3はもっとも聖なる数
Facebook牟田 康治さん投稿記事
戦後GHQにより「二礼二拍手一礼」に変更されたって知ってます?本来は日本では三つ巴や三位一体といって三を重んずる国なので正しい参拝とは「三礼三拍手一礼」なのです(^○^)
三回手を叩いて神に氣付いてもらい お願いをするのです♪
あとお賽銭を入れる必要はありません 自民党の資金になるので(笑)
Facebook草場一壽 (Kazuhisa Kusaba OFFICIAL)さん投稿記事
作品づくり
作品の「品」は、品物の「品」であり、また品性とか気品の「品」でもあります。この字にはどんな意味が込められているのでしょうか。
品は口が3つ。それぞれ、心・体・魂をあらわしているそうで、密教の三密加持=体・口・意や日本の伝統的な心・技・体にも通じるような気がします。
三位一体とか三種の神器(三人寄れば文殊の知恵もそうでしょうか)など、三は調和を象徴しているようです。「霊」という字も、旧字体は「靈」。雨の下にはみっつの口が並んで、やはり心・体・魂(=調和)のことでしょう。
三を読みにして「みっつ」は「満つ」の響きもあります。こういう符丁?はなかなかに奥が深いですね。
さて「品」にもどり、上品・下品の「品格」とは、つまり、心・体・魂のステージのことで、それを上げていくことが品格を磨いていくということでしょう。
作品、とはものと同時に品(ひん)を作る作業です。すると、もの、とは心がカタチになったものと考えられますね。大量生産・大量消費では、感じられないものの、伝統的にものづくりの基本でしょう。
「人」というのも作品に違いないと思います。まわりからつくられながら、自分でつくっていきます。作品である人が人生をつくるという作品づくり・・・。仕事であり、自分である・・・。
Faceook斉藤 一治さん投稿記事
「失われた十支族」とは、旧約聖書に記されたイスラエルの十二支族のうち、行方が知られていないユダヤ十支族のことです。
太陽を求めて東に向かった十支族の末裔たちは、朝鮮まで来て日本へ向かうとしましたが、朝鮮に反対されました。
天皇がこれを許して、数百年かけて東の果てにあった日本にたどり着きました。
ユダヤ人は、日本人に受け入れられ、その間に混血が進み、見た目にはアジア人に近い姿になっていきました。
その後、何度かに分けて日本に渡来したユダヤ人、その主な一族は物部氏や秦氏でした。
日本の言語や風習には、ユダヤ人との共通な部分が多数確認できます。
日本語と類似したヘブライ語は一説には3000語を超えるともいわれています。
まず「鳥居(トリイ)」という単語は、ヘブライ語のアラム方言で、「門」を意味します。
「帝(ミカド)」という単語は、高貴な人物を意味するヘブライ語の「ミカドル」に良く似ています。
「駄目(ダメ)」という単語は、そのままの発音でヘブライ語で通じ、駄目という意味で使われています。
また「憎む(ニクム)」という単語も、そのままの発音でニクムという意味で通じます。
「主(ヌシ)」という単語も同様にリーダーという意味になります。
「飛鳥(アスカ)」は、住所を意味し、「滅ぶ(ホロブ)」も、そのまま通じます。
秦氏一族は稲荷神社などを創祀したことでも知られており、蚕や絹などによる織物、土木技術、砂鉄や銅等の採鉱及び精錬、薬草なども広めました。
平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』によれば「秦氏は、秦の始皇帝の末裔」という意味の記載があります。
推古天皇30年には当時の中心的人物であった秦河勝が広隆寺を建立。
皇極天皇の時代には上宮王家が所有する深草屯倉を秦氏が管理経営していたという。
延暦13年(794年)には、秦氏が主導して平安京への遷都となりました。
