもありそうな田舎道も、道端に咲く一輪の花も・・・

あれから手付かずの自然が残る関ケ原。

鶯の滝
今須峠を行く旅人のオアシス 旧中山道を西に行き、黒血川の看板を過ぎたところにある鶯の滝。道沿いにある黒血川の源流が、ここで数mの落差をつけて流れ落ちています。この滝はかつて、今須峠を上り下りする旅人の心を癒してくれる格好の場所でした。水量は豊富で、夏は冷気が立ち込め、年中ウグイスが鳴くことからこの名が付いたとされています。平坦地の滝は珍しく、江戸時代になってから街道脇の名所となっていました。この川は滝のすぐ下手で、いわれのある黒血川と合流しています。かつての旅人のように、滝を見ながらホッと一息。弁当ひろげるのもイイかな〜

古代の戦いの名残をとどめる川
「黒血川」は、関ケ原の北西にある城山の麓を源とし、中山道を北から南へと横切っています。東海自然歩道の城山周辺のうっそうとした森の中では、さらさらと流れる渓流になっています。そこから進み、中山道と交わる場所にある「鶯の滝」は、その昔中山道を歩く旅人の憩いの場所であったそうです。滝より下流は、川幅も広くなり、峡谷の様を呈してきます。「黒血川」は、元々山中川といわれていましたが、壬申の乱で両軍の兵士の流血が川底の岩石を黒く染めたことから「黒血川」の名が付いたといわれています。


 「関ケ原かるた」とは、関ヶ原合戦にまつわる切り絵のかるたですか?知りませんでした。その土地ならではの全国に誇れる「関ケ原かるた」。珍しいですね~誰かすべて公開してくださ~い!外野席から「自分でやれ~」ウ~ン!


6万人以上が戦った、壬申の乱
壬申の乱における大友軍は総勢3万人の大部隊でした。対する、大海人軍は私領地であった大垣・安八郡・養老郡の兵士と東国からの兵力に加え、さらに尾張の国司が連れてきた2万の軍隊を合わせて3万人の軍隊を率いていました。当時の日本人の100人に1人がこの戦に参加していた計算になるそうです。それだけの多くの兵士が戦いに参加したのですから、川が血で染まったという「黒血川」の由来にも納得がいくというものの、オドロオドロしい名前(失礼!)…どうにかなりませんかね〜?


関ケ原合戦とは

慶長五年(1600年)九月十五日。 天下の覇権を狙う徳川家康率いる東軍と、阻止するために挙兵した石田三成率いる西軍が、 関ケ原を舞台に、天下分け目の決戦を繰り広げた。

関ケ原合戦まつりの様子「東軍」葵の紋所の幟が見える(右端は小早川)

両軍布陣後も前夜からの深い霧で見通しがきかない。薄暗い霧が、これからここで起こる激戦を予知するかのような空気さえ醸し出していた。緊張感の漂う中、無言の睨み合いは続く。霧が少し晴れた午前八時頃、東軍・井伊直政により、決戦の火蓋は切って落とされた。


総勢八万四千の西軍が、必勝の陣形で東軍を迎え撃つ。一方、東軍は七万四千人。
大将・家康は、桃配山に本陣を置き、戦況が不利になると、本隊を激戦地・陣場野まで前進させ、東軍の士気を高める。

関ケ原合戦まつりの様子「石田三成率いる西軍」


正午ごろ、家康からの圧力もあり、小早川隊は反旗をひるがえし、同調した他軍とともに、大谷隊を衝く。その後、小西・宇喜多隊は敗走。さらには石田隊も勇猛果敢に応戦するが挽回の余地なく敗走。

天下分け目の決戦は、開始よりわずか六時間あまりでその勝敗が決まる。


関ケ原合戦祭り

関ケ原町最大の戦国イベント「関ケ原合戦祭り2019」は、10月中旬頃の2日間開催されます!
関ケ原町最大の戦国イベントであり、毎年全国の戦国ファン、関ケ原ファンが一堂に会する交流の場、「関ケ原合戦祭り2018」は、10月20日(土)・21日(日)の2日間開催されました。

関ケ原合戦まつりの様子「鉄砲隊」

「関ケ原合戦絵巻2018」「鉄砲隊演武」「戦国グッズマーケット」「関ケ原戦国ライブ」といった名物イベントをはじめ、注目イベントが目白押し。「関ケ原武将シリーズ第六弾〜黒田長政・福島正則〜」も同時開催しました。今年は、ぜひお越しください。


