光も、影も、栄養にして。
こんばんは。Nanashunです。
珍しく、連日のブログになりました。というのも、昨日挙げたブログから一夜明けても、いつものような心がスッキリすることはなく、なんとなくモヤっとしていたからです。それを今一度言語化しようとした時に、これが単なる人への執着ではなく、人と比較した時に起きた自己肯定感の低下だと気づきました。今回はそれについて書いていきます。
先ず、これに気づいたきっかけですが、いつものように夜ベランダで音楽を聴いていた時でした。その時、なぜか自分の大学生活を無意識のうちに振り返っていたのです。そこに自分の人生じゃない、ブログではお馴染の彼女の大学生活やサークルの先輩の人生が比較されました。すると、眩しい大学生活から今日までを送ってきた彼女の姿や同棲などを始め、次の人生へと歩みを進めている先輩の姿が浮かびました。その瞬間、あぁこれは執着ではなくて、自分が他人と比較した時に訪れる劣等感なのだと気づきました。そうなると、行くところまで行き、自分の大学生活から社会人にかけて、自分は一体何をしていたのだろうと、自己否定する瞬間が何度も自分を襲いました。でも、じゃあ自分のここ何年かの人生は果たして自己否定に値するものだったのか、と言われれば別にそうではありません。むしろ、自分で選んできた人生です。肯定や誇れる人生を歩んできたつもりです。ただ、何となく最近自分の周りのいる人があまりに幸せそうに見えるが故に、自分と比較してしまっては本来比べることもできるはずのない幸せの背比べをしていたわけです。そこには、ないものねだりだなあなんて思うこともあります。だって、そういういわゆる幸せそうな人たちにだって辛い過去や見えない努力があるというのに、自分はそこを抜きにして、ただ光るものばかりに劣等感を感じているわけです。欲張りだなあと思います。しかし、こういうのはタイミングや出会う人の関係もあると思います。なぜなら、自分が自己肯定感が高い時に、無意識のうちに誰かを傷つけていた可能性だって0ではありません。だから、これはきっと周期的なものなのです。それは別に最近気づいたわけでもありません。思えば、部活も就活も、自分は器用な方じゃなく、いわゆる大器晩成型でした。それでも上手くいかない時も腐ることなく、地道な努力とそれを真っ直ぐ信じる自分で乗り越えてきました。だから、今回もそれといえば、それに近いのです。ただ、何かが違うといえば、それはきっと努力で何とかできるものではないからです。それは部活や就活がわかりやすい例でしょう。それらは大抵は努力すればある程度は望みは叶います。しかし、人間関係やライフスタイルは人を介す訳ですから、そう簡単にはいきません。だから苦しいのだなと思います。それでも、もう生きてきた過去が変わることはありません。変わるのは未来だけです。そんな綺麗事、こんな時まで耳にしたくないですが、結局それしかできないというのが何というか皮肉でもあり、チャンスでもあるなと思います。
「人のことって、眩しく見えるよね」
「受験だから?」
「多分、ずっとそうでしょ」
これは自分が大好きなカロリーメイトのCMのワンシーンのコピーです。ここにも書いてある通り、人のことって、どこまでいっても眩しく見えてしまうんですよね。だから、そこに劣等感を感じることは避けられないと思います。でも、それはきっと自分を見る人も同じ感情なのです。実際、自分にはなくて彼女や先輩にあるものもあれば、逆に自分にはあって彼女や先輩に光るものもたくさんあります。だからそれはどこまで行ってもないものねだりなのです。そう思えば仕方ないかと思えますが、それがさっき言ったような自分次第で変えられるものかどうかでは、やっぱらどうしても不安を抱いてしまうものですよね。だから、この感情を乗り越えるのは難しいなと思います。しかし、これも先に挙げた通りで、それでも乗り越えてきた過去の自分を信じて、進む他はないのです。仮に、そこから逃げ出したとして生まれ変わりを図ろうとも、結局は自分の生まれ変わりです。時間が戻っただけで、同じような選択をし、同じような苦しみに出会います。それなら、いっそ越える他ないのです。だから、しばらくは自己肯定感を上げる、というのが正しい表現なのかわかりませんが、とにかく自分の人生の充実度を上げていきたいですね。それはきっと、人と比較するものでもなく、唯一無二のものだと信じています。まだまだこんなところで腐ってられないですね。
読んで頂き、ありがとうございました。