写真にある三柱の鳥居は、秦氏が作らせた物だと思われます。
父と子と精霊の三位一体を表し、コレを縄で結び結界としたのではないでしょうか。
日本には約12万社の神社があります。
八幡神社 約4万社
稲荷神社 約3万社
白山神社などを含めて約1万社
これら8万社が秦氏関係の神社となっています。
https://www.fben.jp/bookcolumn/2010/07/post_2598.php 【謎の渡来人 秦氏
日本史(平安時代)】より
著者 水谷 千秋、 出版 文春新書
秦氏は、自らを中国の秦の始皇帝の子孫と称する。戦後の通説は、朝鮮半島からの渡来人とする。秦氏は、秦河勝(はたのかわかつ)が聖徳太子に登用されたという伝承を持つくらいで、高い地位に就いた者はいない。秦人は一般に農民であった。秦氏が奉斎してきた稲荷山には、彼らの入植する前より古墳群が築造されていて、古くから神体山として信仰の対象とされてきた。もともと神体山への信仰だったものが、「稲成り」(いなり)として、農耕の神となって秦氏の守護神に変容したのであろう。
日本列島には、もともと馬はいなかった。古墳時代中期初めころ(5世紀初頭)、朝鮮半島から運ばれ、大阪の平野を最初の牧として育てられた。これらをもたらしたのは、当然、渡来人である。
平安朝の桓武天皇の時代は、渡来系豪族が異例の抜擢・寵愛を受けた時代だった。日本の歴史のなかでも特異な時代と言える。桓武天皇の外戚の和(やまと)氏や百済王氏、坂上氏といった渡来系豪族が桓武朝の朝廷で異例の昇進を遂げた。
母方のいとこにあたる和家麻呂(やまとのいえまろ)は、渡来系豪族として初の参議に列せられ、のちに中納言にまで上った。
征夷大将軍として功のあった坂上田村麻呂も、後漢氏の出身だが、参議に昇進した。菅野真道はもとは津連という渡来系豪族だが、参議従三位まで昇進した。従来なら考えられなかったことである。
桓武天皇ほど多くの渡来系豪族出身の女性を娶った天皇も珍しい。27人の后妃のうち、渡来系豪族では、百済王氏が3人、坂上氏が2人、百済氏が1人と、全部で6人もいる。
平安京は畿内における渡来人のメッカともいうべき一大拠点であった。その代表格ともいえる秦氏が、まさにここを本拠地としていた。
秦氏が蘇我氏と大きく異なるのは、秦氏はある時期から政治と距離を持ち、王権に対して反乱をおこしたりすることはなかったこと、そして、地方にも各地に経済基盤を築いて生産を進め、中央の秦氏と互いに支え合っていたことだろう。
日本と日本人の成り立ちを考えるうえで手掛かりとなる本です。
https://www2u.biglobe.ne.jp/~itou/hon/kikajin.htm 【帰化人 古代国家の成立をめぐって 上田正昭著】より
平安遷都の天子である桓武天皇の母親であった高野新笠(たかののにいがさ)は、百済の武寧王(462-523 501-523在位)の後裔とされる和(やまと)氏の出身で帰化氏族の血脈につながる人(在日10世)であった。高野新笠は、帰化系氏族の和乙継(やまとのおとつぐ)と大枝朝臣真妹(おおえのあそみまいも)との間に生まれ、光仁(こうにん)天皇の妃となって、山部王(桓武天皇)、早良(さわら)王、能登内親王を生んだ人である。和(やまと)氏は、宝亀年中(770-780)に氏姓を高野朝臣と改めている。古代の王朝にあっては、母が天皇の血をうけた皇女の出身でないということは、皇子の即位のひとつの障害になった。山部王(桓武天皇)が母方に帰化系の出身を有しながら、それでも皇位についたという事実である。当時の状況は、上層帰化系氏族とのつながりを密にすることが、政治勢力の伸張には、有利でさえありえたのである。帰化人たちの実力は、古代の政治、経済、文化の進展においては不可欠のものであり、事実その実力は卓抜なものがあったから、支配層はその勢力をその勢力を軽視することはできなかったのである。長岡京や平安京の造営に秦氏が活躍し、また東漢氏(やまとのあやうじ)に繋がる坂上苅田麻呂が桓武天皇の寵遇をうけて大宿禰をさずけられ、その娘が桓武天皇の妃となって高津内親王を生んだ。蝦夷征討で活躍する坂上田村麻呂は坂上苅田麻呂の子供であった。