関ケ原古戦場グランドデザイン

グランドデザインテーマ

「関ケ原古戦場グランドデザイン」とは、関ケ原古戦場の整備と活動の指針であり、平成27年3月に岐阜県と関ケ原町により策定されました。


テーマ設定

人と大地が織りなす「ものがたり」、関ケ原


中山道、北国街道、伊勢街道と、三つの街道が出合う東西の結節点であったこの地には、古くは日本武尊に縁の地であったり、壬申の乱の舞台となるなど、日本史に登場する重要人物たちの物語が多く残されています。また、今須宿は「寝物語の里」の言い伝えが残り、美濃の国と近江の国の旅人が、旅籠で寝ながらに物語を交わしたそうです。壬申の乱の後に置かれた不破関を境に、「関東」「関西」の呼称が使われるようになったとも言われ、関ケ原には、言葉や食など様々な分野で東西文化が混在する姿が見られます。


なかでも、当時の主だった戦国武将が相まみえた「関ケ原合戦」は、一人ひとりの武将の心の葛藤に得も言われぬ物語があります。関ケ原はまさに「戦国(終焉)の聖地」といえるでしょう。


関ケ原の地で、武将たちの「いきざま」や、関ケ原で暮らす人々の営みと出逢うことで、この地を訪れる旅人が、時代の大きな変革期を迎えている今日において、来たる新たな時代を考える機会となるような場所であり、自らの人生の指針を見出す、あるいは自らの人生と重ね合せる場所となるよう、関ケ原古戦場の整備が進められています。

桃配山・徳川家康最初陣跡

二大戦の陣跡 「桃配山」は国道21号線を挟んで中山道の松並木のほぼ向かいにあります。実は「桃配山」は二大戦の陣跡と言われています。家康は関ケ原合戦早朝に、赤坂から桃配山に兵を移動し、桃配山の中腹に陣を敷きました。この山は、関ケ原合戦以前の壬申の乱にて、勝者である大海人皇子が野上行宮より出陣し陣を敷いたという言い伝えがあります。家康は縁起を担ぎこの場所に陣を置いたといわれており、関ケ原の合戦時に徳川家康が使用したとされる腰掛石と机石が今も残っています。合戦当日の朝、小雨が降り1m先も見えないほどの濃い霧が立ち込めた関ケ原、この場所に立った家康は果たして勝利を確信していたのでしょうか。

桃を配ったのは、大海人皇子

壬申の乱の時、大海人皇子に村人より山桃が献上されました。大海人皇子は、その山桃が非常に美味であったので、兵士の士気を上げようと大量に購入し配りました。その故事により「桃配山」と名づけられました。山桃は今も桃配山で見ることができ4月から5月ごろに小さな白い花をつけます。6月ごろに暗赤色の実を付け、遠くから見るとツヤがあり、小粒の赤いビーズを一面に並べたように見えます。


■テーマの展開①


武将たちのいきざまと出逢う関ケ原

群雄割拠の世から戦国の終焉へ。公家・武家社会から武家・庶民社会へ。 その結果を知らずして、全国の武将たちは何を思い描きどのように動き、戦ったのか?

7人の武将にスポットを当てたシンボル物語(ストーリー)の創造とそれらを活かした各種コンテンツ展開などによる新たな魅力づくり

■テーマの展開②


東西が出逢う大地が育んだ関ケ原

関東・関西の分岐点。南北を山岳に囲まれる地形で交通・軍事の要衝。
古来、多くの戦いの場となり、東西文化の結節点となった関ケ原の多種多様のエピソード

町民ホスピタリティシステム(住民参加)の構築、
東西文化の融合を感じる飲食、物販(特産品)の充実などによる新たな魅力づくり、
「壬申の乱(不破の関)」、「中山道宿場」など関ケ原の更なる魅力の紹介

基盤となる古戦場史跡の保存管理とかつように向けた再整備
周辺地域との連携による「時代」と「大地」の周遊の旅づくり


以上のお話を引き続き予定しております。お楽しみに〜


続く・・・


交通案内


交通アクセス


協力(順不同・敬称略)

岐阜県 商工労働部 観光国際局 関ケ原古戦場整備推進課 環境整備係 

岐阜県 関ケ原古戦場整備推進課〒500-8570岐阜市薮田南2-1-1TEL058-272-1111

関ケ原観光協会 事務局
〒503-1501 岐阜県不破郡関ケ原町関ケ原1167−1電話: 0584-43-1600

一般社団法人岐阜県観光連盟 〒500-8384岐阜県岐阜市薮田南 5-14-12
岐阜県シンクタンク庁舎4階 電話番号 058-275-1480



鎹八咫烏 記
伊勢「斎宮」の明和町観光大使


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