三田文学 永井荷風時代
https://j-dac.jp/MLM/bibliography-3.html#:~:text=1910%EF%BC%88%E6%98%8E%E6%B2%BB43%EF%BC%89%E5%B9%B4%E6%98%A5%E3%80%81,%E3%81%93%E3%81%A8%E3%82%82%E7%99%BA%E8%A1%A8%E3%81%95%E3%82%8C%E3%81%9F%E3%80%82 【三田文学 永井荷風時代(1910.5~1916.5)】より 五味渕典嗣
1910(明治43)年春、慶應義塾文科刷新を象徴し体現するメディアとなるべく、『三田文学』は創刊された。奥付上の発行日は1910年5月1日。当時30歳の永井荷風が編集主幹となり、彼を推輓した森鷗外と上田敏が顧問として名を連ねることも発表された。発行元は、慶應義塾理財科の卒業生で、すでに『三田学会雑誌』の刊行実績があった籾山仁三郎の籾山書店が引き受けた。ちょうどこの前後の時期は、夏目漱石『それから』『門』、田山花袋『田舎教師』、泉鏡花『歌行燈』、北原白秋『邪宗門』、石川啄木『一握の砂』が相次いで刊行され、『スバル』『白樺』『新思潮』(第二次)が創刊された、日本近代文学史上特筆すべき豊饒な実りの季節でもあった。そんな中、『三田文学』は、坪内逍遥=島村抱月ラインが取り仕切る『早稲田文学』の存在を強烈に意識しながら、新しい文学の一拠点たるべく船出したのである。
新雑誌の編集主幹・永井荷風が担うことになった職責は、決して容易なものではなかった。何しろ、それまで同時代の文学創作とはてんで縁のなかった場所で、一から文学雑誌を作りはじめるのである。しかもこれは、創刊号に福沢諭吉の言葉を戴いた学校の雑誌でもある。だから、所属する教員や学生たちを書き手として登用し、育成していく道すじともならねばならない。そこで荷風が選択したのは、近い未来の文学・芸術の創造を支える基盤となるような、総合的な文芸誌を志向することだった。
そうした意図は、荷風がピック・アップし、決定した執筆者の人選からも観察できる。顧問である鷗外の人脈をたどって、木下杢太郎・北原白秋・吉井勇・長田秀雄ら『スバル』執筆グループを基本的な軸として据え、彼らの師匠筋にあたる与謝野晶子には小説や戯曲を書いてもらう。井上唖々や生田葵山(生田葵)ら古い友人たちに対する義理を忘れない一方で、同僚の小山内薫が創設した新しい演劇運動「自由劇場」を二度にわたる特集号(1910年11月号、1912年4月号)で支援したり、泉鏡花や谷崎潤一郎を積極的に登用したりするあたりには、同時代の文壇的な勢力図を意識したジャーナリスティックな狙いが明白である。当の荷風自身はと言えば、いくつかの変名を用いながら、芸術と社会との関係について、日本社会の根底的な排他性について、日々折々の生活の中でのちょっとした気づきについて、機知と皮肉と情味とを自在にとりまぜたエッセイを掲げつつ、評論や紹介・研究的文章にも手を拡げて、慶應義塾の教員たちが誌面に登場する余地を作った。こうした編集方針に平仄を合わせるように、『スバル』創刊以後旺盛な執筆活動を再開していた鷗外は、「普請中」(1910年5月号)「沈黙の塔」(1910年11月号)「灰燼」(1911年10月号~1912年12月号)など、力作・問題作を次々と寄稿、文字通りの大黒柱としてこの新しいメディアを支えた。以上のような荷風の差配からは、『三田文学』を、小説・詩・演劇・評論・随筆・翻訳・研究といった文芸各ジャンルのいずれをも排除しない、視野と幅の広い媒体として育て上げていこうとする意図を窺知できるように思う。
雑誌としてはひとまず順調に出発した『三田文学』だったが、記録を見る限り、慶應義塾の学生募集にはまるで結びつかなかったようだ。それでも、荷風らを招請した一連の刷新は、一部の学生たちに決定的な刺激を与えたことは確実である。荷風の教授時代を知る書き手の回想からは、授業以外の場での談論を含む、少人数ならではの濃やかな交流が、一種のサロンにも似た雰囲気を醸成していたらしいことが読みとれる。学内では実に勤勉な教員だったらしい荷風の薫陶を受けた教え子たちは、互いの顔が見えるこうした環境を、自己の文学的出発点としていたのである。