日本書紀では、応神天皇の段に秦氏の祖とされる夕月君(ゆづきのきみ)が「人夫百二十県を率いて帰化」したことや「倭漢直(やまとのあやのあたい)の祖である阿知使主(あちのおみ)とその子の都加使主(つかのおみ)が党類(ともがら)十七県を率いて来帰」したことなどを記述している。
四世紀の後半から五世紀にかけて倭の軍隊が朝鮮に出兵しており、しかもその軍隊は騎兵を主力にしたものではなく、むしろ高句麗の騎兵の威力に屈するという騎馬の優勢をまざまざと体験した。後期古墳文化にみられる馬文化の普及は、五世紀以来の外来の人々、とりわけ西文氏(かわちのあやうじ)らの活躍に負うところが多い。馬飼に関する伝承や分布の主体は長く河内にあり、その河内こそは西文氏(かわちのあやうじ)の本拠地であった。五世紀の段階には朝鮮より渡来して、文筆方面や外交などにも大和朝廷とのつながりをもって活躍した史(ふひと)らの主流をなす西文氏は、南河内の古市郡に居住していた。そのながれをくむ武生(たけお)・蔵(くら)両氏も、同郡内にあって、西文氏より遅れて渡来してきた船史(ふねのおひと)系の船・津・白猪(しらい)の一族も、古市郡に隣接する地域に居住し、共通の文化圏をかたちづくっていた。馬飼の職能は、たんに馬の飼育ばかりでなく馬具の製作や軍事、交通などとも結合していた。
高句麗は、平壌に都を遷して(427)、勢力の南方への伸張を意図していたが、五世紀もなかばをすぎると北方の高句麗と、南方の百済との間には対立の様相がますます深刻化してきた。ついに475年には、高句麗は大軍を南下して百済の都城であった漢城(ソウル)を陥落させた。その結果百済は熊津(くまなり)(忠清南道公州)へ遷都して、百済の再興を計ることになる。こうした百済王朝の危機の段階に、今来(いまき)の才伎(てひと)たちが、わが国土へ渡来した。
五世紀末葉の雄略天皇時代には百済や呉(くれ)より技術者が渡航してきて、大和や河内に居住せしめられたという説話が集中的にみられる。雄略天皇の時代に今来(いまき)の才伎(てひと)は東漢氏(やまとのあやうじ)の統率下に入って、馬官(うまのつかさ)・蔵官(くらのつかさ)などの役所に従属するあらたな品部(ともべ)になった。画部(えかきべ)・手人部(てひとべ)・陶部(すえべ)・鞍部(くらつくりべ)・錦部(にしごりべ)、衣縫部(きぬぬいべ)・韓鍛冶部(からかぬちべ)・飼部(うまかいべ)などとよばれる人々である。欽明朝において、蘇我氏はこれらの才伎(てひと)たちと接近し、その力を利用するために船史(ふねのおひと)らを登用していた。欽明天皇紀の十四年の条には、船史(ふねのおひと)の祖とする王辰爾(おうしんじ)に、蘇我稲目が船の賦(みつぎ)(貢物)をかぞえて記録することをつかさどらせた。欽明天皇紀の三十年の条には、蘇我稲目が王辰爾(おうしんじ)の甥の胆津(いつ)に命令して、吉備地方の白猪(しらい)の屯倉(みやけ)における農民集団の丁籍(よぼろのせき)をつくらせたとある。
飛鳥地方の南部とくに高市郡内に本拠を有していた東漢氏(やまとのあやうじ)は、五世紀のなかばごろから今来(いまき)の才伎(てひと)たちをその統率下におき、しだいに勢力をのばした。東漢氏(やまとのあやうじ)は、蘇我氏と深くまじわり、政界の黒幕として存在し、特に軍事面で活躍した。東漢氏(やまとのあやうじ)の同属である坂上氏が、軍事の家柄である家世尚武(かせいしょうぶ)のつたえをもっている。