早くも創刊2年目には、編集の補佐役として荷風を支えた井川滋「逢魔時」(1911年3月号)を嚆矢として、「朝顔」(1911年6月号)の久保田万太郎、「山の手の子」(1911年7月号)の阿部省三=水上瀧太郎が相次いで登場、予科の同級生だった堀口大学と佐藤春夫も、堀口が「女の眼と銀の鑵と」、佐藤が「憤」で、万太郎・滝太郎と同月号でそれぞれ誌面にデビューしている。のちに水上瀧太郎は、「学校の使命は人を育てるにある」が、慶應義塾は「純文学の方面においては、永井先生のすっきりとした長身が三田山上にあらわれてから、ようやく一人前の人間を生むことができた」と書いた(「『三田文学』の復活」『時事新報』1926年3月6日~24日)。この言を踏まえて言うなら、瀧太郎を含む学生作家たちの登場とその後の活躍によって、『三田文学』は、慶應義塾が出資する雑誌から、文字通りの意味で「三田山上」の文学雑誌として根づきを始めたのである。
だが、荷風が主幹として存分に手腕を振るえた時期は長くは続かなかった。はじめ『三田文学』は、鷗外の示唆もあって、当時としては高額の原稿料を支払っていた。慶應義塾が拠出した資金について、荷風には相当の裁量の余地が与えられていたようだ。しかし、『三田文学』にとって二度目の発禁となった谷崎潤一郎「颷風」(1911年10月号)を契機として、慶應義塾当局からの誌面への干渉が本格化したらしい。その翌月号に荷風が寄せた「谷崎潤一郎氏の作品」(1911年11月号)は、谷崎評価を長きにわたって決定づけた重要な評論とされてきたが、久保田万太郎によれば「“発売禁止”にからんでの学校当局に対するおもむろなる“回答”とわれわれには感じられた」(久保田万太郎「よしやわざくれ」)という。タイミングと内容を考え合わせれば、むべなるかなと言うべきだろう。
1911年12月8日付け小山内薫宛荷風書簡には、『三田文学』に、学校側の「検閲」があったことが記されている。こうした手続きがいつから始まったかは不明だが、「颷風」以降、学校当局のまなざしが厳しくなったことは事実だろう。雑誌の売れ行きが停滞した1914年ごろからは、会計的にも締め付けが行われたらしい。編集の独立性と雑誌経営の自律性を奪われてしまえば、主幹とは単なる現場責任者の謂に過ぎないものとなる。『夏すがた』発禁をめぐる事情もふくめ、荷風の心は『三田文学』から離れていった。1915年3月号から、奥付の編集発行人欄に永井壮吉の名前が消える。翌1916年2月には、荷風は『三田文学』と慶應義塾文科から立ち去ったのだった。
なお、『三田文学』創刊から荷風時代の誌面については、先掲の武藤康史「三田文学の歴史」が、詳細かつ丹念にたどり直している(『三田文学』2000年夏季号~2013年秋季号)。合わせて参照されたい。
■編集担当者について
▼永井荷風 1879(明治12)年~1959(昭和34)年
東京生まれ。本名は永井壮吉。高等商業学校附属外国語学校清語科除籍後、アメリカ・フランスに約5年間滞在。帰国後は海外での生活時に培った文学的素養と独自の見識を活かし、『あめりか物語』(1908)『ふらんす物語』(1909=発禁処分)『歓楽』(1909=発禁処分)など多くの作品を発表、自然主義全盛期の文壇で特筆すべき活躍を見せた。1910(明治43)年2月、森鷗外・上田敏の推薦で慶應義塾大学部文科教授に着任、『三田文学』初代主幹となる。ちなみに父・久一郎はかつて慶應義塾で学び、当時の塾長鎌田栄吉とも相識る関係だった。『三田文学』には「紅茶の後」(1910年5月号~11月号)「大窪日記」(「大窪だより」とも。1913年9月~1914年7月号)「日和下駄」(1914年8月号~1915年6月号)といったエッセイや小品・評論を多く寄稿した。『三田文学』発売元となった籾山書店の籾山仁三郎とは親しく交わり、慶應義塾辞職後は、旧友井上唖々と籾山とを誘って雑誌『文明』を創刊、『三田文学』時代には書かなかった長篇小説「腕くらべ」を連載するなど、自在の筆を揮った。「夜の車」(1931年8月号)以降『三田文学』に登場することはなかったが、1959年の逝去時には「永井荷風追悼号」が編まれ、荷風在職当時を知る教え子たちを含む30名の論文・回想を掲げて、故人の貢献を偲んだ。