雄略天皇紀の十五年の条には、秦の民が、四方に分散していて各豪族に使われており、秦造(はたのみやっこ)の思うままにならなかった。秦造酒公(さかのきみ)が、それを嘆いていたので、天皇は詔をだして秦の民を集めて酒公(さかのきみ)に賜った。そこで酒公は百八十種の勝部(まさべ)を率いて、庸調の絹縑(きぬかとり)を朝廷にたてまつり、それが朝廷に充積された。そこで禹豆麻佐(うずまさ)という姓をあたえられることになったとある。雄略天皇紀の十六年の条には、諸国に桑を植えて、秦の民に養蚕・機織による調庸にたずさわらせたという記述がある。欽明天皇紀元年の条にも秦伴造(はたのとものみやっこ)を大蔵掾(おおくらのじょう)にしたという所伝があり、大蔵の役人として秦氏が登場している。
秦氏と仏教とのつながりは、広隆寺の創建をめぐる説話に代表される。この寺は秦河勝が聖徳太子からあたえられた仏像をまつり、聖徳太子のために創建したものである。秦河勝の信奉する仏教は、聖徳太子とのつながりが強く、また新羅仏教の系列に属するものと考えられる。現存の弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしいぞう)の様式も新羅系のものであるといわれている。漢氏(あやうじ)の仏教が百済系であり、蘇我氏との結合が強かったのと対照的である。聖徳太子の嫡子である山背大兄(やましろおおえ)皇子が蘇我入鹿によって襲撃された時、三輪君文屋は、まず山背の深草の屯倉へおもむくことをすすめる。この地こそ秦大津父(はたのおおつち)らの居住したところであり、秦氏勢力圏のひとつであった。太子家と秦氏の深いつながりは、信仰や政界における政治勢力の動向にみることができる。
<ソルフェジオ周波数のしくみ>
http://www.maro 参照
ソルフェジオ周波数はカバラ数秘術で作られています。その根本の数は3で、3は古代宗教ではもっとも聖なる数とされました(キリスト教でも三位一体など3は常に聖なる数として扱われている)。
ソルフェジオ周波数の基本となる周波数は、440Hz から純正律で導かれる 528Hz と 396Hz です。
この数にカバラ数秘術で3桁の3を表す 111 を足し引きして等差数列(常に同じ数を足して出来る数列)を作ります。
ソルフェジオ周波数はすべて3で割り切れる数です。
396-111=285 285-111=174
これで、174、285、396 のソルフェジオ周波数の最初の3つが出来ました。
次に 528 から、528-111=417 528+111=639
これが、417、528、639 のソルフェジオ周波数の真ん中の3つとなります。
最後の3つは 741 から始まります。
741+111=852 852+111=963 となり、741、852、963 となります。
ソルフェジオ周波数を整理して、一桁換算します。
やり方は3桁の数をそれぞれ足していき、2桁の数になったらさらに足し1桁の数にします。
174=1+7+4=12=1+2(3) 285=2+8+5=15=1+5(6) 396=3+9+6=18=1+8(9)
417=4+1+7=12=1+2(3) 528=5+2+8=15=1+5(6) 639=6+3+9=18=1+8(9)
741=7+4+1=12=1+2(3) 852=8+5+2=15=1+5(6) 963=9+6+3=18=1+8(9)
こうして見るとソルフェジオ周波数の数列は、174,258,639の3つであり、
一桁換算すれば「3、6、9」の繰り返しになっていることが分かります。